礼拝説教 2017年2月19日 主日礼拝

「名前の力〜祝福は苦難を糧として〜」
 聖書 使徒言行録19章11〜22  (旧約 申命記5:11)

11 神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。
12 彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。
13 ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言う者があった。
14 ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。
15 悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」
16 そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。
17 このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。
18 信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。
19 また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった。
20 このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。
21 このようなことがあった後、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、「わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない」と言った。
22 そして、自分に仕えている者の中から、テモテとエラストの二人をマケドニア州に送り出し、彼自身はしばらくアジア州にとどまっていた。





     主語は「神」

 パウロは小アジアの沿岸地方の中心都市、エフェソの町にて伝道いたしました。そしてそこで、今までになかったような、めざましい奇跡、常識を超えるような奇跡が起きたことが記録されています。それは驚くようなことの連続で、パウロが身につけていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気は癒やされ悪霊が出て行くというものでした。こういったことは、イエスさまの時にもなかったようなものです。ですから、このようなことが起きると、普通はパウロが特別な霊能力者として崇められ、教祖となることでしょう。
 しかしそのようなことには至っていません。そうではなくて、17節に書かれているように「主イエスの名が大いにあがめられるようになった」のでした。パウロではなくイエスさまが崇められた。なぜパウロが崇められるようにならなかったかと言えば、それはたとえば14章に書かれているリストラの町でパウロとバルナバが伝道した時、生まれつき足が悪くて歩いたことがない人をパウロが歩けるようにした時のことを例に挙げることができます。あのとき、リストラの町の人々は、バルナバとパウロを神だと思って礼拝しようとしました。そのときパウロとバルナバは、自分の服を裂き、声を大にして「私たちも、あなたがたと同じ人間に過ぎません」と叫び、真の神を信じるように説いたのでした。おそらくあのときと同じように、パウロは自分を拝もうとする人々に対して、必死になって自分ではなくイエス・キリストの名によるものであること、そしてイエス・キリストの名によって真の神を礼拝すべきことを説いたのでしょう。その結果、「主イエスの名が大いにあがめられるようになった」のです。
 そもそもきょうの11節冒頭には、「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡をおこなわれた」と、神が主語になっています。神がパウロを道具としてお用いになったのです。パウロに何か特別な能力があるのではありません。
 それにしても、神がパウロをお用いになったということは、パウロは教会の伝道者なのですから、やはり神はそのようにパウロを用いることによって、人々をイエス・キリストの信仰へと、そして教会を形作ることへと導いておられると思われます。

     パウロが遭遇した苦難

 さて、このような個所を読むと、パウロはまさに大きな祝福の中を歩んでいるように見えます。しかし実はそうではなかったのです。たとえば、パウロが書いたコリントの信徒への第一の手紙15章32節を見てみましょう(新約321頁)。すると、そこにはパウロがエフェソで野獣と闘ったと書かれています! 野獣と闘った‥‥いったいどういうことでしょうか?すぐに思いつくのは、後にローマ帝国内でキリスト教徒への迫害がはじまった時に、闘技場で見世物としてキリスト教徒がライオンと闘わせられたことです。パウロはこのエフェソでそのような目に遭ったのでしょうか? しかしそのようなことは書かれていませんし、この当時はまだそこまでの迫害ははじまっていないと思われますから、違うでしょう。
 すると、どういうことか? あるいは郊外で伝道していた時に、実際に狼などの野獣が襲ってきて、それと闘ったということなのか? それとも、野獣のように凶暴な人と闘ったということなのか?‥‥その辺は定かではありません。しかしいずれにしても、それは生きるか死ぬかの闘いであったことが、第1コリント書のその個所を読むと分かります。実はそういう目に遭っているのです。使徒言行録のきょうの個所には何も書かれていませんが。
そういうことで言うと、これも使徒言行録にはほとんど書かれていませんが、実はパウロはこれら一連の世界伝道旅行において、多くの苦難に遭遇しているのです。そのことは、コリントの信徒への第二の手紙11章23〜28節のところに書かれています。そこでパウロは、自分が何度も投獄されたこと、そしてさらに多くのムチ打ちの刑の処されたことを述べています。そしてたびたび死ぬような目に遭った、と。実はそんな苦しい目に遭っていたのです。
 具体的には、ユダヤ人から40に1つ足りないムチを受けたことが5度、その他のムチ打ちの刑に処されたことが3度‥‥これらのムチで打たれたら、痛いどころの騒ぎではないようです。皮が裂け血がほとばしるようなムチ打ちです。さらに石を投げつけられたことが1度、これはちょっと前使徒言行録14章でリストラの町で石を投げつけられて死んだかと思われたのですが、神のあわれみによって生き返らされたのでした。難船したことが三度。乗っていた船が難破したのです。また、一昼夜海上を漂ったことがあったという。夜も昼もですから、どんなに怖かったことでしょうか。絶望しないほうがふしぎな状態です。さらに続けてパウロはそこで「川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」と書き記しています。

     祝福は苦難を経て現れる

 言っておきますが、このコリントの信徒への第二の手紙をパウロが書いたのは、このエフェソを去ったあと、次の20章の頃であると推測されています。だからまだまだパウロの伝道は続くわけです。その途中にして、すでにこれだけの苦難、災難、迫害に遭っているのです。驚きです。にもかかわらず、使徒言行録ではそれらの災難について、あまり書いていません。なぜでしょうか?‥‥それは、そのような苦しみに遭うことは当たり前だと言わんばかりです。伝道者たるもの、当然苦しみに遭うのだ、キリストを信じていても当然苦しみはあるのだ、ということでしょう。そもそもイエスさまが、かつて弟子たちに対して、苦しみに遭うことを予告しておられました。そして、何よりもイエスさま御自身が苦しみを受けて十字架で死なれた。そのようなことを思いますと、苦しい目に遭うことは当然であるという前提で書かれているように思われます。
 また、ペトロの第一の手紙4:12〜13に次のように書かれています。「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。」そういうことですから、苦しい目に遭うことはあるのです。しかし苦しみは苦しみで終わることはありません。イエスさまが十字架の苦難を経て、復活の栄光にあずかったように。祝福は、苦難を通してやってくるのです。苦難の先に神の祝福が表れるのです。きょうの聖書個所で言えば、パウロが目覚ましく主によって用いられたのは、苦しみを経た結果の祝福です!
 アメリカの伝道者であるリック・ウォレン氏は、『人生を導く5つの目的』(パーパス・ドリブン・ジャパン)という本の中で、次のように書いています。(232〜233頁)‥‥「神は、ヨセフが牢屋に入れられないように彼を守ることもできました。ダニエルがライオンの穴に投げ込まれないように御手を動かすこともできました。エレミヤが泥の穴に投げ込まれないようにすることもできました。パウロを三度の難船から守ることもできました。三人のヘブル人の若者たちが、燃えさかる炉の中に投げ込まれないようにすることもできました。しかし、神はあえて、これらのことを許されたのです。それは、苦難を通して彼らがさらに神と親しくなるためでした。問題が起こると、私たちは神を見上げずにはいられなくなります。そして、自分ではなく神に寄り頼むようになります。」
 より深く神に信頼するために、より大きな神の祝福を受けるために、苦難というトンネルをくぐることが必要となるのです。使徒言行録は、苦難は当然のこととして、祝福のほうを注目しているのです。

     崇められるイエスの名

 さて、パウロの目覚ましい活躍を見て、それをまねした人が現れました。ユダヤ人の祈祷師という人です。エフェソの町にもユダヤ人は数多く住んでいたようで、そこには祈祷師もいました。この祈祷師というのは、日本で言えば拝み屋のような人たちです。彼らも、パウロのまねをして、「イエス・キリストの名」を使って悪霊を追い出そうとしました。しかしあべこべに悪霊によってひどい目に遭わされてしまいました。この出来事は、「主イエスの名によって」と言っても、そのイエスさまの名前を呪文のように使っても全く意味がないということです。
 呪文というのは、たとえば忍者が何かの呪文を唱えると自分を消すことができるとか、ハリー・ポッターの映画でも、魔法の呪文を唱えると不思議な現象を起こすことができるというものです。そのように、「イエス・キリスト」の名を使うことはできないということです。すなわち、そこにイエス・キリストへの信仰がなければならないのです。聖書は、そのことをここで伝えているのです。
 きょうの旧約聖書、申命記5:11の言葉は、十戒の中の言葉です。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」。信じてもいないのに、主の名を使ってもダメだということです。反対に、主イエス・キリストを信じる。その信仰によって主イエス・キリストの名にすがるならば、大きな力を与えられるのです。

(2017年2月19日)


[説教の見出しページに戻る]