礼拝説教 2017年3月12日 主日礼拝

「決められた道〜キリストの体なる教会のために〜」
 聖書 使徒言行録20章13〜24  (旧約 ダニエル書12章13)

13 さて、わたしたちは先に船に乗り込み、アソスに向けて船出した。パウロをそこから乗船させる予定であった。これは、パウロ自身が徒歩で旅行するつもりで、そう指示しておいたからである。
14 アソスでパウロと落ち合ったので、わたしたちは彼を船に乗せてミティレネに着いた。
15 翌日、そこを船出し、キオス島の沖を過ぎ、その次の日サモス島に寄港し、更にその翌日にはミレトスに到着した。
16 パウロは、アジア州で時を費やさないように、エフェソには寄らないで航海することに決めていたからである。できれば五旬祭にはエルサレムに着いていたかったので、旅を急いだのである。
17 パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。
18 長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。
19 すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。
20 役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。
21 神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。
22 そして今、わたしは、”霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。
23 ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。
24 しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。





     エルサレムに帰路を急ぐパウロ

 パウロの第3回世界伝道旅行も終わりに近づいてきました。前回のトロアスでの主日礼拝の後、パウロはアジア州(現在のトルコ)沿岸を南下していきます。アソスでは再びルカたちはパウロと合流し、船で南下していきます。アソス、ミティレネ、サモス島、ミレトスと。この辺の書き方はたいへん細かく詳しく書いています。この使徒言行録を書いたルカが同行しているからです。このことから、ルカという人がたいへんものごとを正確に記録することの出来る人であることが分かります。すると、あのルカによる福音書も、ルカはイエスさまに関する様々な資料にあたり、また多くの人に取材して、正確に再現しようとして書いたのであろうと推測することができます。
 16節には、「できれば五旬祭にはエルサレムに着いていたかったので旅を急いだ」と書かれています。それでエフェソにも寄らないでエルサレムに急いでいます。

     なぜエルサレムに?

 なぜパウロは、そんなにも急いでエルサレムへと向かうのでしょうか? しかも喜ばしいことが待っているわけでもなさそうなのです。23節で「投獄と苦難とがわたしを待ち受けている」と語っています。25節では、エフェソの長老たちに向かって「あなたがたが二度と私の顔を見ることはないと私には分かっています」と述べています。すなわちエルサレムに行くことによって、パウロは命を落とすことになるかもしれないのです。それなのに、なぜエルサレムへと急ぐのか?何をしに行くのか?
 その理由は使徒言行録には書かれていません。しかしパウロの書いた手紙をいくつか読むと分かります。たとえば、コリントの信徒への第一の手紙16章1〜4節を見てみます。するとそこには、パウロがコリントの教会の人々に対して、「聖なる者たち」のための「募金」すなわち献金を週の初めの日毎に、すなわち主日礼拝のたびに各自収入に応じてささげ、取っておくように命じています。そしてその「聖なる者たち」というのは、エルサレムの教会の者たちのことであることが分かります。つまり、エルサレムの教会のための献金を集めるように命じています。
 コリントの信徒への第一の手紙は、パウロのこの第3回世界伝道旅行の前半、エフェソ滞在中に書かれました。だからこの手紙を書いた後、パウロはコリントまで行ってその集めた献金を取りにいくのです。もちろん、献金を取りにいくことだけが目的ではありませんが。さらに、コリントの信徒への第二の手紙のほうの9章を読むと、そのことがまた記されています。この手紙も、この第3回世界伝道旅行の途中に書かれたといわれています。するとそこには、「聖なる者たちの不足しているものを補う」献金のことが書かれており、それは「神に対する多くの感謝」であると述べています。エルサレムの教会が欠乏していて、そのために献金することは神に対する感謝であると。
 さらにローマの信徒への手紙にも、エルサレムの教会への献金に触れている個所があります。ローマの信徒への手紙は、今度はコリント滞在中に書かれたものです。そこ15章25節と26節です。26節には、「マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意した」と書かれています。コリントはアカイア州の中にあります。マケドニア州とアカイア州というのは、今日のギリシャ全体とほぼ重なります。つまり、この地域の多くの教会が、エルサレムの教会のために献金を出した。そしてエルサレムの教会の中に、たいへん困窮している人々がいたことも分かります。
 こうして、パウロがエルサレムへと急ぐ理由が分かります。それは、財政的に困窮しているエルサレムの教会を助けるためです。献金を届けるためにエルサレムへと急いでいたことが分かります。

     献金を届ける理由

 ではパウロがエルサレムの教会に献金を集めて届ける理由は何でしょうか?
 一つは今見てきましたように、エルサレムの教会が経済的に苦境にあることです。とくに貧しい人が教会の中に多かった。その背景には、エルサレムの教会はユダヤにあるわけですから、常にユダヤ教の迫害や圧迫にさらされています。中には、職を解雇されたり、嫌がらせを受けて商売が成り立たなくなった人もいたことでしょう。そういう教会を援助するためにパウロは献金を、外にある教会に要請したのです。
 次に、ローマの信徒への手紙15章27節に書かれていることです。「異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。」‥‥キリストの福音はエルサレムからはじまりました。ペンテコステ(五旬祭)にエルサレムで集まっていたイエスさまの弟子たちに聖霊が降って、教会が誕生しました。そこからイエス・キリストの福音が宣べ伝えられ始めました。だから、コリントの教会も、マケドニア州にある教会も、ローマの教会も、エルサレムの教会に対する感謝をあらわすべきだということです。
 そして理由の三つ目は教会の一致です。世界どこにあっても教会は一つであるということです。一つの教会が苦境に陥っているのなら、そのためにできる援助をするのは当然だということです。キリストの教会は、一つであるからだ。それがパウロの考え方です。
 クリスチャンに国境はありません。私たちキリストを信じるものは、世界どこにあっても主にあって一つです。以前、スイスに行った時、そこのバプテスト教会の主日礼拝に出席しました。ドイツ語圏にありましたので、言葉は全然分かりませんでした。もっとも同行してくれた宣教師の先生が通訳をして下さいましたが。礼拝の形式も、自分の教会の形式とは違っていました。しかし讃美歌が歌われ、祈りがささげられ、言葉も分かりませんが、私たちは同じ主を信じ、同じ主を礼拝していることがすぐに実感できました。私たちは主イエス・キリストを信じるものとして、一つでした。
 パウロは、教会発祥の地であるエルサレムの教会が苦境に陥っているのを助けるのは当然のことであるとしています。現代はどうでしょうか。北朝鮮では、クリスチャンに対する信じられないような恐ろしい迫害があります。中国でもキリスト教会に対する圧迫が強まっています。イラクとシリアの一部を支配している「イスラム国」では、多くのキリスト教徒が殺され、また迫害されています。これらのキリスト信徒はみな兄弟姉妹です。私たちは、それらの地域の教会のために祈らなければなりません。
 パウロは、国境を越え民族を超えて、教会が一つであることを証ししています。それは単に一致したほうがよいから、ということではありません。教会がキリストの体だからです。
 (エフェソ1:23)「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」
 教会はイエス・キリストの体である。キリストの体は一つです。エルサレムの教会、エフェソの教会、フィリピの教会、コリントの教会と、キリストの体がバラバラにあるのではありません。キリストの体は一つです。それでどこにあっても教会は全体で一つです。だから苦境にあるエルサレムの教会を助けるために、とりわけエルサレムの教会に受けた恩返しのために、パウロは献金を集めて届けるために急いでいるのです。早く助けたいと。そこで待ち受けている危険をパウロは知っている。しかし行く。すなわち、命をかけてエルサレムへ行くのです。
 教会のために命をかけています。それはキリストの体だからです。自分が「教会はキリストの体」と書いたことを、パウロはその通り信じていることが分かります。ウソ偽りないのです。パウロにとって、教会に仕えることはキリストに仕えることである。ここに何の疑いもありません。
 私は、このことを知って、たいへん感動いたします。私たちは、ともすると教会というものが、この世のサークルか何かと同じもののように思ってしまうことがないでしょうか。何か教会のために奉仕をしたり、雑用をしたりすることを煩わしいことと思うことがないでしょうか。しかしパウロにとっては、教会に仕えることは、すなわちキリストに仕えることです。そこには何のためらいもありません。教会がキリストの体であると、本当に信じている姿がここにあります。

     エフェソの長老への告別説教

 さて、17節からの個所では、ミレトスにいるパウロが、エフェソの町の教会の長老たちを呼び寄せて話しをする場面となります。
 エフェソは、この旅の最初の頃、パウロが3年以上留まって伝道した町です。伝道旅行の中では、異例に長く滞在しています。そこの長老たちを呼んだ。ここで「長老」と呼ばれている人たちは、奉仕をする人たちの中でも中心的な人たちのことでしょう。役員さんと言っても間違っていないでしょう。そしてパウロが、その人たちに語った言葉がここで長く書き留められています。
 先ほど紹介しましたように、25節では「あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています」と語っています。つまり、エフェソの教会の長老たちに対する最後の言葉だということになります。それは、旧約聖書のあのモーセの告別説教である申命記をほうふつとさせます。アジア州の中心的教会であるエフェソの教会の長老たちに、最後の言葉を語ります。

     バトンタッチ

 そこでパウロが語り始めたことは、まず自分がいかにして主に仕えてきたか、ということでした。それは一見、自慢しているように読めないこともありません。しかしそれは間違った見方です。パウロは自らを(19節)「全く取るに足りないものと思い」と語っています。すなわち、ここでパウロが言いたいことは、自分は取るに足りないものであるが、涙を流しながら主にお仕えしてきた。だから、あなたがたもそうであってほしい、という願いなのです。
 つまり、自分が去った後の教会のことを託しているのです。パウロは自分の信仰だけを見ているのではありません。教会のことを見ているのです。教会が、キリストの体として立ち続けるために、主イエス・キリストをあかしし、伝道していく教会として立ち続けるために、自分が教会に仕えてきたように、あなたがたもそうであってほしいと。教会に仕えることは、キリストに仕えることだからです。
 パウロは、24節で「自分の決められた道を走り通し」と言っています。主が自分に与えられた、決められた道がある。それを自分は走り通したい。その結果、投獄され、苦しめられ、たとえ命を落としたとしても本望である。そこまでキリストを信頼しています。
 主は、私たち一人一人に、決められた道を用意して下さっているはずです。それは何であるのか。私について言えば、この逗子教会に遣わされたのも主が用意して下さっていた道であると思います。共に主の導きを求めていきたいと思います。

(2017年3月12日)


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