礼拝説教 2017年2月26日 主日礼拝

「神の居場所」
 聖書 使徒言行録19章23〜40  (旧約 歴代誌下6:33)

23 そのころ、この道のことでただならぬ騒動が起こった。
24 そのいきさつは次のとおりである。デメトリオという銀細工師が、アルテミスの神殿の模型を銀で造り、職人たちにかなり利益を得させていた。
25 彼は、この職人たちや、同じような仕事をしている者たちを集めて言った。「諸君、御承知のように、この仕事のお陰で、我々はもうけているのだが、
26 諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなどは神ではない』と言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。
27 これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるばかりでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう。」
28 これを聞いた人々はひどく腹を立て、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と叫びだした。
29 そして、町中が混乱してしまった。彼らは、パウロの同行者であるマケドニア人ガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって野外劇場になだれ込んだ。
30 パウロは群衆の中へ入っていこうとしたが、弟子たちはそうさせなかった。
31 他方、パウロの友人でアジア州の祭儀をつかさどる高官たちも、パウロに使いをやって、劇場に入らないようにと頼んだ。
32 さて、群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった。
33 そのとき、ユダヤ人が前へ押し出したアレクサンドロという男に、群衆の中のある者たちが話すように促したので、彼は手で制し、群衆に向かって弁明しようとした。
34 しかし、彼がユダヤ人であると知った群衆は一斉に、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と二時間ほども叫び続けた。
35 そこで、町の書記官が群衆をなだめて言った。「エフェソの諸君、エフェソの町が、偉大なアルテミスの神殿と天から降って来た御神体との守り役であることを、知らない者はないのだ。
36 これを否定することはできないのだから、静かにしなさい。決して無謀なことをしてはならない。
37 諸君がここへ連れて来た者たちは、神殿を荒らしたのでも、我々の女神を冒涜したのでもない。
38 デメトリオと仲間の職人が、だれかを訴え出たいのなら、決められた日に法廷は開かれるし、地方総督もいることだから、相手を訴え出なさい。
39 それ以外のことで更に要求があるなら、正式な会議で解決してもらうべきである。
40 本日のこの事態に関して、我々は暴動の罪に問われるおそれがある。この無秩序な集会のことで、何一つ弁解する理由はないからだ。」こう言って、書記官は集会を解散させた。





     反発と迫害

 本日はまた、キリスト教への反発と迫害が起こっています。反発とか迫害は、さまざまなきっかけで起こることが、今までの使徒言行録の学びからも分かりますが、今回は、キリスト伝道が商売に差し支えるという理由で反発が起こります。具体的に言うと、エフェソの町のアルテミス神殿の模型、これはわかりやすく言うと神棚ですね。その神棚を作って売っていた人たちが、このままでは神棚が売れなくなると危機感を持ったことがきっかけとなっています。それは、26節でキリストの伝道者であるパウロが「手で造ったものなどは神ではない」と言ったということにありました。
 本当のことを言えば、「手で造ったものなどは神ではない」のは真実です。聖書では、神さまが人間を造ったのであって、人間が神さまを造るのではありません。しかし人々には、この言葉は「神棚に神はいない」と受け取ったでしょう。それで、キリストを信じる人が増えるに従って、神棚の売れ行きが落ちる。これはゆゆしき問題だ、ということになったのです。

     アルテミス

 アルテミス。これはギリシャ神話の狩猟の女神です。また月の女神とも言われます。そして豊穣多産の神として崇められていたようです。そしてエフェソの町には、そのアルテミスの巨大な神殿が建っていました。この神殿は、エジプトのピラミッドなどと共に、古代世界の七不思議の一つに数えられています。一説によれば、その広さは縦115メートル、横55メートルもあったそうです。そしてその建物は、高さ18メートルの柱127本によって支えられていたそうです。内部は大理石で飾られ、高さ15メートルのアルテミス像が建っていたと言います。
 これは、当時の世界最大級の建物です。ですから、27節でデメトリオが「偉大な女神アルテミスの神殿」とか「全世界が崇めるこの女神」と言っているのも、あながち大げさなことではないと言えるでしょう。

     銀細工師ら

 そのアルテミスの神殿の模型、すなわち神棚をデメトリオという銀細工師が、職人たちを使って作っていた。しかしキリスト信徒が増えれば、神棚を買う人がだんだん少なくなっていって、自分たちはもうけが少なくなっていく。ひいては生活が苦しくなっていく。そういう心配をしたのです。それで彼は、自分のところの職人や、同業者たちを集めて騒動を起こしました。それがきょうの個所です。
 イエス・キリストを宣べ伝え、それを信じる人々が増えることによって、生活が立ちゆかなくなる人々の問題が、きょうの騒動の問題だと言ってよいでしょう。わたしたちは「そんなことはどうでも良い」「そんなもの売っている方が悪い。勝手に困れば良いのだ」と考えるのでしょうか? どう考えたら良いのでしょうか?
 以前にもご紹介しましたが、富山市に富山新庄教会があります。この教会は、もともと仏教の浄土真宗の僧侶、それも住職であった亀谷凌雲先生が開拓伝道してできた教会です。亀谷先生は、浄土真宗のお寺に生まれました。そしてその寺の住職の跡継ぎでした。しかし彼は、キリスト教と出会いました。そしてその教えに惹かれていくのです。お父さんの跡を継いで住職となりましたが、キリストへの求道心はやまず、ついに、「阿弥陀如来の真の姿はイエス・キリストであった」という真理を見出し、キリスト信徒となります。仏門は破門となり、彼は伝道者を目指し、牧師となります。そして、お母さんが、「頼むから家の近くでは伝道しないでくれ」と言ったそうですが、家の近くで教会を始めたのでした。それは、自分の生まれ育った地域に、真人の救い主であるイエス・キリストのことを宣べ伝えたいという思いがあったからだと思います。
 パウロも同じような心境だったのではないかと思います。本当の神ではないものの神棚を作っているような人こそ、真の神を知っていただきたいと。そして、神棚を作って商売をしている人たちが失業したとしても、その人たちがキリストを信じたなら、「明日のことを思い煩うな」とおっしゃる主イエスが、ちゃんと生きていけるようにして下さると、そのように信じていたに違いありません。

     騒動

 デメトリオらは、群衆を巻き込んで騒動を起こしました。そして、パウロの同行者であるガイオとアリスタルコを捕らえて劇場になだれ込みました。大糾弾集会でも開くつもりだったのでしょうか。あるいは、見せしめのための公開処刑でもするつもりだったのでしょうか。この劇場とは野外劇場で、5万人収容の大野外劇場だったそうです。いかにエフェソの町が繁栄していたか、そこからも分かります。そしてその群衆が、「エフェソ人のアルテミスは偉い方!」と言って叫び続けました。
 現代日本では、このような反発や迫害がありません。明治期、プロテスタントのキリスト教が日本に入ってきた頃には、多くの迫害や反発がありました。私のいた北陸でも、その当時は各地で反発や迫害があったようです。石川県の大聖寺(現在の加賀市)では、建築中の教会堂が、群衆によって根こそぎ川の中に投げ込まれるということまで起きました。しかし現在は、反発や迫害もありません。
 しかしこれを喜んで良いものでしょうか? 迫害がないということは、キリスト教などたいしたことないと見られているということではないでしょうか。神棚や仏壇を造っている人々の仕事を奪うほど、キリスト信徒は増えないと見られている。そういうことではないでしょうか。これは決して喜ぶべきことではないでしょう。本来ならば、神棚や仏壇を造っておられる方々、あるいは、そういう宗教関係で仕事をしている人たちが騒動を起こすほどの危機感を与えるぐらいでなければならないのではないかと思うのです。しかし、現状は伝道が停滞している。もっとも、仏教も神社も、現代日本人の信仰心がなくなっていくことに悩まされているのが現状かも知れません。

     神はどこに

 さて、デメトリオが言ったパウロの言葉、「手で造ったものなど神ではない」という26節の言葉に注目したいと思います。手で造ったものなど神ではない、神棚に神はいない。では、神はどこにおられるのか? わたしたちの信仰ではどういうことになるでしょうか?
 聖書では、神は天地宇宙の造り主です。そしてその宇宙を保っておられます。そして神は神の国、天国におられます。イスラエルのソロモン王は、エルサレムに最初に神殿を建てましたが、その神殿奉献の祈りの中で、次のように神さまに申し上げています。(歴代誌下6:18)「神は果たして人間と共に地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることができません。」
宇宙は神が造られたのですから、広大な宇宙さえ神をその中に納めてしまうことなどできません。これは真実です。しかしでは神は、どこか遠いところにいて、ただ遠くからわたしたちを見下ろしているだけかと言えばそうではありません。神は教会に満ちておられると聖書に書かれています。
(エフェソの信徒への手紙1:23)「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」
 もちろんここで言う「教会」とは建物のことではありません。教会とは、イエス・キリストを信じる者の群れのことです。それでイエスさまは次のようにおっしゃっています。
(マタイ18:20)「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
 キリストを信じる者が、主イエス・キリストの名によって集まる。すなわち、礼拝、祈祷会、信仰的交わりに、イエスさまもおられると約束しておられます。ですから、今ここに主イエスさまがいて下さる。さらに、それだけにとどまりません。そういう交わりではない時。わたしたちが一人でいる時はどうなのか。たとえば、パウロの書いたコリントの信徒への手紙1に書かれています。
(1コリント6:19〜20)「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」
 わたしたち自身が、キリストを信じることによって与えられた聖霊が宿られる神殿であるというのです。神殿が、神のおられる場所であるとすれば、わたしたち自身が聖霊なる神さまの神殿であるということです。本来、わたしたちは罪と穢れに満ちていて、とても聖霊なる神さまをお迎えすることができるような者ではありません。しかし、イエスさまが十字架によって罪を赦し、穢れを清めて下さった。その恵みを表しています。わたしたちは主イエスによって、自分自身の内側に聖霊が住まわれるほどにしていただいたということです。
 こうして、聖霊と共に歩み、キリストの体なる教会につながり、天地の造り主である父なる神を礼拝する。それで、神はここにおられるということができます。
 ちなみに、エフェソは、紀元3世紀には、キリスト教が人口の半数に達したようです。それはローマ帝国の迫害がしばしば起きた時代です。そういう苦難の中で、キリストを信じる人がさらに増えていった。神が共におられることを確認していったのです。わたしたちと共におられる主。その主の働きを証言するのが、証しです。このあと行われる修養会で、主の恵みを分かち合いたいと思います。

(2017年2月26日)


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