礼拝説教 2016年10月9日 主日礼拝

「避けるべきもの」
 聖書 使徒言行録15章12〜21  (旧約 エレミヤ書4:2)

12 すると全会衆は静かになり、バルナバとパウロが、自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業について話すのを聞いていた。
13 二人が話を終えると、ヤコブが答えた。「兄弟たち、聞いてください。
14 神が初めに心を配られ、異邦人の中から御自分の名を信じる民を選び出そうとなさった次第については、シメオンが話してくれました。
15 預言者たちの言ったことも、これと一致しています。次のように書いてあるとおりです。
16 『「その後、わたしは戻って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。その破壊された所を建て直して、元どおりにする。
17-18 それは、人々のうちの残った者や、わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、主を求めるようになるためだ。」昔から知らされていたことを行う主は、こう言われる。』
19 それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。
20 ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。
21 モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。」





     救いについての議論

(プロジェクター1枚目)
 教会の内部で、意見の対立が起こりました。それは、私たちはどうしたら救われるのか、すなわち神に受け入れられるのか、ということをめぐっての対立でした。これは、信仰の根幹に関わることです。それで、もう一度このことを振り返ってみたいと思います。
(プロジェクター2枚目)
 ここでの対立の焦点は、私たちが救われるために必要なことは何か?ということです。パウロやバルナバなど、おもに異邦人の世界のキリスト信徒たちは、「イエス・キリストを信じることのみ」であると考えました。それに対して、一部のユダヤ人キリスト信徒たちは、「旧約聖書のモーセの律法を守り、さらに男子ならば割礼を受け、その上でイエス・キリストを信じる」ことによって救われる、と主張しました。
 これはまた言葉を換えて言えば、罪人である我々が神に受け入れられるにはどうすればよいかということです。パウロたちは、「このありのままの自分がイエス・キリストを信じることだけでよい」ということになるかと思います。それに対して、一部のユダヤ人キリスト信徒たちは、「割礼によって身に傷を付け、善行をなすことが前提。その上でキリストを信じる」ということによって初めて神に受け入れられるのだ、ということになると思います。
 もっとわかりやすく言うと、たとえば次のようなことです。「この学校は、たいへん入りやすい学校です。ただし希望者全員が入れるわけではなく、テストで60点とはいわないが、せめて10点は取らないと入れない。」‥‥そんな学校があったとします。10点取れば入れるのですから、たいへん簡単な学校だと言えるでしょう。しかし中には、「自分は10点取れるだろうか?」と心配になる人もいることでしょう。
 神の国で言えば、「イエス・キリストを信じればよい。ただし、0点ではダメだ。世の中のために良いことをして、100点とは言わないがせめて10点は取らないとダメだ」と言われたらどうか。「この私は本当に救われるのか?」という疑問が、やがてぬぐい去れない疑問としてのしかかってくることでしょう。
 そして、もし「0点ではダメだ」ということだったとしたら、ゴルゴタの丘でイエスさまの十字架の隣の十字架にかかっていた強盗は救われないのです。彼は、悪いことばかりしてきました。そして十字架という死刑台について、隣の十字架のイエスさまを見た時、はじめて自分がしてきたことの罪の重さに気がつきました。隣の十字架にいるイエスさまが、天国の持ち主であることを信じました。そしてそのイエスさまに対し、「イエスよ、あなたの御国にお出でになる時には、わたしを思い出してください」とお願いいたしました。‥‥しかし彼には、もはや自分の犯してきた罪の償いをするチャンスもありません。数時間後にはこの十字架の上で息絶えるのです。
 言ってみれば、彼は「0点」の状態です。もし、モーセの律法を少しは守る努力をしなければならないのなら、すなわち100点とは言わないまでも、10点か20点は取らないと救われないのなら、彼は救われないのです。ところが、隣の十字架のイエスさまは、彼にこう言われました。「あなたはきょう私と一緒に楽園にいる」(ルカ23:45)。
 ここに、救われるためには、イエス・キリストを信じるということだけが必要であることが、力強く語られていたのです。

     善行はどうなる?

 さて、そうしますと、これはきょうの聖書から少し離れますが、「では罪人のまま、悪いままで良いのか?」という問題が出てきます。罪人のまま、悪人のままで救われるのであれば、ずっと悪いままで良いのか?という疑問です。
(プロジェクター3枚目)
 それは、イエス・キリストを信じて救われてから、良いほうに変えられていくのです。聖霊の働きによってです。
(2コリント3:18)「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」とあるとおりです。
 自分の力で変わるのではありません。自分では自分を変えることができないことが前提となっているのです。だから、聖霊によって変えていただく。悪いものから良いものへと変えていただくのです。イエス・キリストを信じて、救われて神に受け入れられてから、変えられていきます。

     議論の決着

 エルサレでの教会の会議で、議論は決着しました。イエス・キリストを信じるだけで救われると。異邦人は、救われるために割礼を受ける必要もないし、モーセの律法を守る必要もない。この結論になったのは、何よりも、割礼も受けていない詩モーセの律法も知らない異邦人が、ただイエス・キリストを信じることによって聖霊を受けたからです。聖霊を受けるということは、すなわち救われたということです。救いのしるしとして聖霊を受けたのです。
 そのように神さまがなさった事実を証言されては、もはや沈黙するしかありません。イエス・キリストを信じるだけで救われる。そのように決着いたしました。

     ヤコブ

 きょうの聖書個所では、ヤコブが会議をまとめています。聖書には何人かヤコブという名前の人が出てきますが、これは12使徒のヤコブではないと思われます。最初にペトロたちと共にイエスさまの弟子となった、ヨハネの兄弟であるゼベダイの子ヤコブではありません。ゼベダイの子ヤコブは、すでに使徒言行録12章2節のところで、ヘロデ王によって殺されています。きょうの個所で会議をまとめているのは、イエスさまの肉親の兄弟であるヤコブです。イエスさまの弟ですね。彼がエルサレムの教会において、ペトロと共に指導的な立場にいることには、非常に感慨深いものがあります。なぜなら、イエスさまの弟たちは、イエスさまに無理解だったからです。
 たとえば、マルコによる福音書3:21では、人々からイエスさまについて「あの男は気が変になっている」と言われて、イエスを取り押さえに来たことが書かれています。また、ヨハネによる福音書7:5では、「兄弟たちもイエスを信じていなかったのである」と書かれています。そのように、ヤコブもイエスさまを理解しておらず、信じてもいなかったのです。身内は近いゆえに、一番難しい面があるのは、皆さまも経験されるとおりです。
 しかしヤコブは変えられました。なぜ変えられたか。コリントの信徒への第一の手紙15:7を読むと、復活されたイエスさまは、ケファ、すなわちペトロに現れ、12使徒に現れ、次に500人以上の人々に現れなさり、その次にヤコブに現れられたことが書かれています。つまり、ヤコブは復活されたイエスさまに一人で会っています。この復活されたイエスさまとの出会いによってヤコブは変えられたと想像することができます。
 そしてヤコブは祈りの人となったそうです。あまりよくひざまずいて祈るので、膝がラクダのように硬くなっていたそうです。また彼は「義人ヤコブ」と呼ばれるようになりました。尊敬される人になったのです。それは、復活されたイエスさまとの出会いによって変えられたのです。

     伝道のために

 イエス・キリストを信じるだけで救われる。そのためにイエスさまは十字架にかかってくださいました。
 16〜18節でヤコブが引用しているのは、旧約聖書アモス書9:11〜12の預言の引用です。といって旧約聖書のアモス書のほうをご覧になると、少し言葉が違うことにお気づきかと思いますが、あまり気にしないでください。いずれにしても、ヤコブがこの個所を引用したのは、ここにも異邦人の救い、割礼も受けていないし律法も知らない異邦人が救われ、主を礼拝するようになることが神のご計画であったことが預言されているからです。
 さて、こうしてこの問題は、イエス・キリストを信じる、その信仰のみによって救われることで一致したわけです。ところが20節を見ると、ヤコブは「偶像に備えて穢れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるように、異邦人の多い教会に手紙を書くべきだ」と言っています。
 ここで私たちは、おや?と思います。たった今、救われるためには、イエス・キリストを信じるだけで良かったと決まったのではないか?と。
 「偶像に備えて穢れた肉」というのは、外国人の世界で、いったん動物の肉を偶像の神々にお供えしてから食べることを指しています。ユダヤ人は、そのような肉は穢れていると考えていたようです。また、「絞め殺した動物の肉」というのは、ユダヤ人にとっては、動物は殺す時に血を抜いた動物でないと食べません。それはモーセの律法に書かれているからです。また「血を避ける」というのは、動物の血を飲んだり、血抜きをしていない動物を食べたりしてはならないことを言っています。なぜならそれもモーセの律法に書かれているからです。「みだらな行い」というのは、性道徳の乱れのことですが、ここでは、モーセの律法にいうところの「姦淫」を指しているのでしょう。たとえば、ローマ世界の中には、血縁の近いもの同士が結婚したり、モーセの律法に書かれているところの「姦淫」に相当する行為を、悪いこととも思わずに行っている人々もいたようです。ここでは、そういうことを避けるようにという決定をしています。
 そうすると、ここで決定されたこの4つのことの禁止は、先ほど一致した、行いによって救われるのではなく、イエス・キリストを信じるだけで救われる、という福音と矛盾するのではないか、と思う人がいます。しかし、それは違うと言わなければならないでしょう。ここで言われている4つのことは、救いの条件ではありません。そうではなくて、これからユダヤ人にキリストの福音を伝道していく時に、最低これらのことを避けなければ、ユダヤ人は拒絶反応を示すからです。律法のすべてを守れというのではない。また守らないと救われないというのでもない。
 パウロたちは、世界各地に伝道に出かけていった時、まずそこの町に住んでいるユダヤ人に伝道しました。それは、ユダヤ人が救い主を待っている人々だったからです。そこを拠点に異邦人に伝道していきました。しかし、ユダヤ人にイエスさまのことを宣べ伝える時に、配慮をしなければ、受け入れてもらえないでしょう。とくに、肉を食べるとか、そういう目につくことで拒絶反応を示されては、もう何を語っても聞いてもらえないだろうからです。
(プロジェクター4枚目)
 パウロは、コリントの信徒への手紙一9:20でこのように述べています。「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。」
 同じように、日本人には、日本人に対する伝道の仕方というものがあるはずです。日本は八百万の神々を拝む異教社会だからと言って、日本の文化すべてを否定してしまっては、人々は反発し、初めから耳を貸さないでしょう。
 なによりも、私たちはイエスさまを見なければなりません。神の御子であられたイエスさまが、人となってこの世に降ってこられたのです。神の子が人の子となられたのです。それは、私たち人間を救うために、人間になられたのです。このイエス・キリストの愛が、わたしたちひとりひとりに注がれている。この恵みの大きさを思うことができます。

(2016年10月9日)


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