礼拝説教 2017年2月5日 主日礼拝

「正直な言葉」
 聖書 使徒言行録18章12〜23  (旧約 詩編33:1)

12 ガリオンがアカイア州の地方総督であったときのことである。ユダヤ人たちが一団となってパウロを襲い、法廷に引き立てて行って、
13 「この男は、律法に違反するようなしかたで神をあがめるようにと、人々を唆しております」と言った。
14 パウロが話し始めようとしたとき、ガリオンはユダヤ人に向かって言った。「ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理するが、
15 問題が教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい。わたしは、そんなことの審判者になるつもりはない。」
16 そして、彼らを法廷から追い出した。
17 すると、群衆は会堂長のソステネを捕まえて、法廷の前で殴りつけた。しかし、ガリオンはそれに全く心を留めなかった。
18 パウロは、なおしばらくの間ここに滞在したが、やがて兄弟たちに別れを告げて、船でシリア州へ旅立った。プリスキラとアキラも同行した。パウロは誓願を立てていたので、ケンクレアイで髪を切った。
19 一行がエフェソに到着したとき、パウロは二人をそこに残して自分だけ会堂に入り、ユダヤ人と論じ合った。
20 人々はもうしばらく滞在するように願ったが、パウロはそれを断り、
21 「神の御心ならば、また戻って来ます」と言って別れを告げ、エフェソから船出した。
22 カイサリアに到着して、教会に挨拶をするためにエルサレムへ上り、アンティオキアに下った。
23 パウロはしばらくここで過ごした後、また旅に出て、ガラテヤやフリギアの地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力づけた。





     背後の神の手を見る

 現在、わたしたちはこの礼拝で使徒言行録を続けて読んでいます。そのとき、わたしたちはこの書物を、パウロをはじめとした伝道者の言わば「偉人伝」として読んでいるのでしょうか? それは違います。では、単なる教会の歴史を学んでいるということなのでしょうか? それも違います。そのようなことを学ぶためであるならば、なにも教会の礼拝に来なくてもよいだろうと思います。
 それではいったい私たちは、使徒言行録で何を見ようとしているのでしょうか? それは、聖霊の働きです。すなわち、主なる神さまの働きです。主が、使徒たち伝道者たちの働きを通して、どのように働いておられるのか、関わっておられるのかを読み取ろうとしているのです。この使徒言行録の連続講解説教を始める時に、「使徒行伝は聖霊行伝である」とおっしゃった、もと東神大学長の松永希久夫先生の言葉をご紹介いたしました。言うまでもなく、神さまをこの私たちの肉眼の目で見ることはできません。しかし、私たちは神さまが、イエスさまが、どのように背後で働いておられるかを学ぶのです。
 それはパウロや聖書の登場人物だけのことではありません。私たちに対しても、主は働いてくださっている。私たちの背後で、主がどのように関わっておられ、助けてくださり、導いてくださるかを見ることにつながります。
 さて、今日はどのようにして主が働いておられるのか。そのことを見失わないように読みたいと思います。

     迫害を免れる

 そういたしますと、今日はなんとパウロがユダヤ教徒によって捕らえられてしまうという迫害が起きます。このようなことは、今まで他の町でも何度も繰り返されてきたことです。しかし思い出したいことは、前回学んだ個所、9〜10節の主の言葉をパウロはいただいたのではなかったでしょうか? すなわち、「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。‥‥」という主の言葉です。「あなたを襲って危害を加える者はいない」と主がおっしゃったのに、パウロは捕らえられた。いったいそのときの主の約束は?‥‥そんな疑問が生じます。結果的には守られるわけですが。
 パウロを捕らえたユダヤ教徒たちは、その地方アカイア州の総督であったガリオンという人の所にパウロを連行し、告発いたします。
 さて、このガリオンという人ですが、この人はちょっと有名人だったようです。というのは、この人はセネカという人のお兄さんだったそうです。セネカは、哲学者であり政治家であり詩人であったという人です。後にキリスト教徒を迫害するローマ皇帝となるネロの子どもの頃の家庭教師もしました。そのセネカの兄でありました。そういう人とパウロの接点がここで出てくるわけです。
 しかも、近代になって、ガリオンがアカイア州の総督であったのが、紀元51年〜52年にかけてであることが分かったのです。そのことによって、パウロの活躍したのがいつごろであるかということも分かってきたのです。少なくとも、パウロがコリントで伝道していたのはそのとき、紀元51年〜52年頃であるということが。そうすると、イエスさまが十字架にかかられたのが紀元30年頃と考えられていますから、それから21〜22年経っていることになります。
 21〜22年前というのはどれぐらいの感覚かと考えてみると、今の私たちは2017年に生きています。それから21〜22年前というと、1995年〜1996年ということになります。1995年には、阪神・淡路大震災がありました。1996年には、アトランタオリンピックが開催されました。また「たまごっち」がヒットした年だそうです。そう考えますと、その頃生まれていなかったと言う人もこの中にはおられると思いますが、わたしなどからすると、ずいぶん最近のことのような気がいたします。そう考えると、使徒たちにしても、イエスさまが地上でご活躍なさり、十字架と復活を経て天に昇られたのも、ついこの間のことのように思えたことでしょう。そう考えると、なんだか聖書が生き生きとしてくるように思えないでしょうか。
 さて、その総督であるガリオンに、コリントのユダヤ教徒たちがパウロを告発いたしました。ところがガリオンは、それを取り合わなかったのです。それは、ユダヤ人たちの訴えは、ローマの法律に触れることではないと判断したからです。ユダヤ人たちの訴えは、ユダヤ人自身の宗教に関わる問題であって、それはユダヤ人内部の問題であり、ローマ帝国の法律の扱う事柄ではないと言っているのです。そして、彼らを法定から追い出した。
 このガリオンの処置は、全く法にのっとったものであります。だから当然といえば当然の判断なのですが、それが今まで当然になされていないことが多かったことを思い出してください。たとえば、フィリピの町でもパウロは訴えられましたが、そこではムチで打たれたあげく牢屋に入れられてしまいました。町の当局者が、群衆の暴動を恐れたからです。テサロニケでは、パウロの代わりにパウロをかくまったヤソンが捕らえられて訴えられ、ヤソンは保釈金を払うことになりました。‥‥そういう今までの経過を見ると、必ずしも法に従って正当に扱われてきたのではありません。しかしこのガリオンは、全く法に従って裁いています。
 それはまさに、前回パウロが主の言葉をいただいたとおりに守られたということができます。

     ソステネ

 そのようにして、ユダヤ教徒の告発は空振りに終わりました。そしてガリオンによって訴えた者たちは法廷から追い出されました。
 すると、16節ですが、群衆は会堂長のソステネを捕まえて、法廷の前で殴りつけたと書かれています。これはいったいどういうことなのか? ここで問題となるのは、会堂長のソステネを殴りつけた群衆とは、いったいだれなのか、ということです。この前の個所では、会堂長はクリスポという人でした。ところがこのクリスポは、一家を挙げて主イエスさまを信じるようになってしまったので、当然ユダヤ教の会堂長はやめさせられたものと思われます。だから、ソステネはそのクリスポの後任の会堂長だろうと思います。そのソステネが群衆から殴られた。なぜなのか? これには大きく言って、二つの考え方があります。
@ ユダヤ教徒がソステネを殴った。
 すなわち、パウロをガリオンに訴えたユダヤ教徒がソステネを殴ったという解釈です。そうすると、ソステネはユダヤ教の会堂長でありますから、仲間割れを起こしたということになります。会堂長は外国のユダヤ人社会においては、リーダー的役割を持っていたとも考えられますから、今回パウロを総督ガリオンに告発した時も彼らのリーダーであったと思われます。ところがその告発が失敗に終わった。それで怒ったユダヤ教徒が、自分たちのリーダーであるソステネを殴ったのではないかという解釈です。
A ギリシャ人がユダヤ人の会堂長ソステネを殴った。
 これは、実際にそのように書いている写本があるのです。ユダヤ教徒によるパウロの告発が失敗して、ユダヤ教徒がガリオンの法廷から追い出されました。そうすると、そのユダヤ教徒に対するギリシャ人の怒りが爆発した。そして、ユダヤ教徒のリーダーである会堂長ソステネを殴りつけたという解釈です。「いつもお前たちユダヤ人は問題ばかり起こす」というような怒りです。
 さて、もう一つの謎は、だとしたら、なぜソステネの名前がここに書き留められているかということです。それは、たいへん興味深いことですが、このときユダヤ人のリーダーとして暴行を受けたソステネが、キリスト者となり、さらにパウロの協力者となったと思われるからです。コリントの信徒への第一の手紙の冒頭(1:1)をご覧いただくと、パウロとソステネの連名で、この手紙を書いているのです。コリントにできた教会に、のちにパウロが書いている手紙、その冒頭に連名で出てくるのですから、おそらくそのソステネと、きょうの聖書のソステネは同一人物だと思われます。
 これは何を意味するか? すなわち、きょうの聖書個所でユダヤ人のリーダーとしてパウロを捕らえ、総督に告発したソステネが、群衆から暴行を受けたソステネが、のちにイエス・キリストを信じ、キリスト者となったということになります。すばらしいことではありませんか。まさに、かつてキリスト教会を激しく迫害していたパウロが、イエスさまによってキリスト信徒となり、キリストの伝道者となったようにです。
 ですから、どんな人でも希望があるのです。今私たちの身の回りに、キリスト教に反発し、受け付けない人がいるとしても、その人でも主は変えることがおできになるのです。

     コリントでの主のわざまとめ

 さて、コリントの町で、私たちはどのような主の働きを見ることができるでしょうか。9〜10節で語られた主の言葉。その通りに、パウロは迫害から守られました。主の言葉の真実が証しされました。そして、パウロを訴えた人が、キリスト信徒となった。そのような主のわざを見出すことができます。
 いずれも主のなさったことです。私たちは、私たちの毎日の生活の中で、主の働きを見出す者でありたいと思います。

     戻るパウロ

 パウロはコリントでの伝道の働きを終え、帰路に就きます。なぜここで戻っていくか、理由は書かれていないから分かりませんが、もしかしたら教会の中心であるエルサレムに行く必要が生じたのかも知れません。コリントで出会った協力者、プリスキラとアキラ夫妻も同行いたしました。
 そして、ケンクレアイまで来たときに、パウロは髪を切ったと書かれています。誓願を立てていたからだと。「誓願」というのは、神さまに対して誓いの祈りをすることです。ここでは、願いがかなうまで髪を切らず、またぶどう酒や濃い酒を飲まないという「ナジル人の誓願」と言われるものを神さまに対してしたのでしょう。おそらくヨーロッパ伝道において、神さまのお守りを期待し、自らをその伝道のために献げる約束をした。そのヨーロッパ伝道が守られたことを感謝し、誓願を解いて、神さまに献げ物をしたはずです。

     正直な言葉

 そしてさらにパウロはエフェソの町まで来ました。ここにはやがて、小アジアの拠点となる教会が誕生することになります。そのエフェソの町に初めてやって来ました。そしてここでもまず、ユダヤ教の会堂に行って、ユダヤ人と論じ合いました。すると人々は、パウロにもうしばらく滞在するよう願いました。しかしパウロは、「神の御心ならば、また戻ってきます」と答えました。(21節)
 これはどういう答えでしょうか。日本では、だいたい「もう戻って来ない」の意味になるでしょう。しかしここではパウロは、本当のことを言っているのです。パウロとすればエフェソで伝道を始めたばかりです。もっともっと、イエスさまのことについて話したかったでしょう。しかし理由は書かれていませんが、どうやら急いでエルサレムに行く必要があったらしい。だったら「また来ます」と答えても良いように思いますが、では確実にまた来れるかというと、それは分かりません。来たいと思っても、たとえばパウロが病気になったり、あるいは死んでしまったらもう来ることができません。あるいはそうではなくても、神がお許しにならなければ、来たいと思っても来ることができない。ですからパウロは本当のことを言った。「神の御心ならば、また戻ってきます」と。
 ここでもパウロは、人々の目と心を神さまのほうに向けさせているのです。見えない神を。私たちは、うかうかしているとすぐにこの世のことばかりに心を奪われて、神さまのことを忘れてしまう。そういう私たちの心を、パウロは見抜いていて、神のほうに向けさせている。そういう言葉だと思います。
 神の御心ならば‥‥。私たちは、神の御心ならば、祈りが何でもかなえられることを知っています。神の御心ならば、何を願いますか? 神の御心ならば、どうぞ私の家族をみんな救ってください、そしてこの町の人すべてを救ってください、キリストのもとへ導いてくださいと祈りませんか? 神の御心ならば。神の御心を求める者でありたいと思います。

(2017年2月5日)


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