礼拝説教 2016年9月4日 主日礼拝

「予定と発見」
 聖書 使徒言行録13章42〜52  (旧約 イザヤ書25:1)

42 パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。
43集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。
44 次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。
45 しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。
46 そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。
47 主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために。』」
48 異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。
49 こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。
50 ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。
51 それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。
52 他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。





     パウロの最初の説教を聞いて

 パウロとバルナバの二人は、現在のトルコの国に当たるピシディア州のアンティオキアの町に行きました。そして安息日にユダヤ教の会堂に行って、そこで行われている礼拝にてパウロが説教をいたしました。  パウロは、旧約聖書から説き明かし、聖書の預言している救い主がイエスさまであること、そのイエスさまは人々に拒絶されて十字架につけられたけれども復活されたこと、そしてそのイエス・キリストを信じることによって救われることを語りました。その説教が非常に大きな反響を呼びました。礼拝が終わってパウロとバルナバが会堂を出ようとすると、人々が次の安息日の礼拝にも同じことを話してくれるように頼みました。次も同じことを話してくれというのは、今聞いたことが難しくてよく分からなかったからでは、もちろんありません。心を動かされ、非常にすばらしいと思ったから、今度はぜひ自分の家族や友人知人を連れてきたい、そして同じ話を聞かせてやりたい‥‥そういうことでしょう。それほどの感動を呼び起こしたのです。
 パウロとバルナバは、ついてきた人々とさらに語り合い、そして「神の恵みのもとに生き続けるように勧めた」と書かれています。

     恵み

 「恵み」というのは、キリストの福音の中心の考え方です。それは「報い」ということとちょうど反対の意味になります。恵みというのは無償であり、その人が祝福を受ける資格がないのに神さまから一方的に祝福が与えられることです。昔の言葉で言えば「恩寵」です。
 それに対して「報い」は、例えばその人が罪を犯したのでその報いとして罰を受けるというようなことです。こちらのほうが、人間が普通に考えやすいことです。悪いことをしたから罰を受ける。これは当然の理屈であり、説明されるまでもないことでしょう。だから、神さまの言うことを聞かない、神さまに逆らった、だから神さまの罰を受けるのは当然だということになります。お祈りが聞かれないのも当然だということになります。救われないのも当然だということになります。救われる資格などない、神さまから祝福される資格などないということになります。
 しかし「恵み」と言った場合、資格のない人間であるにもかかわらず、神が救って下さる、祝福して下さる、お祈りも聞いて下さる、ということになります。そしてその理由は、イエスさまが代わりに罰を受けて下さった、それが十字架であるということです。そのイエス・キリストを信じることによって、神の祝福を受ける資格のないこの自分が、祝福される。それが恵みです。すなわち、ただイエス・キリストを信じることによって、神が祝福して下さる。それがここで言う恵みであり、それはイエスさまを信じることによる救いです。

     救いを求める人々

 さて、次の安息日には、「ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まってきた」と書かれています。これはアンティオキアの全住民が集まったというように考えられなくもないのですが、おそらく、町の中のあらゆる地区から、あらゆる人種、あらゆる民族、あらゆる階層の人々が集まってきたということではないかと思います。いずれにしても、会堂に入りきれないほどの多くの人々が集まってきたわけです。こんにちも、教会では同じキリストの福音が語られています。しかしそんなに人が集まってきません。この差はいったい何なのか?
 やはり、人々が救いを求めていた状況であったからでしょう。当時は今よりもずっと平均寿命が短かった。短い人生、病気にかかればなすすべがない。人々は現代よりもずっと真剣に人生を見つめ、神を求め救いを求めていたということがあるでしょう。
 それは現代もあまり変わらないはずです。寿命が延びたと言っても、30年ほど延びただけです。しかし現代は、人々の不安をまぎらわすもので満ちています。テレビをつければお笑い番組や興味を惹く番組が放映されており、気を紛らわすことができる。インターネットを見れば、ありとあらゆる情報が氾濫しており、人々の興味を引きつけるもので満ちています。そのようなもので興味がこの世のことにそらされ、神であるとか、救いであるとかいったようなことを考えさせないようになっている。しかしそれはただ、気を紛らわしているだけです。そしていざ自分が危機に陥った時には、何をしてよいか分からない、ということになる。
 しかし当時は違います。テレビもなければインターネットもない。娯楽は限られていました。そして人々は人生の危機といつも隣り合わせで生きている。自然に神や宗教に心が向きやすい環境であったと言えるでしょう。そのような面を見るならば、古代人は幸いであると言わなくてはならないでしょう。

     反対する人々

 さて、大勢の人が会堂に集まってきました。ところがそのような状況に反発する人々が現れました。それが旧態依然のユダヤ教徒でした。聖書には「ユダヤ人」と日本語に訳されていますが、イエス・キリストを信じるようになったユダヤ人も多かったのですから、ここは「ユダヤ人」と訳すよりも「ユダヤ教徒」と訳したほうがよいでしょう。すなわち、本来であるならば、真っ先にイエス・キリストを信じるべきユダヤ教徒が、パウロらに反対したのです。聖書はその理由について「ねたみ」であったと記しています。なんのねたみでしょうか?
 一つには、パウロとバルナバが語るイエス・キリストが人々の心をつかんでしまったことへのねたみでしょう。自分たちではなく、二人が人気を博した。そのねたみです。
 しかしもう一つは、イエス・キリストを信じるだけで救いが得られるということへのねたみだと思います。イエス・キリストを信じるだけで救われる、そんなに簡単に救いが得られるということへのねたみがあったと思われます。
 ユダヤ教徒にしてみれば、自分たちは旧約聖書に記されているモーセの律法に基づいたおきてをいっしょうけんめい守ろうとしてきた。戒律を守ってきたのです。それにはそうとうな努力がいりました。神に認めてもらおうとして、救われようとして、いっしょうけんめい努力して戒律を守ってきたのです。それなのに、イエス・キリストを信じるだけで救われるのであれば、自分たちのしてきた努力はいったい何だったのか、ということになります。そのようなねたみです。ほんとうは彼らこそイエス・キリストを信じればよかったのです。しかしねたみによって、信じることが妨げられてしまったのです。
 彼らの妨害に対して、二人は勇敢に語り、今後は自分たちは異邦人伝道に向かうと宣言しました。こうして、ついに教会は、今までのユダヤ人中心の伝道から、異邦人中心の伝道へと大きく舵を切ることになりました。そしてパウロたちは、そこに神の御心を見たのです。

     神の予定

 さて、48節に「永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った」と書かれている点に注目したいと思います。これはもちろん、イエス・キリストを信じるようになったことを言っているのですが、パウロとバルナバの語る福音を聞いて、聞いた人全員がイエス・キリストを信じるようになったというのではありません。「永遠の命を得るように定められている人」がイエス・キリストを信じるようになったというのです。
 この言葉から、まずイエス・キリストを信じるということは永遠の命を得るということであることが分かります。
 次に、「永遠の命を得るように定められている」という言葉、すなわち、イエス・キリストを信じる人はあらかじめ神によって定められていると読める言葉です。救われる人は、あらかじめ神によって予定されている。これを予定説といいます。そしてこの予定説を突き詰めていきますと、神はあらかじめ救われる人を決めておられるのだから、伝道する必要はないではないかということになります。また、神があらかじめ、救われる人と救われない人を決めておられるというのは、神が愛であるということと反するのではないか、また、神がすべての人が悔い改めるのを忍耐して待っておられるというペトロ第二の手紙3:9の言葉と矛盾するのではないか、という問題に行き着きます。
 このことについて、内村鑑三が『キリスト教問答』という著作の中で書いていることを引用したいと思います。
 “問 それはそうといたしまして、救われる者、救われない者が始めからきまっているといたしますれば、伝道の張りあいがいたって少ないではありませんか。
答 それはけっしてそうではありません。私ども予定を信ずる者は、信者を作るために伝道はいたしませんが、しかし信者を発見するためには、熱心をもってこれに従事いたします。そうして伝道は信者を作ることではなくして、すでにあらかじめ作られたる信者を発見することであることは、長くこの聖業に従事した者の疑わないところであります。「主は救わるべき者を日々教会に加えたまえり」(使徒行伝ニノ四七)、これが伝道成功の徴候であります。”
(内村鑑三、『キリスト教問答』、講談社・講談社学術文庫53、1981年、p.195-196)
 すなわち、伝道とは、神が救いに定めた人を発見する喜びであるというのです。こうして伝道ということが、人間のわざではなく、神のわざであることになり、神さまに栄光を帰すことになります。そして、救いに定められているというのは、このときのパウロとバルナバの働きを通して救われることが定められている人、という意味にとればよいでしょう。他の人には、別の時が定められていると。そのように信じたいと思います。
 いずれにしても、神がイエス・キリストを信じるように定めておられる人がたくさんいる。現代は、神を信じるということについて、決してよい時代ではないかも知れません。伝道が困難な時代だと言われます。しかし神さまから見れば決してそうではない。依然として、神が救われる人を、救われる時を定めておられる。そのことを信じたいと思います。そして、内村のいうように、すでにキリストを信じるように神が定められた人を発見する喜びを共にしたいと思います。

(2016年9月4日)


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