礼拝説教 2017年2月12日 主日礼拝

「前座と真打ち」
 聖書 使徒言行録18章24〜19章10  (旧約 サムエル記上16:13)

24 さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。
25 彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。
26 このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。
27 それから、アポロがアカイア州に渡ることを望んでいたので、兄弟たちはアポロを励まし、かの地の弟子たちに彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。アポロはそこへ着くと、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた。
28 彼が聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せたからである。
19:1 アポロがコリントにいたときのことである。パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、
2 彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。
3 パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。
4 そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」
5 人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。
6 パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。
7 この人たちは、皆で十二人ほどであった。
8 パウロは会堂に入って、三か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした。
9 しかしある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた。
10 このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった。





     渡辺和子さん

 カトリック教会のシスターで、岡山のノートルダム清心学園理事長であった渡辺和子さんが、昨年12月30日に亡くなられたことは皆さんご存知だと思います。先週木曜日の毎日新聞に、その渡辺和子さんのことが載っていました。その記事のタイトルは、「2.26許しの往復書簡」というものでした。
 1936年(昭和11年)に起こった「2.26事件」。ここにおられる方の中には、そのことを覚えているという方は少ないと思います。しかしわたしが子どもの頃には、毎年この時期になると「2.26事件から○○年」というようなニュースが流れていたことを思い出します。2.26事件。それは、昭和11年2月26日に発生した、陸軍青年将校らによるクーデター未遂事件です。この事件では、高橋是清大蔵大臣などが殺されました。この事件をきっかけに、日本は軍部の発言力が増していき、時代は急速に戦争へと向かっていったと言われます。
 この反乱軍によって射殺された一人に、渡辺和子さんのお父さんである渡辺錠太郎陸軍教育総監がいました。反乱軍の兵士は、渡辺家に押し入り、当時9歳だった和子さんの目の前でお父さんを射殺しました。先週の毎日新聞の記事は、渡辺和子さんのお父さんを射殺した青年将校・安田優(ゆたか)少尉の弟さんと、渡辺和子さんの交流を書いたものでした。その青年将校の弟さんは葉山町に住む安田善三郎さんという人だということです。
 安田さんと渡辺和子さんとの出会いは、1986年7月に東京のお寺であった青年将校らの死後50年の法要だったそうです。初めて参列した和子さんを安田さんが案内することになったのですが、「申し訳なさと後ろめたさで安田優の弟は言えなかった」そうです。しかし、寺の境内で将校らの墓前に手を合わせる和子さんの姿を見て、「父親がひどい殺され方をしたのになぜ手を合わせられるのか」と涙があふれたそうです。そこで安田さんは初めて名乗り、「私が先にお父様の墓を参らなければいけないのに申しわけありません」と頭を下げたそうです。それ以来、30年間にわたってお二人の交流が続いたそうです。渡辺さんからは、手紙100通以上が届き、安田さんもそれに返信したそうです。そして安田さんは毎年のように自宅に渡辺さんを招いて夕食を共にしたそうです。そして、1991年にカトリックの洗礼を受けたそうです。
 私はこの新聞記事を読んで、あらためて、赦すということの尊さを知りました。憎しみからは何も生まれません。ただ、赦すことから尊いものが生まれます。そしてその赦しの中心には、イエス・キリストの十字架による赦しがあることは間違いありません。

     説教題「前座と真打ち」

 本日の説教題は「前座と真打ち」といたしました。何か落語の世界のようですが、落語の話しをしようというのではありません。落語では、実際は前座と真打ちの間に二つ目というのがあるそうですが。
 前座と真打ちとしましたのは、きょうの聖書個所に二つの洗礼が出てくるからです。二つの洗礼とは、一つは「ヨハネの洗礼」であり、もう一つは「主イエスの名による洗礼」です。このうちどちらが前座で、どちらが真打ちかは、もう言うまでもなく皆さんはお分かりと思います。しかしこのことは、私たちの人生にとっても大いに関係あることです。私たちにも前座があり、真打ちがあるということです。

     エフェソ

 使徒パウロは、前回の個所で第2回世界伝道旅行から戻り、そして再び世界伝道旅行に出かけます。前回の個所で、帰ってきてまたすぐに出かけた話になっています。そのパウロは、またアンティオキアから出発して、現在のトルコの国を通って巡回しながら、エフェソに向かいます。そのパウロが到着する前のエフェソの町でのキリスト教伝道の状況が、18章24節からのところに書かれています。
 エフェソは、この地方の中心都市でした。そしてやがて、この地方の中心的となる教会ができることになります。この町には、パウロが来る前に、アポロという人がイエス・キリストのことを宣べ伝えていたということがそこに書かれています。
 アポロという人は、たいへん力のある人だったようです。とくに、語る力、語る賜物を与えられていた人のようです。そのアポロがエフェソに来て、イエスさまのことを熱心に語った。しかし、25節には「ヨハネの洗礼しか知らなかった」と書かれています。この「ヨハネ」というのは、各福音書の最初のほうに登場する洗礼者ヨハネのことです。イエスさまがメシアであることを証しした人です。そのヨハネの洗礼しか知らなかった。つまり前座のところしか知らなかったという。それはどういうことか、ということについては後ほどお話しします。
 さて、そのエフェソにプリスキラとアクラ夫妻がいました。この二人は、コリントでパウロと出会って、同じテント造り職人としてパウロを助けた人です。最初は、アクラとプリスキラというように夫の名前が最初に出てきましたが、前回と今回は妻であるプリスキラの名前が最初に出てきます。おそらく、奥さんのほうが熱心でご主人を引っ張っていくタイプだったのかも知れません。この夫妻は、伝道者を支える人でした。
 この夫婦がアポロの話を聞いていて、何か違うことに気がついた。アポロはイエスさまのことを語っているが、何か違う。それが「ヨハネの洗礼しか知らなかった」という言葉に表れているのだと思います。そこで二人は、アポロに正確に「神の道」を語り聞かせた。イエス・キリストの福音が、「神の道」と言われていることに注目したいと思います。イエス・キリストは神に至る道です。

     二つの洗礼

 さて、アポロはその後コリントに行きました。そしてパウロが、そのあとエフェソに来る。そうして、何人かの「弟子」に会います。この「弟子」とはイエス・キリストを信じる者のことです。するとパウロは、なにかその信徒たちの信仰がおかしいことに気がついたのでしょう。イエス・キリストを信じているとはいうものの、ちょっとおかしい。それでパウロは彼らに尋ねました。「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか?」と。すると彼らの答えは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」。そして、彼らは、イエスの名による洗礼ではなく、ヨハネの洗礼しか受けていないことが分かった。

 ヨハネの洗礼とイエスさまの洗礼の違いは何でしょうか? 水をかけるという形式では同じです。しかし中身が違う。何が違うのか?
 まず「ヨハネの洗礼」とは何か?‥‥これは、福音書の最初のほうにさかのぼってみなければなりません。たとえばマタイによる福音書ですと3章1節〜12節、ルカによる福音書ですと3章1〜20節などを読むと見えてきます。そこで言われているのは、悔い改めです。そして行いです。悔い改めて行いを正せ、ということです。「神さま、言いつけにそむいて申しわけありませんでした。これからはちゃんと正しい行いをいたします!」というようなことです。今や、審判者・裁き主であるメシア(キリスト)が来た。それがイエスである。だから、ちゃんと正しい行いをしないとキリストに裁きを受けて滅びる。がんばれ!‥‥そういう信仰であると言えるでしょう。
 もっとわかりやすく言えば、ダメな人はイエスによって裁かれる、滅びるということです。ダメではダメだ、ということです。
 それに対して、「イエスの名による洗礼」という言葉があらわしていることは、ダメなあなたが救われる、ということです。あなたは、ただ十字架と復活のイエスさまの恵みを受け取るだけでよい。信じるだけでよい。ダメなあなたが、ダメなまま信じて洗礼を受ければ救われる。そうすれば、聖霊を受ける。‥‥これがイエスの名による洗礼です。福音です。良い知らせです。
 あなたがダメではなくなるように努力してから救われる、というのが、ヨハネの洗礼が意味するところです。それに対して、ダメなままでよい、そんなあなたを救ってくださるイエスさまを信じるだけで救われる。そのあと聖霊が整えてくださる。これがイエスの名による洗礼の意味するところです。アポロは前者であった。それに対して、パウロが後者を語った。

     聖霊を受ける

 そこで彼らは、イエス・キリストの名による洗礼を受けました。すると彼らに聖霊が降り、異言を語ったり預言をしたりしました。異言というのは、使徒言行録2章でペンテコステの時に聖霊が降って使徒たちが自分たちの知らない外国語で神の働きを語ったという、あのできごとです。預言は、神の言葉を語ることです。いずれも聖霊の賜物と呼ばれます。
 この出来事は、とても重要なことを教えています。すなわち、イエス・キリストを信じて、イエス・キリストの名による洗礼を受けたとき、聖霊を受けるということがはっきり分かるように書かれているということです。もちろん、前にも申し上げたように、聖霊の与える賜物は異言と預言だけではありません。ただしこのときは、ヨハネの洗礼とイエスさまの洗礼の違いが誰が見ても分かるように、誰が見ても分かるような聖霊の賜物である異言と預言が与えられた、ということです。
 神さまにさからい、神さまの願うように生きてこなかった罪人である人間。言葉を換えて言えば、ダメな人。しかしイエスさまを信じたとき、その罪人でありダメな人間であるこの私も、イエスさまによって受け入れられ、聖霊を与えられた。聖霊なる神さまが、私と共にいて下さるようになったのです。その聖霊なる神さまと共に歩んでいくのです。
 聖霊なる神さまが、このどうしようもない自分を変えて下さる。私たちは自分が神の御心に従って変えられることを祈り願うのです。そして神さまのお役に立つように導いて下さる。ここに希望があります。

(2017年2月12日)


[説教の見出しページに戻る]