礼拝説教 2016年12月4日 主日礼拝

「神か富か」
 聖書 使徒言行録16章16〜24  (旧約 箴言16:16)

16 わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。
17 彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」
18 彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。
19 ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。
20 そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。
21 ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」
22 群衆も一緒になって二人を責め立てたので、高官たちは二人の衣服をはぎ取り、「鞭で打て」と命じた。
23 そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。
24 この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。





 フィリピの町において、イエスさまのことを宣べ伝えたパウロとシラスが、捕らえられ、鞭で打たれたあげくに牢獄に入れられるということが起こりました。きっかけは、「占いの霊に取りつかれている女奴隷」から、その占いの霊をイエス・キリストの名によって追い出したことでした。

     占いの霊

 聖書には、しばしば悪霊とか穢れた霊といったものが出てきます。ここでは「占いの霊」というものが出てきます。このような悪霊のたぐいに取りつかれたという人について、聖書の注解書や参考書には、精神疾患であるというようなことが書かれているものが多いです。古代人は、精神疾患を理解できず、悪霊によるものであると考える見方もあります。しかしそれは間違っていると私は思います。そのような見方は、悪霊というものが存在しないという前提に立っているように思われます。しかし聖書は、はっきりと、人間を神から引き離そうとする悪魔、そして悪霊について書いています。
 今日出てくるこの占いの霊に取りつかれた女奴隷ですが、具体的にこの女の人の占いとはどういうものだったのでしょうか。ここで「占いの霊」と日本語に訳されている言葉ですが、原文であるギリシャ語では「ピュソーン」という言葉になっています。これは何かというと、デルフォイという所がギリシャにあったのですが、それは、いわゆる神託をする巫女がいる場所です。そしてピュソーンというのは、そのデルフォイを守っていた大蛇のことです。
 要するに、この占いというのは、星占いとか、易とかいうような占いではなく、神のお告げを語る巫女さんなんです。本当の神のお告げであればそれは聖霊の働きによるものとなりますが、これはそうではありません。だから聖書は「占いの霊」と書いて、それが聖霊ではなく悪霊によって語っているものであることをはっきりさせているのです。
 実は私も、ある経験をしたことがあります。それは、神学校在学中、ある神学生がたいへん困った人でありました。プライベートな問題を含んでいますので、くわしくは申し上げられないのでご容赦いただきたいのですが、とにかく困った傾向のある人がいました。念のため申し上げておきますと、それは精神疾患ではありません。ある傾向です。しかもその人は、自分は時々聖霊の言葉を聞くというのです。私は興味を持って、それはどんな言葉かと聞くと、それはこれこれこういうことを語りかけてきたりするという。それを聞いて、私は、それは聖霊ではないと確信しました。しかもその人は、精神疾患があるのでもない。ということは、それは悪霊のたぐいだと私は直感いたしました。そして、ある時その人と夜中何時間も話し合うという時がありまして、私は困り果てて、聖書を思い出し、心の中で何度も何度もイエス・キリストの名によって悪霊がこの人から出て行くように祈りました。すると突然その人は部屋から出て行きました。そしてそれから、その人は困った人ではなくなりました。卒業してからも、たいへんすばらしい働きをする牧師になりました。そんなことを思い出します。
 そういうことですから、私は、これは何か精神疾患の人ではない、聖書が書いているとおりのことなのだと言うことができるのです。
 キリスト教というものを、なにか非常に知的なもの、倫理道徳であると考えるか違いますが、もちろんそういう面もあるでしょうが、聖書を素直に読んでいきますと、実は実際の私たちの生活に密着した、生きる力を与えられるものだということができます。イエス・キリストの名前には、そういう力があるということを覚えなくてはなりません。

     解放された女

 この占いの霊に取りつかれた女ですが、パウロたちにつきまとったと書かれています。そして「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と、大声で叫ぶ。こんなことを毎日繰り返すので、パウロは「たまりかねて」と書かれていますが、これは「困り果てて」とも訳すことができます。困ったんですね。何が困ったかと言えば、つきまとってはこんなことを叫ばれては、やはり困るでしょうね。
 しかし、この女の人が言っている言葉の内容は、ずばり真実を言い当てています。これは驚くべきことですが、しかし福音書を読んでも、人々がまだイエスさまのことをよく分かっていない時に、悪霊にとりつかれた人が、イエスさまを神の子、あるいは神の聖者と言い当てているということが書かれています。つまり、悪霊も霊の世界に属していますから、イエスさまが何者かを知っているということです。
 パウロはたまりかねて、この女の人に向かって命じたのですが、よく読むとそうではなく、「その霊に言った」と書かれています。つまり、女の人にとりついている悪霊に向かって言ったということです。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け!」すると即座に悪霊は彼女から出て行きました。注意していただきたいのは、パウロの力で悪霊が出て行ったのではないということです。「イエス・キリストの名」によって悪霊が出て行ったのです。そこを決して間違えてはなりません。

     異教社会の習慣と金銭的利益

 こうして占いの霊と呼ばれる悪霊にとりつかれていた彼女から悪霊が出て行きました。それはたいへんけっこうなことで、すばらしいことです。しかし同時に、彼女はもう「ご神託」をすることができなくなった。すなわち悪霊のささやきを聞くことができなくなったのです。
 そうするとこれに怒った人たちがいました。それが彼女の「主人たち」でした。彼女に占いをさせて、もうけていた人たちです。「主人たち」と複数で書かれていますから、何人もいたようです。彼女が占いができなくなって、収入の道が断たれた。それで怒りました。そしてパウロとシラスを捕まえて、町の当局に訴え出た。その訴えは、「自分たちがもうけられなくなった」というのでは相手にされませんから、パウロとシラスが外国人であって、ローマ帝国の習慣にはないものを宣伝しているというのでした。わかりやすく言えば、民族意識に訴えているのですね。
 そして、主人たちは群衆を扇動し、巻き込んで、騒ぎました。町の高官たちは、暴動になっては困りますから、パウロとシラスを捕らえて衣服をはぎ取り、鞭で打ちました。鞭というのは、ここの鞭という言葉は、「杖」とも訳すことができる言葉で、棒状の鞭であるようです。だから、イエスさまが打たれた残酷な鞭とは違います。しかし棒のような鞭で打たれるのですから、痛いには違いありません。なんの裁判もしないままに。ただ群衆をなだめるために。いいかげんなものです。こうしてパウロとシラスは投獄されてしまいました。

     神か富か

 さて、パウロとシラスが捕らえられた理由は、ただ今述べましたように、この占いの女性が占いができなくなってしまったために、彼女から利益を得ていた人たちが、収入の道が断たれたということにあります。パウロたちは、もちろん神の御心にしたがって、イエスさまの福音を宣べ伝えていました。しかしそれは、何も摩擦を起こさないというわけではありません。さまざまな摩擦を起こすことになる。しかし、そのような摩擦を引き起こし、伝道者自身が迫害をされても、キリストの福音が宣べ伝えられ、人が救われることには価値があるのです。
 そして、この女性の主人たちは、ではどうすればよいのか。主人たちも、彼女に起こった出来事を素直に見て、すばらしいと神を賛美して、真の神さまとイエスさまを信じれば良かったのだと、そう考えなければならないと思います。そして、では、この主人たちは、これからどのようにして生活の糧を得ていくことができるのか、ということです。結局ここに行き着くように思います。すなわち、イエス・キリストを信じるのは良いけれど、それで暮らしていけるのか、ということです。もう少し言えば、イエス・キリストは、私たちの生活のことも心配してくれるのか、ということになるでしょう。
 そしてそのことについてイエスさまは、大丈夫だと語って下さるということです。イエスさまは、「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:31〜33)とおっしゃっています。そして私自身、そのことが本当であることを経験してきました。また、兄弟姉妹たちが、この言葉どおりの経験をしたのを見聞きしてきました。
 それゆえ、この主人たちは、自分たちの生活ができなくなると言ってパウロたちを訴える必要はなかったのです。彼らもまたイエスさまを信じれば良かったのです。また、鞭で打たれ、投獄されたパウロとシラスにも、このあと神の奇跡が現れることになります。たしかにキリストを宣べ伝えたために、ひどい目に遭いました。しかしそれを上回る神の働きと恵みを見ることができる。それが信仰のすばらしさであると言うことができます。

(2016年12月4日)


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