2017年3月19日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 エレミヤ書14章14
    使徒言行録20章25〜32
●説教 「狼への対処のしかた」
 
     死の備え
 
 昔の映画ですが、世界のクロサワと言われた黒澤明監督の映画に「生きる」というのがありました。志村喬が主演した映画です。市役所に勤務していた主人公が、ある時体調不良で医者にかかったところ、医者は胃潰瘍だと言ったのですが、実は自分がガンにかかっており、しかも余命いくばくもないことを悟ります。やがて彼は、子どもたちのための公園を作ることに奔走し出します。公園が作られることは住民の要望でもありました。彼は、その公園を作ることを自分の最後の仕事としようと、いっしょうけんめいになる。そしてその公園が出来て、彼はそこで死にました。彼は死んだけれども、公園は残ったのでした。
 自分が、死を宣告されたらどうするだろうか。なにをしようとするだろうか。
 きょうの聖書の使徒パウロは、そういう状況であると言えます。前回学びましたように、パウロは第3回伝道旅行の帰途、エルサレムに向かう途中、かつて福音を宣べ伝えたエフェソの町の教会の長老たちを呼び寄せて話しをします。しかもパウロは、エルサレムで自分には投獄と苦難とが待ち受けていることを、聖霊によって予告されています。しかも、もう二度とエフェソの教会の長老たちと会うことはないだろうと悟っている。つまり、この先死が待っていることも察知していました。そういう中で、パウロは語り始めました。
 死期を悟った人が、何をしようとするか。パウロの場合は、教会を守るために働くということでした。このエフェソの教会の長老たちに語った言葉もそれでした。
 
     神のご計画
 
 さて、ここでパウロは自分の歩みを簡単に振り返っているわけです。そこでパウロが何を伝えたかということが言われています。27節です。パウロが教会の人々に伝えたのは、「神のご計画」であると言います。パウロはキリストの伝道者ですから、イエス・キリストの福音を宣べ伝えてきたはずです。それが神のご計画であるという。神のご計画と言うからには、神がこの世界と私たちに対して、ご計画を持っておられるということになります。
 実は、新約聖書には、神の計画という表現がよく出てまいります。たとえば次のような聖書個所です。
(Tコリント 2:1)"兄弟たち、わたしたちもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。"
(コロサイ 1:27)"この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。"
(Uテモテ 1:9-10)"神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。"
 もちろんまだまだあるわけですが、代表的なものを選んで申し上げました。すなわち、神のご計画とは、イエス・キリストのことであるのです。天地創造、宇宙の創造から始まって、今日に至るまで、神のご計画があった。それは、イエス・キリストをこの世に送ることであり、イエス・キリストによって私たちを救うというご計画です。
 よく、聖書を始めて読み始めた方が、旧約聖書から読み始めて、やがて「神はたくさん人を殺している」といってつまずく方がいます。そして途中でやめてしまう。しかしそれはまだ、話の途中です。神さまにはご計画がある。イエスさまの所まで読まなければ、ご計画が分かりません。
 またそのご計画は、この世界に対するものだけではなく、わたしたち一人一人に対してもあるものです。そのことは28節を見ると分かります。「聖霊は、神が御子の血によってご自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。」そう語っています。あなたがたをエフェソの教会のために働いているのは、神のご計画であったということです。決して偶然ではないのです。
 
     残忍な狼ども
 
 さて、パウロは次に、自分が去ったあとに、エフェソの教会に「残忍な狼ども」が入り込んで群れを荒らすようになることがわたしには分かっている、と語ります。これはただならぬことです。
 「残忍な狼ども」とは何を指すのか? どうやらそのあとの、邪説を唱える者たちのことのようです。しかもそれは教会の中からもそういう人が現れるという。そうして信徒を惑わすのだというのです。だから31節で「目を覚ましていなさい」、注意を怠らないようにしなさい、と命じています。そしてそのような狼に対する対処の仕方が、32節で言われています。「神とその恵みの言葉にあなたがたをゆだねます」と。
 そうすると、邪説を唱えて教会の群れを荒らす人々は、それとは違う人々であることが分かります。邪説とは何か? それは30節にありますように、「邪説を唱えて弟子たちを従わせる者」です。この所は、口語訳聖書では、「弟子たちを自分の方に、ひっぱり込もうとする者ら」と日本語に訳されています。すなわち、この残忍な狼は、神さまイエスさまのほうにではなく、人々を自分のほうに引っ張り込もうとする人たちのことであることが分かります。
 それはまるで何かの新興宗教の教祖のようにです。自分が神さまの地位に座って、自分をあがめさせる。それは真の神の名、イエスさまの名をさえ、自分の主張、自分をあがめさせるために使う。それはまことに人々を食い荒らす狼のようであるということです。
 突き詰めて言えば、自分が中心なのか、それとも神さまイエスさまが中心なのか、そのことによって分かるのです。自分の栄光を求めるのか、それとも神の栄光を求めるのか。邪説を唱える狼は自分の栄光を求める。しかしパウロは神の栄光、キリストの栄光を求めています。そこに真実があります。
 
     愛の涙
 
 パウロは31節で、「あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして目を覚ましていなさい」と語っています。
 「涙を流して教えてきた」という。この涙はなんの涙でしょうか?‥‥涙にもいろいろあります。悲しい涙、うれし涙、悔し涙、感動した涙‥‥。しかしいずれにしろ、そこに関心があり、心があるから涙を流すのでしょう。たとえば、同じことでも家族や身近な人に起こった出来事について、悲しみも嬉しさも増幅し、涙を流すのではないでしょうか。たとえば、我が子がつらい目に遭ったら涙を流すけれども、全然知らない人がつらい目に遭ったとしても涙を流すほどではないでしょう。そのように、関心があり、さらに愛しているから涙を流すのです。
 ですから、パウロはエフェソの教会の人たちのことを本当に心から思ってきた。だから涙を流しつつ、宣べ伝えたのです。愛を注いできたのです。
 
     御言葉の力
 
 そのパウロが今ここを去ろうとしています。そしてもう二度とこの人たちの顔を見ることがないと分かっています。しかも、今述べたような残忍な狼どもが入り込んでくることも予測できる。どうしたらいいのか?
 パウロは32節で語っています。「神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。」
 たとえば、親というものはいつまでも我が子のことが心配でしょうけれども、自分が死んでしまったらどうすることも出来ません。死んだあとも、時々子どものところに現れることはできません。
 戦国時代、全国を統一したのは豊臣秀吉でした。しかし秀吉にはなかなか子どもが生まれず、ようやく生まれた秀頼がまだ小さいうちに、病の床に伏せることとなりました。自分の死期の近いことを知った秀吉は、徳川家康、前田利家、毛利輝元ら、いわゆる五大老に我が子秀頼を盛り上げて豊臣家を守ってくれるよう約束させ、血判まで押させて、彼ら五大老に後事を託しました。しかし、秀吉の死後、ご存知のように家康が台頭し、それは守られませんでした。
 なかなか人間というものは頼りになりません。たとえ頼りになる人であったとしても、その人がまた死んだら、それでおしまいです。永遠に頼りになるということはありません。
 しかし、神さまは違います。神さまは永遠です。そして真実な方です。決して約束を破る方ではありません。「神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。」パウロは、神と、神の御言葉にあなたがたをゆだねると語ります。神の御言葉、それは聖書です。
 私たちはなぜ聖書を読むのでしょうか? この私は毎日聖書を読んでいます。ではなぜ毎日聖書を読むのか? それはお勤めのようなものだからでしょうか?‥‥たしかにそういう面もあるでしょう。あるいは、面白いからでしょうか?‥‥たしかにそれも外れてはいません。では、聖書を毎日読むと何か良いことがあるからでしょうか?‥‥まあ、そういうこともあります。
 しかし、なぜ聖書を読むのかという第一の理由は、神さまが神の御言葉に「聞け」と私たちを招いているからです。そこに私たちの道があるのだということです。
 たまに言われることがあります。「聖書を読んでもすぐ忘れる」と。確かに私も聖書を読んでもすぐ忘れる年頃となりました。しかしそのように言われた時、私はこのように答えます。「三日前の晩ご飯に何を食べたか覚えていますか? 覚えていなくても、それはちゃんと栄養となって体を養っているでしょう。それと同じように、神の御言葉を読んで忘れても、それはちゃんと心の栄養、信仰の栄養となっているんですよ」と。知らずに養われているのです。
 神の御言葉である聖書を読んで、神に託す。神に託すということは、未来を託すことです。この一週間も、主に託して歩んで参りたいと思います。


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