礼拝説教 2016年9月18日 主日礼拝

「ふさわしい信仰」
 聖書 使徒言行録14章8〜18  (旧約 詩編27:13〜14)

8 リストラに足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。
9 この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、
10 「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした。
11 群衆はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言った。
12 そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、またおもに話す者であることから、パウロを「ヘルメス」と呼んだ。
13 町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとした。
14 使徒たち、すなわちバルナバとパウロはこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行き、叫んで
15 言った。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、
16 そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。//神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。
17 しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」
18 こう言って、二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた。





     召命と年齢

 本日は敬老の日を覚えて、教会学校の子どもたちとの合同礼拝です。子どもたちを見ると、若くてなんでもできる、夢と希望にあふれていると思います。また、私も来年は還暦となるわけですが、だんだん体の都合の悪いことも起こってくるし、なんだか年をとってきたような気がするし、若い人たちはいいなあと思うこともあります。
 しかし実は、聖書では年齢はあまり関係ありません。若くして神さまに用いられた人もいますし、年をとってから用いられた人もいます。若くして、子どもの頃から用いられた人には、たとえば預言者でありイスラエルの指導者出会ったサムエルや、ダビデがいます。一方年をとってから用いられた人は、ノア。ノアは500歳を過ぎてから神さまの言葉を聞いて箱舟を作り始め、600歳の時に洪水が起きました。これはずいぶんすごすぎますが、アブラハムは75歳で神の言葉を聞いて、神さまの示す地に向かって旅立っていきました。神さまの約束を信じて。また、モーセは80歳で主から使命を与えられました。そして出エジプトの大事業の先頭に立ちました。
 そのように、聖書を見ると、若くて用いられる人、年をとってから用いられる人、と、いろいろあります。いずれにしても、主がそれぞれの人に与えられた違った使命というものがあることが分かります。主がその人に与えられた使命を見出し、主に従っていくところに人生の意義があります。

     リストラにて

 さて、パウロとバルナバは、まだイエス・キリストのことを知らない人々に、イエスさまのことを伝えるために、町から町へと行きました。一つの町で迫害されても、またほかの町に行ってイエスさまのことをみんなに伝えていきました。次の町では神さまがどんなことをして下さるのか楽しみ、という感じです。
 きょうは、リストラという町に行きました。リストラの町の人たちも、パウロとバルナバによって、初めてイエスさまのことを聞きました。そのことが先ほど読んだ聖書に書かれています。ここで二つのことに注目してみましょう。一つは、足の不自由だった人が癒やされて歩けるようになったという奇跡が起こったことです。もう一つは、パウロとバルナバを拝もうとする人々を必死で止めたということです。

     ふさわしい信仰

 まず、生まれつき足が不自由で歩くことができなかった人が、歩けるようになりました。もちろんこれは、パウロがその人を歩けるようにしたのではなく、主がなさった奇跡です。
 ここで、パウロはその人を見て、「いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、『自分の足でまっすぐに立ちなさい』と大声で言った」ところ、その人が歩けるようになったと書かれています。この「いやされるのにふさわしい信仰」とはいったいどういう信仰でしょうか?
 これは、読み方によっては、信仰が十分あるからいやされた、というように読めます。つまり、信仰が足りないといやされないが、信仰がちゃんとあればいやされる、というように。すると、信仰が足りないとお祈りがきかれないということになるのでしょうか。もしそうだとすると、「私の祈りは信仰が足りないから、かなえられないのだ」ということになるのでしょうか。
 この場合の「信仰」とはなんでしょうか? 何か良いことをしたということでしょうか? それとも、清く正しく立派に生きていた、ということなのでしょうか?
 この足が歩けるようになった人はどうだったでしょうか。聖書を読むと、そういうことは何も書いてありません。ただ書かれているのは、この人がパウロが話すのを聞いていた、ということだけです。パウロは、イエス・キリストのことを話していた。そしてこの人はそれを、たぶん真剣に聞いていたのでしょう。それだけです。
 また、「いやされるのにふさわしい信仰」という言葉ですが、ほんとうはここは原文では「いやされる信仰」となっているのです。「ふさわしい」という言葉は本当はありません。
 信仰があっても、いやされる人と、いやされない人がいるのです。いやされて神さまのために用いられる人と、いやされないけれども神さまのために用いられる人がいるのです。たとえば、星野富弘さん。星野さんは、若い時に体操の演技をしていて頭から落ち、その事故で首から下のからだが全く動かなくなりました。いまも寝たきりです。けれども、星野さんの描いた絵と詩を見て多くの人が感動し、神さまを信じるようになる人もいます。
 そのように、いやされなかったけれども、かえって神さまのご用のために用いられる人がいます。いっぽう、きょうの聖書で足が歩けるようになった人は、いやされることで主を証しする信仰が与えられています。そのように神さまは、ひとりひとり違う信仰を与え、異なる役割を与えておられます。私たちには、私たちにふさわしい仕方で、主を証しする使命と役割が与えられているはずです。それを見つけていきたいのです。

     誰を拝むか

 それからもう一つ、パウロとバルナバは、自分たちを拝もうとする人々を必死で止めた点です。
 生まれつき足が不自由で歩くことができなかった人を歩けるようにしたので、リストラの町の人たちは、パウロとバルナバが神さまだと思いました。そして、二人を拝もうとしました。するとパウロとバルナバは、驚いて、自分の服を裂いて、必死になって大声でそれをやめさせました。
 いったいどうして、やめさせたのでしょうか? 人々が、パウロとバルナバはすごい、と言ってほめたたえたのです。みなさんも、みんなからほめられ、すごい、すごいと言われたら、良い気持ちになるのではないでしょうか? それなのにどうして二人は、それをやめさせたのでしょうか?
 それは、この足の不自由だった人を歩けるようにしたのは、パウロでもなくバルナバでもなく、神さまだからです。神さまがパウロの言葉を通して、その人を歩けるようにしたのだからです。だから、ほめられて拝まれるのはパウロではなく、神さまなのです。それなのにパウロとバルナバをほめたたえて、拝んではならないのです。人間を拝んではなりません。
 皆さんは、コマを回すことができますか? 手で回すコマではありません。ひもを使って回すコマです。私が子どもの頃、コマが流行りました。友だちが上手にコマを回していました。自分もコマを買って回そうとしましたが、回りません。いくらやっても回りません。するとお父さんが、コツを教えてくれました。ひもの巻き方を教えてくれました。そしてコマは投げるんじゃなくて、引くんだと言って、そのコツを教えてくれました。そしてその通りにやってみました。するとコマが回ったんですね。そのとき何と思ったか。「ああ、おれってすごい!」と思ったでしょうか?違います。「お父さん、すごい!」と思いました。教えてくれたお父さんはすごい。お父さんが教えてくれなければ、コマはいつまでたっても回せなかったでしょう。
 きょうの聖書で、この歩けなかった人を歩けるようにしたのは神さまです。パウロとバルナバは、その通りにしただけです。だから、みんながパウロとバルナバをほめたたえて礼拝してはならないのです。それは神さまが嫌われることです。神さまをほめたたえて礼拝しなければなりません。だからパウロとバルナバは、町の人たちが二人を礼拝しようとするのを必死で止めたのです。
 パウロとバルナバは、神さまがほめたたえられるように願い、用いられました。私たちも神さまがほめたたえ、礼拝されるように願うならば用いられます。

(2016年9月18日)


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