礼拝説教 2017年1月22日 主日礼拝

「去る人、残る人」
 聖書 使徒言行録17章26−34  (旧約 ハガイ書2:19)

26 神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。
27 これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。
28 皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。
29 わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。
30 さて、神はこのような無知の時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。
31 それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」
32 死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。
33 それで、パウロはその場を立ち去った。





     民族と国境

 パウロは、アテネの議会であるアレオパゴスにおいて、キリスト信仰について語る機会を与えられました。文化と学問の大都市アテネにおいて、聖書についてほとんど何も知らない議員や有識者を前に、福音を語る機会を与えられたのです。そのパウロの演説の続きです。アテネに来た時、この町の至る所にギリシャ神話の神々の多くの偶像や祠(ほこら)があるのを見て、パウロは憤慨しました。しかしパウロは、アテネの人々のそのような偶像信仰を非難するのではなく、相手を尊重し理解できるように話し始めました。
 これはとても大切なことであり、参考になることだと思います。私たちも、日本という八百万の神々の世界に生きているわけですが、人々が拝んでいるものが本当の神さまではないと言って頭ごなしに攻撃したりしたら、誰も耳を傾けないでしょう。私たちがかつてそうであったように、人々は真の神さまもイエスさまも知らないのです。本当の神さまではないと私たちは知っているけれども、本人たちは知らないのです。それをどのように分かるように伝えるか、ということは、私たちにとってもとても大切なことに違いありません。
 さて、前回パウロは、アテネの町に「知られざる神に」と書かれた祭壇(祠または社)があったことを切り口にして、「あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせします」と言って語りました。そして今日のところですが、26節〜27節でパウロはたいへん興味深いことを語っています。つまり、神が一人の人、すなわちアダムからさまざまな民族を作り出し、国境を決めて住まわせているのは、神を求めさせるためであったと語っていることです。これはたいへん驚くべきことではないでしょうか。なぜ、いろいろな人種や民族が存在するのか。それは神を求めさせるためだったと!
 旧約聖書の創世記の11章を読むと、そこは有名なバベルの塔の物語が書かれています。神さまは人間を祝福し、世界中に広がることを期待されました。しかし人間は、それに逆らい、全地に散らされるのを免れようとしてバベルの塔を作り始めました。それで神さまは、人間の言葉を乱して、さまざまな言語にわけ、強制的に全地に散らされました。今日のパウロの演説によれば、なぜ神がそのように言葉をわけ民族に分けて住まわせたかと言えば、それは人間が神を求めるようになるためだというのです。そして、「探し求めさえすれば、神を見出すことができるように」そうされたというのです!
 これはユダヤ人が聞いたら、腰を抜かしそうになるような言葉です。真の神はただ一人であり、それは自分たちユダヤ人が信じている真の神だけだと。しかしたしかに、世界のどの国に行っても、神があり、宗教が存在いたします。日本には神道があり、インドにはヒンズー教の神々がいます。もちろんそれは天地の造り主である真の神ではない。しかしそれは、真の神を求めることにつながっているということになります。なぜ、世界どの国に行っても宗教が存在し、いろいろな神があるのか? それは、真の神を求めさせるためであり、さらに、探し求めさえすれば神を見出すことができるのだと!

     しかし今や時が来た

 じゃあ、何も聖書を読まなくても神に出会うことができるのではないか。そんな印象も与えます。しかしそれはこれまでの時代であって、今からは違うというのがパウロの言っていることです。自然に神を求めるだけでは、大切なお方にたどり着くことができません。それは、救い主イエス・キリストにたどり着くことができないのです。
 パウロはここでイエスさまの名前を出しておりません。いや、名前を出す前に話しを区切られてしまったと言うべきでしょう。パウロがここでは31節で「先にお選びになった一人の方」と言っていますが、これがイエスさまのことです。今までは、それぞれが神を求めていれば良かった。しかし今や時代が変わった。それは、「先にお選びになった一人の方」によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからだ、と。
 神はいつまでも人間の罪を放っておかれない。罪と悪に満ちたこの世界を、いつまでもこのままにしておかれない。この世を裁かれる時が決められた。終わりの日が近づいている。それに備えなさい、と言っているのです。そのためにパウロはこのように宣べ伝えている。その一人のお方を。そしてパウロが、「神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです」と、ここまで語ったところ、人々の態度が変わりました。ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。そういう結果になりました。

     立ち去る人々

 死んだ者が復活した、よみがえった‥‥彼らにはバカバカしく聞こえたのでしょう。「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」‥‥この言い方は、日本でも同じですが、もう聞く必要はないという意味で使われますね。
 パウロは、偶像礼拝をしているアテネの人々を軽んじることなく、なるべく相手の心を理解するように語ってきました。知恵と知識を重んじるアテネの人々のために、理性に訴え、道理を持って語りました。なるべく相手が理解しやすいように語ってきたのです。しかし死者の復活、すなわちそれはイエスさまの十字架と復活のことですが、それを語ると聞き手の多くは、もう聞かないということになったのです。
 これはしかたがないことです。いくら相手の気持ちを理解し、理解できるように語ったとしても、イエスさまの十字架と復活を語らないわけにはいきません。なぜなら、それが救いの中心だからです。それが伝道の中心だからです。それを語らないわけにはいかないのです。
 それは今日の日本でも同じです。教会も、キリスト教主義学校も、なるべく現代日本人に理解しやすい形、受け入れられやすい言葉で宣べ伝えています。たとえば道徳的にキリスト教を語るという方法があります。「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」とか、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」というような山上の垂訓の中のイエスさまの言葉は、多くの人に感銘を与えます。しかし、そこからさらに踏み込んで、イエスさまの十字架と復活に話しが及ぶと、きょうの聖書のアテネ人と同じような反応が返ってくることでしょう。
 しかしそれは仕方がないことです。復活ということを言えば、みんなバカバカしいと思うから語らないというわけにはいかないのです。十字架で人間の罪を背負われたと語る。つまり、私たちがみな罪人であるということを語る。そうすると反発が起きます。「わたしは罪など犯したことはない!」と。そして復活を語ると、「そんなことはありえない」と思われます。しかしそれは仕方がないのです。
 そしてそのときキリストを信じなかったとしても、それはムダではないということも事実です。きょうの聖書でも、多くの人は去りましたが、パウロに着いていって信仰に入った人も何人かいました。

     実を結んだ種まき

 のちにギリシャはどうなったでしょうか。キリスト教の国になったのです。キリスト教の教派は、大きく言うと3つに分かれています。カトリックとプロテスタント、そして正教会です。正教会は「ギリシャ正教」とも言います。ロシア正教もギリシャ正教なんですね。この時アテネでは、少数の人がイエスさまを信じただけだったかも知れません。しかしそれはやがて、豊かな実を結ぶこととなったのです。
 伝道は決してムダではありません。そのときは、キリストの十字架と復活につまづいても、やがてそれが人の心の中で芽を出し、成長していくということがあるのです。

 牧野 泰牧師(東京の西多摩郡日の出町の日の出福音教会の牧師)という先生がいました。この人は、クリスチャンになる前は熱心な神道信者であった。そして神主になることにあこがれ、国学院大学の神職養成部を卒業しました。そして、あこがれの伊勢神宮を志望しましたが、時あたかも太平洋戦争の末期で、召集令状が来て軍隊に入りました。しかし日本は敗戦。「あれほど全国民が必勝を信じていたのに、ついに神風も吹かなかったのか・・・・。」そう思ったそうです。「とくに惟神(かんながら)の道を信奉し、神社の神こそ絶対神であると確信していた私は、約半年間、夢遊病者のように腑抜け人間になって迷い歩きました。私を裏切った神など神ではない、本当の神はどこにいるのか! と」こののち、彼は約二年間、様々な宗教遍歴をする。曹洞宗の講話会、真言宗の山籠、生長(せいちょう)の家の法話、立正佼成会の法座、創価学会の折伏(しゃくふく)、モルモン教の伝道、ものみの塔の集会、カトリックのミサ・・・・。
 しかし、どの会合に出ても、納得のいく神を教えてくれなかった。心は荒(すさ)んだ。そんなおり、彼は郵便局に勤めるようになっていたので、労働運動に参加するようになった。労働運動にこそ日本の明日はある、とまで思うようになっていた。ところが、その職場に一人のクリスチャンがいて、彼に言った。「牧野君。君はよく民主主義、民主主義というけれど、民主主義の基本はキリスト教から来ているのだから、教会に行ってみないと本当のことはわからないよ」。「私は唖然としました。かつて私が目の敵にしていたあのキリスト教が、いま自分が最も情熱を傾けている労働運動の基本である民主主義のお手本であるなんて・・・・」。こうして彼は、その友に誘われて、はじめて教会の門をくぐったのである。何度か通っているうちに、今まで彼の生きてきた世界とは全く違う世界だと思うようになった。やがて、天地の創造主なる神の代わりに被造物なる人間の神を拝み、これに仕えてきた自分の姿に彼は気づかされる。
 聖書の第一巻を開いたときに、『元始(はじめ)に神天地を創造(つくり)たまえり』と記されています。そしてまた、黙示録には、『我はアルパなり、オメガなり、始なり、終なり』という言葉が出ています。ちっぽけな私が、あれやこれやと頭の中で模索しなくても、"わたしがお前を造ったのだよ"と、神さまは仰せになっていたのでした。そして、聖書を読み進んで使徒行伝17:22までくると、そこはまさに、私たちが今読んでいる、パウロがアテネの人々に語っている演説です。その言葉が先生の心に突き刺さったそうです。こうして先生は、自分が知らずに拝んでいたおかたが、じつは聖書の教える創造主なる神であられることを知ったのでした。そして悔い改めて、真の神を受け入れる者となったのでした。彼はこう述べています。「日本には社が十数万、お寺も何十万もあります。そこにお参りする人々が、神の神、仏の仏であられる真の神、天地の創造主を拝む者となられますよう、日本の全クリスチャンは心からの祈りをささげなくてはならないと思うのです」(『信徒の友』誌、一九八三年一月号より‥‥「レムナント」より)。
 できるだけ分かりやすく、相手が理解できるように語る。しかし、「信じる」ということは、やはり自然に信じるようになるということでもないようです。決断のいることです。そこにはやはり、飛躍がある。今までの自分の世界から、神の世界、イエス・キリストの世界へと飛躍することが必要となります。それについては、私たちにはどうすることもできません。あとは主にゆだねるしかありません。主が心を開いてくださるように、と祈るのです。
 そういう私たちも、いつの間にか現実の世界に戻ってしまっているということがあります。私たちも、主を信じることへと飛躍が必要であると言えます。

(2017年1月22日)


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