礼拝説教 2016年11月6日 主日礼拝

「神の計画」
 聖書 使徒言行録16章1〜10  (旧約 創世記12章3)

1 パウロはデルベにもリストラにも行った。そこに、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父に持つ、テモテという弟子がいた。
2 彼は、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人であった。
3 パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。
4 彼らは方々の町を巡回して、エルサレムの使徒と長老たちが決めた規定を守るようにと、人々に伝えた。
5 こうして、教会は信仰を強められ、日ごとに人数が増えていった。
6 さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。
7 ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。
8 それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った。
9 その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。
10 パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。





     新たな仲間

 バルナバおよびマルコと別れたパウロは、シラスと共に、前回の第一回世界伝道の旅で伝道した地域に向かっていきました。そしてリストラの町で、テモテという若きキリスト信徒と出会います。このテモテこそ、こののちパウロの生涯を通じての協力者となる若者です。この時テモテは20歳ほどだったと思われます。テモテはギリシア人を父とし、ユダヤ人を母として生まれました。そして最初にキリスト信徒となったのは、彼の祖母のロイスであり、また母のユニケでした。
 パウロはここで、このテモテという人を得ます。この第2回目の世界伝道の旅に出発する前に、バルナバおよびマルコと別れることとなりましたが、主は、テモテという忠実な信徒を備えておられたのです。まさに主の山に備えあり、ということでしょう。
 3節には、そのテモテに割礼を受けさせたということが書かれています。ユダヤ人の男性が皆割礼を受けているように、テモテにも割礼を受けさせた。その理由は、「ユダヤ人の手前」と書かれています。この「ユダヤ人の手前」というのは、割礼を受けていないと格好が悪いから、というような意味ではありません。これから先、ユダヤ人にも異邦人にもイエス・キリストのことを宣べ伝えていく。そのとき、ユダヤ人は、割礼を受けていない者の語る神さまの話など聞かないからです。だからユダヤ人のためにテモテにも割礼を授けたのです。
 それはパウロの伝道の方針でありました。(1コリント9:20)「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。」‥‥ユダヤ人にイエス・キリストのことを語るために、その話を聞いてもらうために、ユダヤ人になるために割礼を受けさせたのです。
 このことから、伝道するときには、相手の立場を理解して語っていくものだということを教えられます。日本人には日本人のように。日本人に理解できるように。最初から日本の文化を否定して語っても、耳を傾ける人は少ないでしょう。本日このあと、幼児祝福式があります。これも日本の七五三に代わるものとして日本の教会が始めたものです。そして幼子を本当に祝福して下さるのも、イエスさまであるに違いありません。
 さて、20節では主語が「わたしたち」になっています。ということは、パウロ、シラスの一行に、この使徒言行録を書いたルカも加わったということです。こうして、パウロはさらに新しい仲間を神さまによって加えられて、進んで参ります。

     聖霊の導き

 ここで注目したいことは、6節と7節です。6節「アジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられた」‥‥?!これはいったいどういうことでしょう?さらに、7節「ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。」‥‥??!
(プロジェクターを見ながら)
 イエスさまは、復活されたあと弟子たちに向かって、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)とお命じになりました。イエス・キリストのことを世界のすべての人々に宣べ伝えなさいとおっしゃったのです。それなのに、アジア州とピティニア州は、キリストが宣べ伝えられなくて良いということでしょうか?
 そういうことではありません。もちろんイエス・キリストの福音は世界のすべての人々に宣べ伝えられなければなりません。しかしここに書かれていることは、主が聖霊を通して、パウロたちの伝道の順序を示されたということに違いありません。つまり、今向かうべき所は、アジア州ではなく、ビティニア州でもない。まず海を渡って、マケドニア州に行きなさいということです。そちらが急を要しているのだ、と。それで、主がパウロに、マケドニア人の幻をお見せになったのです。

     助けてください

 パウロが見た幻は、一人のマケドニア人が立って、「私たちを助けてください」と懇願している幻でした。マケドニア州というのは、フィリピやテサロニケ、ベレアなどの町がある所です。もうそちらはヨーロッパになります。「私たちを助けてください」という幻。何から助けてくれ、ということなのでしょうか? 災害が発生したから救援に来てくれと言うのでしょうか? あるいは飢饉が発生したから食糧を持ってきてくれというのでしょうか?それとも、貧しくて食べる物がないから助けてくれ、ということなのでしょうか?‥‥しかし、この先パウロたちはマケドニア州にわたっていくのですが、どこにもそのようなことは書かれていません。何か危険が迫っている人々を助けたということは書かれていません。
 すると、この幻の中のマケドニア人がパウロたちに懇願した「私たちを助けてください」というのは、いったい何から助けてくださいということなのでしょうか?  この先のマケドニアの町々で、パウロたちがしたことは、今までと同じようにイエス・キリストの福音を宣べ伝えるということでした。そして、そのイエスさまを信じる人々が次々と出てくるということだけです。
 そうすると、この「助けてください」という言葉は、言い換えれば「救ってください」ということなのではないでしょうか。罪からの救い、魂の滅びからの救い、悪魔からの救い‥‥そのような意味での救いです。「滅び行くこの私を助けてください!」‥‥と、そういうことであろうと思います。
 ちょうどそのとき、マケドニアに、そのような救いを求めている魂が、今すぐ救ってほしいという魂の叫びを持っている人がいたのではないかと思います。そしてその人にキリストの福音を知らせるために、行きなさいという主の導き、神のご計画であったと思います。
 人間の魂が救われる、それは小さなことではありません。

     ボランティアにて

 今から21年前、あの阪神淡路大震災が起こったとき、2か月経って、私たち夫婦も、輪島からボランティアに行きました。YMCAがボランティアの仲介をしていたので、そこにいって、ある家に参りました。その家は地震で損傷を受け、家には亀裂が入り、もはや取り壊さなくてはならない状態でした。そのために、家の中を整理して、必要なものを選んで運び出す作業というのを手伝いました。
 そうすると、その家の老婦人が、地震の後の体験を話してくれました。その方は、クリスチャンでした。しかし長いこと教会に通っていないという人でした。しかし、あの震災が起きたとき、心が動揺して、どうにもならなくなったそうです。それで教会に行って聖書のお話を聞きたいと思ったそうです。それで近くの教会に行ってみたそうです。するとその教会は、避難所となっていてごった返していた。そして「聖書のお話を聞きたい」と言ったところ、「今はそれどころではない」ということを言われたそうです。それでたいへんがっかりして帰ってきたのだそうです。彼女の家も地震で傾き、家の中はメチャメチャになっていた。しかし彼女は何よりも、魂が飢え渇き、救いを求めていた。まさに「助けてください」ということです。
 これは何か人を批判してこう言うのではありません。自戒の意味を込めて申し上げたのです。もちろん、避難所に場所を提供するのも大切なことでしょう。しかし、教会には教会にしかできないことがあるのです。それがイエス・キリストの福音であり、神の言葉であるはずです。それは決して小さなことではありません。いや、それこそが人を救うものです。

     魂の救い

 かつて私が大学を卒業して、会社に就職し、社会人として歩み出したとき、体を壊して会社を辞めなければならなくなりました。そして郷里に戻りました。そのとき私は、非常な挫折感を味わいました。自分が人生の落伍者であるかのように思われました。心にぽっかりと穴が開いたような状態でした。そのときのわたしに必要なものは、この世の物質的なものではありませんでした。悪いのですが、この世の慰めも心を埋めることはできませんでした。そういうわたしを救ったのは、まさしくキリストその方でありました。そのときの私に必要なものは、食べ物でもなく、お金でもなく、やさしい言葉なのでもなく、その絶望的にまでむなしくなってしまった心を満たすものでした。それが、イエス・キリストご自身であったのです。
 パウロが見た幻の中のマケドニア人は懇願しました。「マケドニア州に渡ってきて、わたしたちを助けてください」。救ってください。こんにちも、自覚しているかいないかは別として、多くの人の魂が、そのように叫んでいるのだと思います。それができるのは、イエス・キリストご自身です。そしてそのキリストの福音を託されているのが、わたしたち教会です。

(2016年11月6日)


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