礼拝説教 2016年10月23日 主日礼拝

「求心力と遠心力〜主の御心により〜」
 聖書 使徒言行録15章22〜35  (旧約 イザヤ書43章18〜19)

22 そこで、使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することを決定した。選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスで、兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たちである。
23 使徒たちは、次の手紙を彼らに託した。「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。
24 聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらに行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです。
25 それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させて、そちらに派遣することを、わたしたちは満場一致で決定しました。
26 このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たちです。
27 それで、ユダとシラスを選んで派遣しますが、彼らは同じことを口頭でも説明するでしょう。
28 聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。
29 すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」
30 さて、彼ら一同は見送りを受けて出発し、アンティオキアに到着すると、信者全体を集めて手紙を手渡した。
31 彼らはそれを読み、励ましに満ちた決定を知って喜んだ。
32 ユダとシラスは預言する者でもあったので、いろいろと話をして兄弟たちを励まし力づけ、
33 しばらくここに滞在した後、兄弟たちから送別の挨拶を受けて見送られ、自分たちを派遣した人々のところへ帰って行った。
35 しかし、パウロとバルナバはアンティオキアにとどまって教え、他の多くの人と一緒に主の言葉の福音を告げ知らせた。





     主の御心の示され方

 私たちが救われるためには、イエス・キリストを信じるだけで十分なのか、あるいはユダヤ人と同じように、割礼を受けてモーセの律法を守る必要があるのか。キリストの福音が世界に向かって宣べ伝えられ、異邦人にも広がっていく中で、そのことをめぐって教会の会議で議論がなされました。そして、救われるためにはイエス・キリストを信じるだけで十分であるということで決着しました。すなわち、私たちが救われるかどうかという、最も大切なことが、会議で決められたのです。
 考えてみると、救われるということは、人間が神さまに受け入れられるかどうかということですから、そういう神さまのことを人間が会議で決めるというのは、なんだかおかしなことのように思えます。それは神さまが決めることですから。そうすると私たちは、なぜ神さまが直接教会の人々に語られないのか?と思わないでしょうか。人間が、あーでもない、こーでもないと議論するより、神さまが直接語りかけられるのが一番確実で、早いのではないかと。
 たとえば、主がモーセに語りかけられたように。主は、ミディアンの地でのんびりと羊を飼って暮らしていたモーセを召し出すために、親しく語られました。そしてのちに、モーセの律法を呼ばれる神の掟について、こと細かにお語りになりました。あるいはまた、主は、きょうも登場するパウロに最初お語りになったように語られなかったのでしょうか。キリスト教会を迫害するために、ダマスコの街へ向かって行くパウロに光の中から現れ、「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」という言葉で始まるように、あのときイエスさまは直接親しくパウロにお語りになりました。
 主は、なぜそれらの時のように、このエルサレムの教会会議で直接お語りにならなかったのでしょうか。主が直接お語りになれば、これらの問題はすぐに決着を見たのではなかったでしょうか。
 しかし、実は主はさまざまな形で答えられます。それは私たちに対してもそうです。
 主は、私たちに対して直接お語りになる場合もあります。しかしそういうことばかりではありません。むしろそういうことは少ないかも知れません。その他に、主は、聖書を通して答えを示されます。私たちが聖書を読んで答えを祈り求めて、そしてある聖書の言葉が自分への答えであると確信する。そのような方法で、聖書の御言葉を通して、主が私たちに答えを教えられる場合もあります。
あるいはまた、主は、ものごとを通して私たちに答えをお与えになることもあります。
 この使徒言行録のエルサレムでの教会会議では、主は直接お語りになりませんでしたが、割礼を受けていないしモーセの律法も知らない異邦人が、イエス・キリストを信じるだけで聖霊を受けたという証しがなされました。聖霊なる神さまが、割礼を受けていないし律法を守ったこともない異邦人に、信仰によって聖霊を与えられた。このことを教会の人々に思い起こさせたのです。そうすると、おのずと、イエス・キリストを信じるだけで救われることが分かる。そして教会はそのように決定しました。
 なぜこの時、主は直接言葉でお答えにならなかったのか?‥‥それは、教会の人々に考えさせたのだと思います。主が直接、ここにいる人々に対して、「イエス・キリストを信じるだけで救われるのだ」と預言させれば話しは早い。しかしそれでは、みんなよく考えるということをしない。学校の宿題で、問題を考えずに、末尾の答えを見て写すようなものです。それでは考えるということをしなくなる。
 主は、考えるということをさせられた。聖霊がどのように働いたか、主がどのような奇跡をなさったか、思い起こさせ、そうして神さまの御心が何であるかを考えさせなさったと言うことができます。

     日本聖書協会・渡部信氏

 先日、10月10日の体育の日、S教会にて教区の伝道協議会がありました。週報にも予告を掲載しましたように、誰でも参加できる集まりでした。講師は、聖書を発行している日本聖書協会総主事のW先生。主題は、「受洗者を生み出す教会へ」でした。
 私は、実を言うとあまり気が進まなかったのですが、出席しました。気が進まなかったというのは、聖書協会総主事ということで、なんだか難しい話しをなさるのではないかと勝手に思っていたからです。しかしその期待は、良い意味で裏切られました。とても信仰的な、良いお話を伺うことができたのです。出席者は全部で三十数名でしたから、たいへんもったいなかったなあと、あとで思いました。その中で先生が経験された証しのうちの一つをご紹介いたします。
 日本聖書協会のビルである聖書館は、銀座4丁目、教文館に隣接して建っています。そしてその建物の中の部屋をいくつか、他の会社や事業者に貸しています。あるとき、そのテナントの一つが撤退し、空き部屋となったそうです。そこを他のどこかの会社に借りてもらわなければ、経営が行き詰まってしまうということで、不動産屋さんを通して借り手を探したそうです。
 しかし、なかなか見つからない。ようやく借りたいというところが現れました。しかしそのところが出した条件は、家賃はいまよりも安くしろ、保証金は支払わない、入居して最初の6か月は家賃をただにしろ、というものだったそうです。しかしそのような条件では、聖書協会は赤字となってしまい運営できなくなる。ところが不動産屋は、その借りたいという人の立場に立ってしまって、そうしろという。そして他の借り手を紹介しない。
 それで、仕方なく、契約をしようかということになったそうです。しかし、W先生は、そのようなときに聖書を読んでいて、「いや待てよ、私たちの主は、この世の人よりも強いはずだ」と信じることができた。そうすると、他の不動産屋から、新しい借り手がいると紹介があったそうです。そちらの人の条件は、家賃は今よりも多く払う、保証金も払う、最初6ヶ月間は入居できないが、その分の家賃も払うという、前の借りたいという人の全く逆の信じられないような好条件を申し出たそうです。それでそちらと契約することができたそうです。
 このW先生の証しを聞いても、最初の借りたいという人と契約して良いかどうかを、主は直接お語りになりませんでした。その結果、先生は迷いました。不安になりました。そして聖書の御言葉を真剣に読むように導かれました。そのように、すぐに答えを与えられなかったので、真剣に聖書の御言葉に立つことができたのです。そして聖書の御言葉を信じることを教えられたのです。
 そのように、私たちの主は、さまざまな方法でお答えになりますが、それには理由がちゃんとあるということが分かります。

     献身者

 さて、エルサレムの教会は、その教会会議の決定をアンティオキアの教会に伝えるために、手紙を書きました。そして手紙を書いただけではなく、バルサバと呼ばれるユダと、シラスの二人をパウロとバルナバと共に派遣しました。手紙だけでは、事務的です。教会は、人を実際に派遣することで、教会が一つであることを示したのです。遠くにある教会も、同じ主イエスの教会であることを。
 その持参した手紙の中ですが、26節に「このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たちです」と書かれています。身を献げるということを、日本語で献身と言います。
 ここで「身」と日本語に訳されている言葉ですが、原文のギリシャ語ではプシュケーという言葉で、それは「いのち」とか「たましい」という意味があります。ですからここは、「身も心もささげている」ということになります。主イエス・キリストに身も心も、命もささげている」ということになります。そのように、自分のすべてを実際に主イエス・キリストに献げている人がいるのです。本当に主に身も心も献げている人がいる。これはまさに主が生きていることの証しです。感銘を受けます。

     献げる

 さらに、「献げている」と訳されている言葉は、ギリシャ語で「パラディドーミー」という言葉になり、その意味は、「引き渡す」「委ねる」「(委ねて)献げる」というような意味になります。つまり、献げるということは、委ねるということ、全く引き渡すということだ、ということです。
 たとえば、献金ですが、教会の献金は主に献げるものです。そしてそれは、主に引き渡したのであり、主にお任せする、主のものとなる、ということになります。自分のものではなくなったということになります。我が身と我が心を献げるということも、自分自身を主に引き渡してしまった、主にお任せしてしまった、ということになります。自分自身が主のものになったということです。
 このことについて、パウロ自身が次のように述べています。(ガラテヤ2:20)「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」
パウロがキリストに献身する前に、イエス・キリストがわたしのために身を献げてくださったという事実がある。そのことをパウロは知ったのです。しかもパウロは、かつてキリスト教会を激しく迫害していた人です。そんなパウロのことも、イエスさまは赦し、パウロを救うために十字架で身を献げてくださった。この愛に打たれて、パウロも身を献げる人となったのです。
 わたしたちが信じるよりも前に、まず神の子イエス・キリストが、この私のために身を献げてくださった。それが十字架です。これはわたしたちひとりひとりに当てはまることです。そこにわたしたちの救いのたしかさがあります。わたしたちにもこの神の愛が注がれている。このことを知ったとき、わたしたちも主に従うものとなっていくことができます。

(2016年10月23日)


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