礼拝説教 2016年10月2日 主日礼拝

「信仰と教会」
 聖書 使徒言行録15章1〜11  (旧約 ヨナ書4:10〜11)

1 ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。
2 それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。
3 さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。
4 エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した。
5 ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。
6 そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。
7 議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。
8 人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。
9 また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。
10 それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。
11 わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」





     教会会議

 パウロとバルナバは、今までイエス・キリストのことを知らなかった世界に行き、宣べ伝える旅をしました。その結果、多くの現地の人々が、あらたにイエス・キリストを信じ、教会につながりました。こうして、ユダヤ人から始まった教会が、次第に多くの異邦人を加えていくことになりました。そしてきょうの聖書個所では、ふたたび「救い」についての論争が起きることとなります。1節に、ユダヤ人のクリスチャンのある人々が、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えたことが書かれています。また5節では、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言ったことが書かれています。
 すなわち、教会の内部におけるこれらの人々の主張は、私たちが救われるには、イエス・キリストを信じるだけでは不十分であり、割礼を受けて旧約聖書のモーセの律法を守らなければならない、というものです。割礼とは、男子の生殖器の皮の一部を切り取るというもので、ユダヤ人は赤ちゃんの頃この儀式を済ませています。なぜそんなことをするかと言えば、これも神の掟として、モーセの律法など旧約聖書で命じられていることだからです。
 このような議論は、前にも出てきました。つまり、繰り返し出てきています。ユダヤ人は、男子ならば皆割礼を受けているし、モーセの律法を教えられて育ってきました。だから、新しくキリストを信じてクリスチャンになった人も、それと同じスタートラインに立たなければダメだと言うことです。しかしこのことは、私たちの信仰の根幹に関わることです。したがって、今日は少していねいにこのことを考えてみましょう。

     どうやって救われるのか?

(プロジェクター/1枚目「キリストの救い」)
 キリストの救いとは何かということをもう一度確認してみましょう。聖書では救いは「義とされる」とも言われます。神の前に正しいと見なされるということです。それは「聖霊を受ける」ことです。聖霊なる神が共におられるようになるのです。そしてまた救いとは、「神の子とされる」ということです。そしてまたそのことは、「神の国の住人とされる」ことであり、さらに「魂の平安を得る」ということでもあります。
(プロジェクター/2枚目「どうしたら救われるのか?」)
 ではその救いはどうやって得られるのでしょうか?
 パウロとバルナバたちの主張は、イエス・キリストを信じるだけで救われる、ということです。それに対して、今日も登場するユダヤ教的キリスト教、あるいはファリサイ派的キリスト者の主張は、救われるためには、イエス・キリストを信じることだけでは不十分であり、それに加えて男子であれば割礼を受けること、そしてさらにモーセの律法を守るということが必要だというものです。すなわち3階建ての救いです。
 この問題は、11章のところですでに解決した問題ではなかったのか、と私たちは不審に思います。なぜこの律法と福音の問題が繰り返し出てくるのか。それは、この問題は単なる形の問題なのではなく、実は、「罪人である人間が、どうやったら神に受け入れられるか?」という問題だからです。そして、イエス・キリストを信じるだけでは不十分だという主張の背景には、「 罪人(悪人)である人間が、そのまま神さまに受け入れられるはずはない」「少しは努力してまともにならなければダメだ」‥‥そういう考え方に基づいていると言えます。
 これはたいへんもっともな話に聞こえます。割礼を受けて我が身に傷をつけ、そして努力してモーセの律法を守る。それで初めて、イエス・キリストの十字架によって救っていただくことができるのだ、少しは人間が努力をしなければ、イエス・キリストを信じてもだめだと。すなわち、人間の努力+キリストの十字架で救われるという考え方です。そしてこれは自然に納得できることでしょう。しかし、実はそうではないという。

     罪人はそのままで救われるのか、否か?

 この問題をハッキリさせるために、違う宗教を例に挙げたいと思います。それは浄土真宗の開祖である親鸞の考え方です。もちろん、私は浄土真宗を推薦するわけでもありませんし、浄土真宗の本尊である阿弥陀仏を信じるわけでもありません。ただ、その救いについての考え方が、福音的キリスト教、とくにプロテスタントと非常によく似ているので、分かりやすくするために例としてあげさせていただくのです。
 親鸞の信仰は、人間が救われるのは、行いによって救われるのではなく、ただ阿弥陀仏の慈悲を信じるのみ、というものです。これが他力信仰です。それでひたすら阿弥陀仏の称名を唱える念仏に徹するわけです。そしてその信仰をよく言い表したものとして、「悪人正機」というものがあります。
(プロジェクター/3枚目「悪人正機」)
 悪人正機とは、「善人なほもて往生をとぐ いはんや悪人をや」というものです。‥‥この意味は、「善人でも浄土に往生できる(救われる)のだから、ましてや悪人が救われないはずがあるだろうか」ということになろうかと思います。これは普通の考え方と違っています。普通に聞けば、たいへん耳障りな言葉ではないでしょうか。なぜなら普通は、たとえありがたく悪人が救われるとしても、「悪人なほもて往生をとぐ いはんや善人をや」という言い方ならばまだ理解できるのでしょう。すなわち「悪人でも救われるのだから、ましてや善人は救われる」というのならば、まだ理解できると。
 しかし、親鸞は前者であるというのです。「善人なほもて往生をとぐ いはんや悪人をや」であると。ここに救いの問題の真相があると言えます。
 後者の、「悪人なほもて往生をとぐ いはんや善人をや」は、どこか自分を悪人よりも一つ高い所に身を置いているような響きがあります。「あんな悪い人でも救われるというのなら、ましてや私は救われる」という言葉に聞こえてくる。しかし普通は人間はだいたいそう考えるのでしょう。それに対して、前者の悪人正機「善人なほもて往生をとぐ いはんや悪人をや」‥‥こちらは人間のそのような普通の思いを打ち砕く力があります。私たちの思い上がりをひっくり返すような力がある。
 これをキリストの十字架の救いに重ねて聞くとどうでしょうか。イエス・キリストの十字架の威力のすごさを見せつけるようではありませんか!まさにぐうの音も出ないほどに圧倒される思いがいたしませんか?

     自分が罪人であるとの自覚

 イエスさまの言葉ではどういうものがあるでしょうか。たとえば次の御言葉を思い出すことができるでしょう。
(プロジェクター/4枚目「悪人正機」)
 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9:13)‥‥イエスさまは、罪人、悪人を招くために来られたとおっしゃいました。まさに悪人正機です。さらにそれが徹底されているように聞こえます。自分が正しいものだと思う人のところには、イエスさまは来て下さらないということになるのですから。
 もちろんイエスは万人のために来られました。正しい人のためにも来られました。しかし問題は、自分を「正しい人」「善人」と思っているその心なのです。そういう、自分を「正しい者」「善人」と思う高ぶった心に鉄槌を下された。これがこの言葉であると言えるでしょう。そして、自分に少しでもおごり高ぶった思いがあると、イエス・キリストの十字架のありがたさは身に染みないこととなります。

     罪人の救い

 そして次の御言葉です。
(プロジェクター/5枚目・ローマ3:12)
 「善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ3:12)
 聖書は、善人は一人もいない、ただの一人もいないと述べています。すなわち、人間みな罪人であるということです。すなわち、この自分も罪人である。その事実を悟った時、私たちは絶望いたします。しかしその罪人を救うために来て下さり、この罪人を救うためにイエスさまが十字架にかかって下さったことを知った時、私たちは安心して、次のように告白することができるのです。
 「わたしは、その罪人の中で最たる者です。」(一テモテ1:15)
 これはパウロの告白です。前の聖書の訳では「わたしは、その罪人のかしらなのである」となっていました。自分は罪人のかしらである、罪人の中でも最たる者だ。そのことが分かった時に、山上の説教の次のイエスさまの言葉が理解できるでしょう。
(プロジェクター/6枚目・マタイ5:3)
 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイ5:3)
 これも聞きようによっては、おかしな言葉です。心の貧しい者が幸いであるとは絶対に思えない。しかし、自分がもっともひどい罪人であることを悟った時、この御言葉が理解できてきます。すなわち、「心の貧しい者」とは、この自分のことであった、と。しかしこの御言葉は、そんな心の貧しい罪人である自分に対して、天国を約束して下さっているのです!言い換えれば、救いを約束して下さっているのです!こんなありがたいことがあるでしょうか!
 感謝、感激、ここに極まります。するとイエス・キリストのあらゆる言葉が、福音として聞こえてきます。

     律法はどうなる?

 さて、最後に残る問題です。それは、では旧約聖書に記されているモーセの律法はどうなるのか?という問題です。あんなにもイスラエルに対して守ることを求めた律法は、無意味なものだったのか?‥‥そうではありません。新約聖書に次の言葉があります。
(プロジェクター/7枚目・ローマ10:4)
 「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」(ローマ10:4)
 律法は、後に登場するイエス・キリストを指し示していたものだった。律法は、イエス・キリストを予言し、待望するものであったということです。そのイエス・キリストが来られた以上、律法はイエス・キリストを信じることに置き換わったのです。
 この罪人である自分を、そのままで救って下さる。イエス・キリストを信じることによって救って下さる。そして聖霊をいただいて、良い心になるように導いていただくのです。ここにたしかな希望があります。

(2016年10月2日)


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