礼拝説教 2016年11月27日 主日礼拝

「人の心の扉」
 聖書 使徒言行録16章11〜15  (旧約 イザヤ書33:13)

11 わたしたちはトロアスから船出してサモトラケ島に直航し、翌日ネアポリスの港に着き、
12 そこから、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピに行った。そして、この町に数日間滞在した。
13 安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。そして、わたしたちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした。
14 ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。
15 そして、彼女も家族の者も洗礼を受けたが、そのとき、「私が主を信ずる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってわたしたちを招待し、、無理に承知させた。





    主が人の心を開かれる

 「主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた」。14節にそう書かれています。「主が彼女の心を開かれた」。心を開かれた。主が、人の心の扉を開かれたということです。
 人の心の扉を開く。それはある意味、もっとも難しいことではないでしょうか。読売新聞の朝刊に「人生案内」という人生相談の欄があります。先週一週間のその欄を見ておりましたら、こんな内容になっています。月曜日の相談は、40代の主婦の相談で、夫に対する不満の相談でした。そして離婚を考えているというものでした。火曜日は、高校生の女子の相談で、自分の進路について、父が「勉強しろ」「集中力がない」「どこに行くのか」などとしつこく干渉してきて、もう我慢の限界だという相談でした。またその他の日は女性の相談で、仕事が忙しいがいっしょうけんめい家のことをしているつもりなのに、子供が寂しがって反抗するという相談。また別の日は、付き合っていた男性から、理由も言われずに突然別れを告げられたことへの悩みの相談でした。
 そのようにしてあらためて人生相談を見ておりますと、そのほとんどが人間関係の相談であることに気がつきます。そしてその原因は、言ってみれば、自分の気持ちが相手に伝わらない。なぜ伝わらないかと言えば、それは相手の心の扉が開かれないから、こちらの言うことが分かってもらえないということになるかと思います。そして相談への回答者は、いろいろなアドバイスをするのですが、その中で、相手の気持ちも考えてみることも必要ではないかというようなことがだいたい含まれています。要するに、お互い心の扉が閉まってしまっているということになります。
 そのようなことを考えてみますと、どなたも思い当たることが必ずあるはずです。人間の心ほどむずかしいものはないということを。しかしきょうの聖書個所には、主が心を開かれたと書いてあります。これはいったいどういうことかと思わないでしょうか。

    神にとっても

 「主が彼女の心を開かれた」という言葉を読むと、「神さまにはできないことがないのだから、そんなことは簡単なことでしょ」と思われる方もいるかも知れませんが、実はそんなに簡単なことではないのです。というのは、おそらく神さまにとって、もっとも手間がかかるのが、人の心の扉を開く、ということだろうからです。
 私たちの神さまは、天地宇宙の造り主であられますから、この大宇宙をお造りになりました。また、聖書を読んでも、すべてのものをお造りになりました。ノアの大洪水を起こして、この地上のすべてを水で覆い尽くすこともなさいました。アブラハムの時には、天から火を降らせてソドムとゴモラの町を滅ぼすこともなさいました。モーセを通して、海を二つにわけることもなさいました。イエスさま誕生の時は、天の星を動かして、東の国の博士たちを導くこともなさいました。また、イエスさまによって、病気を癒やされ、悪霊を追い出しになり、嵐を静められました。‥‥そのようなことは、神さまにとっては何でもないことです。
 しかしただ一つ、神さまにとって容易ではないことがあります。それが、人間の心です。光を造られ、宇宙を造られ、地球を造られ、星を動かし、何もできないことはない神さまが、苦労なさっていることが一つあります。それが、人の心です。神さまが人間を造られたのに、なぜなのか。それは人間に自由意志をお与えになったからです。神さまは人間をロボットのようにお造りになりませんでした。ロボットであれば、神さまの望んだとおりに動くようにプログラムしておけばよいでしょう。しかし、神さまは人間をご自分に似せて、自由意志をお与えになって造られました。自由意志というのは、自分で判断して行動する能力です。だからそれは、神さまの言うことを聞かないという判断をするかも知れないものをお造りになったのです。それが人間です。
 神さまは、人間に自由意志をお与えになりました。右に行くのか、左に行くのか、人間が自分で判断する。その上で、神さまを信じる道を選ぶことを期待して造られました。しかし人間がそれに背いてしまったのです。

     神の愛

 だったら、そのような人間を滅ぼしてしまえばよいのですが、そうはなさらなかった。滅ぼすのではなく、もう一度神を信じるように導くことをもって、救おうとされるのです。それはなぜか。それが愛ということです。神が愛であるからです。神にそむき、罪を犯し続ける私たち人間を、もう一度神を信じるように導かれる。神を愛するように導かれる。さまざまな出来事、さまざまな働きかけを通して、神を信じるように導かれる。
 導かれるのです。神を信じるように、人間の心を強制的にひっくり返して、神を信じるようなプログラムの回路を組み込まれるというのではない。人間が心の扉を開いて、神の言葉を聞こうとするように導かれるのです。言葉を換えていえば、段取りをなさるのです。

    フィリピにて

 さて、そうすると、きょうの個所の「主が彼女の心を開かれたので」というのは、主が、人の心を自由にコントロールできるということとは少し違うということになるでしょう。彼女の心が、その心の扉が開かれるまでには、主の愛と主の尊い導きの積み重ねがあったということを思うのです。
 きょうの聖書個所で、パウロとシラス、そしてテモテと、この使徒言行録を書いたルカは、今までのアジアを出て、初めてヨーロッパへと渡っていきました。「トロアス」というのは、現在のトルコにある町です。そこからパウロたちは船に乗ってヨーロッパへと渡っていきます。そしてフィリピの町に入ります。
 15節には、安息日に「祈りの場所があると思われる川岸に行った」と書かれています。これは、ユダヤ人は安息日、すなわち土曜日には礼拝を守ります。シナゴーグ、すなわちユダヤ教の会堂がある町では、ユダヤ人は会堂に集まって礼拝を守ります。しかし、会堂がない町ではどうしたかというと、河原に集まって祈りをささげていました。そしてフィリピの町にはユダヤ人の会堂がなかった。それで、パウロたちは川に行ってみたのです。
 外国でも、たいていの大きな町にはユダヤ人がいました。そしてユダヤ人が10人いれば、会堂を作ったそうです。なぜ10人しかいなくて会堂を得ることができたかというと、ユダヤ人は、収入の10分の1を神さまに献げた。すなわち、10分の1献金をするからです。そうして各地に会堂を作って、礼拝を守りました。これがユダヤ人の強いところです。
 しかしフィリピには会堂がありませんでした。これはおそらくフィリピには、ユダヤ人が10人も住んでいなかったということでしょう。だからこのとき、安息日に川岸で祈りをささげている人たちは10名に満たなかったと思われます。しかもそこに集まっていたのは、女性ばかりでした。男性は何をしていたのか。男性のユダヤ教徒は町に一人もいなかったのか。それとも信仰がそれほど熱心ではなかったのか。その辺はわかりません。
 その、細々と集まっている婦人たちに、イエス・キリストのことを話したのです。すると、紫布の商人であるリディアという人、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話イエスさまの話を注意深く聞いたというのです。そしてイエス・キリストを信じた。


(日本聖書協会『新共同訳聖書』より)


     一人のために

 さて、少し振り返ってみますと、ここに来る前、パウロたちは、アジア州で伝道しようと思ったら聖霊によって止められ、ビティニア州に入ろうとしたらやはり聖霊によってそちらではないと阻止されました。そして、パウロが主の幻を見せられました。それはマケドニア人の幻手、一人のマケドニア人が立って「マケドニア州に渡ってきて、わたしたちを助けてください」という幻でした。それでそれを主の導きだと確信し、船でこのヨーロッパへ渡り、マケドニア州の町フィリピに来たわけです。そして、リディアがイエスさまを信じるに至る‥‥。
 そうすると、主が、パウロたちに他に行くことを許さず、直ちにマケドニアへ渡っていくように導かれたのは、このリディアにキリストの福音を聞かせるためであったのではないかと思われるのです。
 これは驚くべきことではないでしょうか!海の向こうの、たった一人の女性の回心のために、主は、パウロたち伝道者一行を向かわせたのです。他へ行くのではなく、ただこのリディアにキリストを宣べ伝えさせるために。それは、ちょうどこの時でなくてはならなかったからです。今までも主がずっとリディアを導いてこられた。イエス・キリストを信じるようになるために、準備をし、ご計画を定め、導いてこられたのです。
 そしてちょうどこのとき、このタイミングでパウロたちが来なければならなかった。それは、ちょうどこの時が、リディアが主イエス・キリストの信仰を受け入れるタイミングだったからです。そしてこの安息日の朝、町の外の川の川岸で、パウロたちはたまたまそこに祈りに来ていた婦人たちにイエスさまのことを語った。しかしそれは偶然ではなく、まさにそれこそが主のご計画だったのです。そしてリディアは、主イエス・キリストを信じ、おそらくその場に来ていた家族、それは夫はいないようですから、彼女の娘とか、使用人の女性とかでしょう、その人たちも主を信じて洗礼を受けるに至ったのです。

     主の愛がわたしにも

 何と大がかりな主のご計画、導きでしょう。たった一人のために、そこまで主はなさるのかと。しかしそのことは、人一人が主イエス・キリストを信じるようになることは、それほどの価値があると、神さまは考えておられるということになります。
 イエスさまはおっしゃいました。(ルカ 15:10)「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」‥‥そこで言われているのは、「一人」です。ひとりひとりが主の愛の対象です。すなわち、この大がかりな導きの神のご計画は、リディアに限ったことではないということです。このわたしたちひとりひとりも、そのような神の忍耐強い導きとご計画とタイミングがあったのです。
 だいたい私たちは、どうして神を信じ、キリストを信じるようになったのでしょうか?
 私のことで言えば、あの日あのとき、あの人と出会っていなければキリストを信じるようになっていたかどうか分からない。そう考えていくと、実に主は、このわたしたちひとりひとりに対して、大がかりなご計画を持たれ、いろいろな人を動員して信仰へと導かれたことが分かってきます。自由意志を与えられたために、それを神の御心とは反対のほうに用い、神を信じないで生きてきた。そんな私たちの心の扉を開くために、主は大がかりなご計画を、この私たちに立ててくださったのです。キリストに出会わせるために。
 一人の人が神を信じ、イエス・キリストを信じるということは、神さまにとってそれほど尊いということです。それほどにわたしたちひとりひとりを愛しておられるということです。その主の愛に感謝と言うほかありません。私たちも他の人の救いのために、主に用いられる者でありたいと思います。

(2016年11月27日)


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