礼拝説教 2016年9月25日 主日礼拝

「信仰と教会」
 聖書 使徒言行録14章19〜28  (旧約 歴代誌上4:10)

19 ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。
20 しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった。
21 二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、
22 弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。
23 また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。
24 それから、二人はピシディア州を通り、パンフィリア州に至り、
25 ペルゲで御言葉を語った後、アタリアに下り、
26 そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である。
27 到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。
28 そして、しばらくの間、弟子たちと共に過ごした。





     パウロの第1回伝道旅行の行程

(プロジェクターで説明)
 1枚目:パウロの第一回伝道旅行の地図
 パウロとバルナバはヨハネ・マルコを連れて、シリア州のアンティオキアの教会から伝道の旅に出発しました。そして船でキプロス島に渡りました。そこからまた船に乗ってベルゲに上陸。ここでヨハネ・マルコが帰ってしまいました。そしてパウロとバルナバはピシディア州のアンティオキア、さらにイコニン、そしてリストラへと伝道しながら進んでいきました。このリストラでパウロが石を投げつけられたのがきょうの個所です。このあたりは、ガラテヤ州と呼ばれる地域でした。わたしたちの聖書に「ガラテヤの信徒への手紙」というパウロが書いた手紙がありますが、これはこの地方の諸教会に宛てて書かれたものです。
 そしてリストラのあとは、デルベの町に行き、そこからまたUターンをして、伝道してきた町へと戻っていき、船でもとのシリア州のアンティオキアへ戻りました。
 2枚目・3枚目‥‥現在はこういった光景になっています。これらの地域を、パウロとバルナバは基本的には歩いて旅したものと思われます。そしてガラテヤ州のあるこれらの地域は、だいたい標高1000メートルほどあるんです。だから海岸からはかなりの上り坂ということになります。なかなかたいへんな旅だっただろうなと思います。
 パウロとバルナバは、これらの町々にキリストの福音を宣べ伝えていきました。初めての場所です。宿はどうしたんだろうか?お金はどれぐらい持っていったんだろうか?着替えなどの荷物はたくさん持っていったんだろうか?‥‥などと心配します。どのようにして旅をしたのでしょうか。
 それにはイエスさまの言葉がヒントになります。かつてイエスさまは、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために12使徒を派遣なさったことがありました。そのときイエスさまは次のようにおっしゃいました。
(ルカ9:3〜5)「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出て行くとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい。」
 すなわち、何も持っていくなと。イエスさまが伝道のために派遣されるのだから、必要なものはイエスさまがちゃんと心配していてくださると。知らない町に行っても、どこに泊まろうかと思うけれども、ちゃんと備えられるのだと。お金を持っていなくても、助けてくれる人が現れる、イエスさまを信じる人が現れ、支えてくれる‥‥。それらは何も持たないで行くからこそ、主の助けを体験することができる。そういうことであったと思います。
 これはほとんど冒険です。主を信じて歩む冒険です。生ける主の働きを経験しながら進んでいくのです。そしてこれは信仰生活も同じだと言えます。わたしたちも、明日何が起きるか分からない。しかしイエスさまを信じて、前に進んでいくことができます。

     パウロ、生き返る

 さて、19節を見ると、パウロはリストラの町で群衆から石を投げつけられました。これは旧約聖書に書かれている石打の刑です。使徒言行録7章で、ステファノがこの刑にあって死にました。
 またもユダヤ人のユダヤ教徒によって迫害されたのです。しかも、今までパウロたちが伝道してきたピシディヤ州のアンティオキアとイコニオンからやって来て。なぜユダヤ教徒は迫害するのか。それは、ピシディア州のアンティオキアでの時にも書かれていましたが、パウロがユダヤ人でありながら、「モーセの律法には人を救う力はない、イエス・キリストを信じるだけで良い」と語っていたからです。それは律法に対する冒涜(ぼうとく)であり、神に対する冒涜であると見なされました。神を冒涜した者は、石打の刑に処せられると律法に書かれていました。
 ですから怒り狂ったユダヤ教徒たちが、町の人々を抱き込んで、パウロを石打の刑にしたのです。人々が、こぶし大の石を顔面を中心に投げつけるという、たいへんむごい刑罰です。その結果、どうやらパウロは死んだようだということで、彼らはパウロを町の外に引きずり出しました。パウロは死んだのでしょうか? 死んだと見るべきでしょう。少なくとも、頭蓋骨陥没、そしてあちこちが骨折し、血だらけ‥‥という見るも無惨な状態になったに違いありません。そして石を投げつけた人たちは、パウロが死んだと思ったから町の外に引きずり出した。
 ところが、その人たちが去って、弟子たち、すなわちクリスチャンになった人たちがパウロを取り囲むと、パウロは何ごともなかったかのように起き上がって町に入っていきました。主が癒やされたのです。死んだと思ったが本当は死んだのではなかった、というようなものではないでしょう。なぜなら、翌日にはこのリストラの町を去ってデルベの町へ向かっているからです。虫の息でようやく生きていたというような状態なら、こんなことはあり得ません。あちこち骨折し、少なくとも数ヶ月は絶対安静にしていなければならないでしょう。だからこれは主が癒やされたのです。
 同じ石打の刑でも、ステファノは殉教し、パウロは生き返らされ、癒やされた。これは不公平なのではありません。それぞれ与えられた役割が違っていたのです。ステファノは石打の刑で死にましたが、死ぬ前に、天が開けてイエスさまが自分を迎えようと立ち上がられたという驚くべき光景を見ました。そしてそれを皆に証しして死にました。生けるキリスト、天のキリストを証ししたのです。それに対して、パウロにはまだ世界宣教の使命が残っていたのです。ですから、それぞれ違う用いられ方をしているのです。

     苦しめられても伝道

 パウロたちは、なぜそんなひどい目に遭いながらも伝道を続けていくのでしょうか? もちろんそれが主の与えられた使命だからに違いありませんが、パウロたちの信仰があることも間違いありません。それは、救いは主イエス・キリストにのみある、という信仰です。使徒言行録4:12でペトロが、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」と語っているとおりです。
 パウロたちは、何か自分たちの主義主張を広めるために、こんなに苦労して未知の土地に出かけていっているのではありません。自分たちの勢力拡大というのでもありません。あるいは、商売でもありません。わたしたち人間の救いのためには、イエス・キリストを信じるよりほかにないからです。そうでないと救われないからです。天地宇謬万物の創造主である神と、その神にとりなして下さるイエス・キリストを信じなければならないからです。その信仰に導くために、パウロたちは聖霊なる神さまと共に伝道しているのです。
 人々が滅びから救われるために、パウロたちはこんなに苦労してまでも、まさに命がけでキリストを宣べ伝えている。それが彼らの愛です。

     苦しみの意味(21〜23節)

 デルベまで行ったパウロとバルナバは、そこからまた元来た道を戻って行きます。引き返しながら、今まで伝道した町を訪れ、兄姉姉妹たちのところを巡回いたします。そして彼らを津からづけて言いました。22節「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」。神の国、天国に行くまでの間に、すなわちこの地上を生きている間に、多くの苦しみを経験しなければならないというのです。
 イエス・キリストを信じて、救われたのに、苦しまなければならないとはどういうことでしょうか? 良いことばかりあるのではないのでしょうか? そもそも苦しみがあるというのは、神の罰ではないのでしょうか?
 そうではありません。この苦しみは、他人を救いたいと願う愛ゆえの苦しみです。たとえば、他人の子供のことで苦しむということはあまりないでしょう。他人のことがどんなに悪く育っても、あまり苦しみません。我が子だからこそ苦しみます。そのように、隣人の救いのことをわがことのように考えた時、苦しむのです。そしてイエス・キリストの苦しみもそうでした。イエスさまの十字架の苦しみは、ご自分のための苦しみではなく、わたしたちを救おうとするための苦しみでした。ですからその苦しみは、愛するがゆえの苦しみです。
 パウロの苦闘はまさにそれです。人々を滅びから救うために、イエス・キリストを宣べ伝えている。そのための苦しみです。ですから、その苦しみを通して、イエス・キリストが奇跡をもって共にいて下さることが分かるようになります。

     教会を建てる

 23節を読むと、パウロたちは、教会ごとに長老を任命したことが書かれています。長老というのは、長老主義教会では信徒から選ばれます。メソジスト教会では長老は教職、今の教団でいえば正教師でした。いずれにしても、教会の群れを守り、信仰を教える人です。すなわち、パウロたちは教会の組織を作っていったのです。
 そのように、パウロたち伝道者の働きは、教会を建てるところまでいたします。イエス・キリストのことを言いっぱなしではありません。言いっ放しであれば、そのときイエスさまを信じた人たちも、やがて教えられたことを忘れて、雲散霧消してしまうことでしょう。教会があるからこそ礼拝が続けられ、福音が語られ続け、祈り続けられます。そして教会は伝道の拠点となります。そして次の世代にバトンタッチすることができるのです。

     佐々木茂先生

 先週の22日は、鎌倉教会において東湘南地区の信徒大会が開かれました。当教会からも20名の人が参加しました。講師は鹿島栄光教会の佐々木茂牧師でした。鹿島栄光教会は福島県の南相馬市にあり、東日本大震災以降、当教会も積極的に支援に協力させていただいている教会です。
 2011年3月11日、大震災が発生しました。そして福島第一原子力発電所が爆発しました。そして大量の放射性物質が飛散しました。南相馬市長は、避難勧告を出しました。鹿島栄光教会は原発から約30キロ。しかし佐々木牧師一家は避難しませんでした。鹿島栄光教会のある町内の10件のうち、逃げなかったのは佐々木牧師一家だけでした。このことについて佐々木先生は、「逃げなかったという格好いいものではなく、家族の問題もあり逃げることができなかった」とおっしゃっていました。
 結果的には、放射線の数値は基準内で、やがて避難した人たちも戻ってきましたが、やはり不安は大きく、若い人たちを中心に町を去って行く状態が続いているそうです。現在の礼拝出席は5人ほど。「教会の門を閉じなければならないのか」とも思ったりしたそうです。しかし、「門を閉じるのは、終わりの時のはずだ」と考えるに至ったそうです。終わりの時、すなわち世の終わりの時であり、キリストの再臨の時です。終末まで、キリストの再臨の時まで、教会をもたせたい。そのようにおっしゃいました。
 わたしたちの教会もそうです。キリストの再臨の時まで、礼拝をし続ける。イエス・キリストの救いを宣べ伝え続ける。その思いを新たにさせられたのでした。

(2016年9月25日)


[説教の見出しページに戻る]