礼拝説教 2017年1月8日 主日礼拝

「聖書再発見」
 聖書 使徒言行録17章10−15  (旧約 列王記下22:8−11)

10 兄弟たちは、直ちに夜のうちにパウロとシラスをベレアへ送り出した。二人はそこへ到着すると、ユダヤ人の会堂に入った。
11 ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。
12 そこで、そのうちの多くの人が信じ、ギリシア人の上流婦人や男たちも少なからず信仰に入った。
13 ところが、テサロニケのユダヤ人たちは、ベレアでもパウロによって神の言葉が宣べ伝えられていることを知ると、そこへも押しかけて来て、群衆を扇動し騒がせた。
14 それで、兄弟たちは直ちにパウロを送り出して、海岸の地方へ行かせたが、シラスとテモテはベレアに残った。
15 パウロに付き添った人々は、彼をアテネまで連れて行った。そしてできるだけ早く来るようにという、シラスとテモテに対するパウロの指示を受けて帰って行った。





     祝福は困難を経てもたらされる

 アジアで伝道していたパウロとシラスは、主によってマケドニアへ、すなわちヨーロッパへ渡るよう促され、そちらに渡っていきました。そしてフィリピ、テサロニケ、そして今日のベレアへと歩んできました。しかし、フィリピでも、テサロニケでも、今日のベレアでも、どこでも迫害が起こります。主の導きによってこれらの町に行ったのに、そのように迫害に遭う。これはいったいどういうことでしょうか? フィリピでは鞭で打たれ、投獄までされました。主イエスに従い、聖霊の導きに従って行っているのに、なぜそのような苦しみに遭うのでしょうか?
 しかしここは迫害の苦しみだけ見てはなりません。恵み、祝福のほうに目をとめなければなりません。すると、フィリピではリディアという婦人が主イエスを信じたことを皮切りに教会の群れが誕生しました。また、テサロニケにも、のちにパウロが非常に信頼する教会が誕生しました。そのように、伝道が祝福され、実を結んでいるのです。これは伝道者であるパウロにとって、この上ない喜びだったでしょう。
 わたしたちは、そのように、祝福は困難を通してもたらされることを学ばなくてはなりません。寒い冬を経て、桜が開花するようにです。
 それゆえ平坦で、何も問題が起きないことが祝福とは限らないのです。モーセとイスラエルの民が海岸に追い詰められて、万事休すと思われた時に、神が目の前の海を二つに分けて道を作られたように。アッシリアの軍隊がエルサレムを包囲し、もはや絶体絶命と思われた時に、主がヒゼキヤ王の祈りを聞かれて、アッシリアの軍隊を撃ち倒されたように。聖書は、困難と危機を通して主の恵みと祝福が現れることを教えています。

     助け手

 さらに主は、各地で助け手を与えてくださっています。今、パウロとシラスが伝道しているところは、いずれも未知の土地です。未知の外国を行く。どんな土地なのか、どんな人たちが住んでいるのか、どんな危機が待ち受けているのか、何も分かりません。しかし主が共におられる。そして主が、二人を助ける人を備えてくださっているのが分かります。
 ヨーロッパ最初の伝道地フィリピでは、主はリディアを信仰に導いてくださいました。そしてリディアが家を教会のために提供し、そこが拠点となり、フィリピの教会になったと思われます。そのようなすばらしいことが起きるとは、誰が予想していたことでしょうか。
 また、次のテサロニケの町では、パウロの代わりにヤソンという人が反対者たちによって捕らえられました。彼はなぜ捕らえられたかというと、パウロたちに宿を提供していたからです。そしてそこがテサロニケに誕生した教会の拠点となっていたと思われます。そのようにしてヤソンという人を、主は信仰に導いてくださり、奉仕する者としてくださった。
 このように、主は未知の土地において、次々とイエス・キリストを信じる者を起こしてくださっています。これもまた困難を乗りこえて見ることのできた主の恵みです。
 さて、ヤソンという人についてもう少し見てみましょう。ヤソンの名前が出てくるのは、聖書ではもう一個所だけです。それはローマの信徒への手紙16章21節です。こう書かれています。(ロマ 16:21)「わたしの協力者テモテ、また同胞のルキオ、ヤソン、ソシパトロがあなたがたによろしくと言っています。」
パウロは、ヤソンが「同胞」であると手紙に書いています。「同胞」と訳しているのは、パウロと同じユダヤ人という意味にとっているのでしょうが、実はギリシャ語ではもう少し狭い意味であるようです。つまり「同族」とか「親類」という意味のようです。そうするとどういうことになるか。このヤソンが、同一人物だとすると、パウロは、見知らぬ土地であるヨーロッパのギリシャの町テサロニケに来て、偶然なのかどうか分かりませんが、親族のヤソンに出会ったのです。そしてここからは想像ですが、ヤソンに出会い、パウロたちはヤソンの家に世話になることができた。そしてヤソンもまたイエスさまを信じるようになった‥‥。
 そしてきょうの個所であるベレアの町ですが、ここでもどうやら協力者が与えられていたようです。それはこのあとのほうの使徒言行録20章4節になりますが、それはパウロの第3回伝道旅行の時のことです。(使 20:4)「同行した者は、ピロの子でベレア出身のソパトロ、テサロニケのアリスタルコとセクンド、デルベのガイオ、テモテ、それにアジア州出身のティキコとトロフィモであった。」‥‥と記されています。
 ここで「ベレア出身のソパトロ」という人がパウロと行動を共にしたと書かれていますが、先ほどご紹介したローマの信徒への手紙16章21節に「ソシパトロ」という名前の人がパウロの「同胞」すなわち「親族」として挙げられています。そして「ソパトロ」という名前と「ソシパトロ」という名前は同一人物とも考えられるのです。
 何が言いたいかと申しますと、パウロはテサロニケで偶然に親族のヤソンに出会った。そして次のベレアの町でも、親族のソパトロに出会っている。もしかすると、テサロニケのヤソンが、「ベレアには親族のソパトロがいるよ」と教えたのかも知れません。そしてベレアで、パウロはそのソパトロのところに世話になることができた。そしてソパトロもまたキリスト者となった。‥‥これは全くの想像ですが、そんなことも考えられるように思います。つまり、主は、パウロの行く先々で、助けになる人をちゃんと備えていてくださったと言えるのです。これは恵みです。
 同じように、主は、この私たちが主に従っていった時、そこにはちゃんと助け手を備えて下さるということができると思います。

     聖書を調べる

 さて、きょうの聖書個所であるベレアの町ですが、ここのユダヤ人はテサロニケのユダヤ人よりも素直であったと書かれています。素直というのは、偏見がなかったということでしょう。それで非常に熱心に御言葉を受け入れた。そして、本当にパウロたちの語る通りに、イエスが旧約聖書の約束したメシア=キリストであるかどうか、毎日聖書を調べていたと書かれています。
 それまでユダヤ人が教えられてきたメシア、救い主とは、政治的革命歌です。もう一度ユダヤ、イスラエルの国を再興してくれる輝かしい戦争指導者です。しかしパウロの語るメシア=イエスさまとは、そういう輝かしい指導者ではなかった。むしろ十字架にかかって殺されるメシアです。そして復活されて、世界のすべての人々を霊的に救うメシアです。そういうことは聞いたことがなかった。それで聖書を毎日真剣に調べたのです。
 私たちは、ユダヤ人というと、小さい頃から聖書(旧約聖書)を教え込まれて育ったと思っています。たしかにそうかもしれません。しかし、実はあまり教えられないところもあるそうです。つまりある個所はくわしく教えられるけれども、ある個所はあまり教えられない。「論語読みの論語知らず」という言葉がありますが、そういう面があるそうです。その読み方というのは、たとえばエホバの証人のような読み方だそうです。ヱホバの証人の方と話しをしますと、彼らはたいへん聖書にくわしいように感じる。しかし、「じゃあここについてはどうですか?」と、彼らがあまり読まない聖書個所を指摘すると、たちまち返答に窮する。つまり彼らは、上から教えられたところしか読まないし、知らない。それと似たような傾向があるそうです。
 具体的にいうと、たとえばイザヤ書53章などは、どう読んでも十字架のイエスさまのことを預言しているとしか読めません。使徒言行録8章で、エチオピア人の宦官がフィリポに解説を求めたのもその個所でした。そういうところは教えられてこなかった。だからこのベレアのユダヤ人たちは、偏見なく、すなおに聖書を調べて確認したのです。その結果、多くの人々がパウロのいうとおりだと悟り、イエスさまを信じるようになった。

     聖書再発見

 今日はもう一個所旧約聖書は、列王記下22:8〜11を読んでいただきました。これはユダの国のヨシュア王の時代のときのことです。この時代、ユダヤは国が傾いていました。そのとき、長い間忘れられていた主の律法の書、それは旧約聖書の律法ですが、その巻物が発見されたという出来事が記してある個所です。
 イスラエルの民にとって一番大切な律法、聖書が忘れ去られ、神殿の奥の方で埃をかぶっていたのです。それが再発見された。そしてそれがヨシュア王の前で朗読された。するとヨシュア王は、自分たちが神の御心をないがしろにしてきたことに気がつき、悔い改めた。これが、ヨシュア王の宗教改革と呼ばれる出来事の始まりです。
 いつの時代も、聖書に記されている神の言葉によって、物事が動かされていくのです。本当に人を変えることができるのです。

     聖書は神の言葉

 教会だけではなく、世の中でも「神さま」という言葉を使います。しかしその神は、どうやって知ることができるのでしょうか? 神とはどういう存在か、神は何ができるのか、神は何をお考えになり、何を人間に語りかけ、教えなさるのか? 神の意志は?‥‥それらのことを、人間はどうやって知ることができるのでしょうか?
 わたしが思うには、聖書以外に神の御心を知ることができるとは思えません。読めば読むほど、神を感じざるを得ません。しかも、真理を言い当てています。そのような書物が、この世の中に他にあるでしょうか?
 キリスト教は、他の宗教とどこが違うのでしょうか? たしかに教会堂という建物も違うし、見かけでいえばいろいろ違います。しかし決定的なことは、聖書があるということだと思います。旧約聖書と新約聖書がある。そこに神の意志が現れている。イエス・キリストという方を通して。
 わたしが若い時、キリストを求め始めた頃、大きな影響を受けたアメリカ人の宣教師の先生が言いました。「わたしは聖書にあるもの以外、ほしくはありません。」 この言葉はわたしにとって、とても印象的な言葉でした。「えっ?なんだって?聖書にあるもの以外、ほしくはない?‥‥そんなことってあるのか? 自分は欲しいものがいっぱいある。そんな心境になれるのだろうか? 信じられない‥‥」そう思ったのです。しかし、今になってみると、だんだんその言葉が真実であると思えるようになってきました。
 皆さんご存知ですが、ヘレン・ケラーという人がいました。2歳の時に高熱を発して髄膜炎にかかり、その結果、目が見えない、耳も聞こえない、しゃべることもできないという重い障害を負うことになりました。しかし、サリバン先生という助け手が与えられ、社会福祉活動家、教育家、著作家として活躍し、奇跡の人と呼ばれました。日本にも何度か訪れ、大きな影響を与えました。そのヘレン・ケラーが、自伝で次のように語っています。「聖書の中に発見した、まばゆいばかりの光をどのように説明すれば良いのだろうか? 何年も聖書を読むうちに、喜びと感銘は深まるばかり。聖書は、私にとって特別な愛読書となっている。‥‥聖書は、私に深い信念を与え、励ましてくれる。『見えるものは束の間のものであり、見えないものこそ永遠なのだ』と。」  

(2017年1月8日)


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