礼拝説教 2016年12月11日 主日礼拝

「獄中の賛美」
 聖書 使徒言行録16章25〜40  (旧約 ヨエル書3:5)

25 真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。
26 突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。
27 目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。
28 パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」
29 看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、
30 二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」
31 二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
32 そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。
33 まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。
34 この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。
35 朝になると、高官たちは下役たちを差し向けて、「あの者どもを釈放せよ」と言わせた。
36 それで、看守はパウロにこの言葉を伝えた。「高官たちが、あなたがたを釈放するようにと、言ってよこしました。さあ、牢から出て、安心して行きなさい。」
37 ところが、パウロは下役たちに言った。「高官たちは、ローマ帝国の市民権を持つわたしたちを裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ってから投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここへ来て、わたしたちを連れ出すべきだ。」
38 下役たちは、この言葉を高官たちに報告した。高官たちは、二人がローマ帝国の市民権を持つ者であることを聞いて恐れ、
39 出向いて来てわびを言い、二人を牢から連れ出し、町から出て行くように頼んだ。
40 牢を出た二人は、リディアの家に行って兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出発した。





     獄中の賛美

 25節に、獄中のパウロとシラスが賛美の歌を歌ったと書かれています。二人は、占いの霊に取りつかれていた女性から、イエス・キリストの名によって悪霊を追放し、悪霊の束縛から解くという良いことをしたのに捕らえられたのです。しかも無実の罪でです。そして鞭で打たれました。棒状の鞭で打たれたのです。背中はミミズ腫れとなり、激しく痛んだことでしょう。そして牢屋に入れられ、足かせをはめられました。劣悪な環境です。しかも二人はローマの市民権を持っていたのにもかかわらず、です。ローマ帝国では、容疑者に対して民主的な人権によって取り扱う裁判システムがありました。ただしそれは、ローマの市民権を持つ者だけに対してです。市当局は、二人にそのことを確認することもなく、鞭で打って投獄したのです。
 そう考えると、普通はそういう扱いを受けたことに対して、怒りが収まらないとともに、屈辱と悔しさでいっぱいとなるに違いありません。ところが、パウロとシラスは、怒るのでもなく、嘆くのでもなく、神への賛美の歌を歌ったというのです! 牢獄の一番奥の劣悪な場所で、鞭で打たれてミミズ腫れになって痛む体で、足かせをはめられながらも神を賛美した。これはいったいどういうことなのか。
 しかしその結果、そのあと圧倒的な神の働きが現れることとなりました。

     なぜ賛美

 なぜこんなひどい状況の中でも神を賛美することができるのか?「不当逮捕」だと叫んで訴えるのではなく、神を賛美して歌うのか?‥‥このことを考えてみましょう。
 まず、神を信じるとはどういうことでしょうか。世間一般で「神を信じる」というと、神の存在を信じる、というような意味で言われると思いますが、聖書では違います。新約聖書では、「神を信じる」というと、それは神がイエス・キリストのゆえに私の罪を赦して受け入れて下さること、そしてこの私を愛してくださることを信じるということです。
 そしてもう一つ、神を信じるというのは、「神にできないことは何一つない」(ルカ1:37)ことを信じるものです。この言葉は、天使ガブリエルがマリア様に告げた言葉です。
 この二つを合わせて考えると、神がこの罪人である私をイエス・キリストの十字架によって赦してくださり受け入れてくださった。それゆえ、神がこの私を愛してくださることを信じる。そして、神には何でもおできになるということを信じる。それが神を信じるということになります。
 そしてその神が、私たちに望んでおられることは何でしょうか。それは聖書が繰り返し書いているように、私たちが神を賛美することです。私たちが神を信じること。すなわち神を信頼すること。その結果、神を賛美すること。神を賛美するというのは、言い換えれば礼拝することです。そのようになります。
 そのことを、今回の不当な投獄について考えると、パウロとシラスは全く不当な扱いを受けましたが、そのことを主なる神さまはご存知であるということになります。そして主は、何でもおできになるのですから、その主を信じる。主が、この劣悪な牢獄から自分たちを救い出すことがおできなる。そのことを信じる。自分たちが鞭で打たれ、投獄されたことには、何らかの神のご計画があったに違いない。この投獄を通して、神が何かすばらしいことをなそうとしておられることを信じる。‥‥そういうことです。
 そう信じると、主を賛美することができます。聖書が求めているように、主を賛美することができる。そして新約聖書では、「賛美」は「感謝」と同じです。すなわち主に感謝できるのです。自分たちが無実の罪で捕らえられたことを、主に感謝。痛い鞭で打たれたことを感謝。劣悪な環境である牢獄に入れられたことを感謝。木の足かせをはめられていることを主に感謝。そこには神の何らかのご計画がある。きっとすばらしいことに変えられる。そのように信じることができる。感謝!賛美!
 マイナスの環境であっても、神に感謝し神を賛美することができる。

     主のみわざ

 それでパウロとシラスは、真夜中の牢獄の中で神への賛美の歌を歌い、神を信頼して祈っておりました。他の囚人たちは、それに耳を傾けて聞いていました。囚人たちは、劣悪な牢獄の中で、明日どうなるとも知れない不安と絶望の中に置かれていたことでしょう。そのような中で、パウロとシラスが歌う神への賛美と感謝の歌には、信じられないような思いとともに、心が癒やされるような思いがしたのではないでしょうか。
 二人は、賛美の歌を歌い、すべてを神にゆだねました。
 すると、驚くべきことが起こりました。大地震が起きたのです。そして牢屋の戸がみな開いてしまいました。おまけに囚人を牢屋につないでいた鎖も外れてしまった。それで、看守は驚いて、囚人が皆脱走してしまったと思い込み、もしそうなれば自分は死刑にされるということで、剣を抜いて自害しようとしました。絶望したのです。
 ところが、そこでパウロが大声で叫びました。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる!」‥‥看守はどんなに驚いたことでしょう。囚人たちが逃げ出せる状況なのに逃げ出さないで牢の中にいるという。普通なら、みな脱走してしまうでしょう。しかし逃げ出さずに、パウロとシラスのもとにいるという!そんなことがありうるのか?‥‥看守が入っていると、果たしてその通りだったのです。パウロのもとに囚人が従っている。
 このとき、パウロは一人の囚人に過ぎません。しかし、あたかもパウロがリーダーであるかのようです。そのように、危機にあっては、神を信じる者に求心力が働き、みな集まり、従うようになるのです。看守は、二人を牢から連れ出し、二人の前にひれ伏しました。そこになにか神の働きを見たのです。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか?」
 なんということでしょう!看守は、自らの魂の救いを求めて来たのです。まさにこのためにパウロとシラスは、無実の罪で牢獄に入れられたのでした。この看守が、そしてその家族がイエス・キリストを信じて、洗礼を受けるために! 看守は、二人を通して、主の働きを目の当たりにしました。それで素直に二人の話を聞き、主イエス・キリストを信じたのです。その家族もです。そういうすばらしいことが起きました。

     賛美の力

 おそらく、パウロとシラスが、自分たちがこのような迫害に遭い、投獄されたことに対して怒りでいっぱいになり、不平不満をつぶやいていたとしたら、このような神の奇跡は起こらなかったことでしょう。いや、神は奇跡をおこなうことができなかったでしょう。二人が、賛美と感謝ができる状況ではないのにもかかわらず、神を賛美して歌い、感謝したので、このような結果となったのです。イエスさまを信頼し、賛美して神にゆだねたので、神の力が現されたのです。
 福音書を読むと、賛美や感謝ができる状況でもないにもかかわらず、イエスさまが賛美し感謝されたことが書かれています。たとえば、ラザロが死んだ時のことです。イエスさまがラザロが葬られた墓の前に到着した時、すでに葬られてから四日も経っていました。しかしイエスさまは、ラザロが葬られた墓の入り口をふさぐ石をどけさせ、このように天の父なる神さまに祈りました。(ヨハネ11:41〜42)「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
 まだラザロが生き返っていないのに、先に神に感謝を述べておられます。それから、墓に向かって「ラザロ、出てきなさい」と命じると、ラザロがよみがえったのでした。
 また、イエスさまが使徒たととともに過ごした最後の晩餐のあと、イエスさまは賛美の歌を歌ってからオリーブ山の麓のゲッセマネの園に向かわれたと書かれています(マタイ26:30)。イエスさまは、このあとそこで逮捕され、そして十字架につけられることをご存知でした。そのような緊迫した状況であったのにもかかわらず、イエスさまは賛美の歌を歌われたのです。その結果、十字架がありました。しかしそのあと、復活という、ものすごい出来事が起こりました。
 これらの、死人のよみがえりや、十字架と復活という奇跡は、もちろんイエスさまでなければできないことです。しかし私たちも、どんな逆境においても、主を賛美し、主に感謝をすることによって、神の働きを見ることができる。聖書を読んでいるとそのことが分かってきます。

     賛美と感謝の実践

(1テサロニケ5:16〜18)「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
(Tテモテ 2:1)「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。」
(エフェソ 5:20)「そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」
(コロサイ 2:7)「キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。」
(フィリピ 4:6)「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」
‥‥いくらでも聖書では命じられています。
 喜ばしい時に主に感謝するのはたやすいことです。しかし、つらい時、苦しい時、試練に出会った時に神に感謝するのはむずかしいことです。しかし聖書の言葉を一つ一つ思い出し、神がわたしを愛しておられること、神にはできないことはないことを思い出します。そして、自分には納得できなくても、聖書が神を賛美し感謝することを求めているわけです。感謝がなかなかできない時は、賛美歌が役に立ちます。賛美歌でも、聖歌でも、ワーシップソングでもけっこうです。パウロとシラスも賛美の歌を歌ってから祈りました。ですから、なかなか感謝できない時は、まず讃美歌やワーシップソングを歌うのも良いと思います。
 むしろ、試練の時に神を賛美し感謝する。そうして、神がなにをなしてくださるかを期待したいと思います。そして、神がなしてくださったことを分かち合う、証しの時をぜひ持ちたいものです。

(2016年12月11日)


[説教の見出しページに戻る]