礼拝説教 2016年8月21日 主日礼拝

「キリストによる救い」
 聖書 使徒言行録13章26〜41  (旧約 創世記15:6)

26 兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました。
27 エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。
28 そして、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました。
29 こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました。
30 しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです。
31 このイエスは、御自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にもわたって姿を現されました。その人たちは、今、民に対してイエスの証人となっています。
32 わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。
33 つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編の第二編にも、『あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを産んだ』と書いてあるとおりです。
34 また、イエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさったことについては、『わたしは、ダビデに約束した聖なる、確かな祝福をあなたたちに与える』と言っておられます。
35 ですから、ほかの個所にも、『あなたは、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしてはおかれない』と言われています。
36 ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てました。
37 しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。
38 だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、
39 信じる者は皆、この方によって義とされるのです。
40 それで、預言者の書に言われていることが起こらないように、警戒しなさい。
41 「見よ、侮る者よ、驚け。滅び去れ。わたしは、お前たちの時代に一つの事を行う。人が詳しく説明しても、お前たちにはとうてい信じられない事を。』」




     逗子教会創立記念日

 逗子教会は、1948年(昭和23年)8月15日午前10時、第1回礼拝をもち、歩み始めました。以下、逗子教会が創立60周年を記念して発行した『逗子教会60年の歩み』によりますが、逗子という町は文化人有名人の別荘地であり、また海軍将校が多く住むところでした。しかし終戦後、海軍将校は引っ越し、京浜地方で戦災を被った人々が移り住み、戦時中徴用工の宿舎として建てられた建物に海外からの引き揚げ者が住むようになりました。その中にはキリスト信徒もいて、教会の必要性が感じられるようになりました。
 そして、当時鎌倉教会牧師であった宮崎繁一先生が教会建設に動くことになります。先生は、横須賀米軍チャプレン、リッカー少佐に不用の建物の払い下げを依頼し、資材の提供の約束を得ました。そしてこの土地を得て、1948年8月15日、未完成のコンセットハット(かまぼこ型の米軍兵舎)に、腰掛けもなく古材の柱を4本重ねてその上に新聞紙を敷いて腰掛けとし、講壇には大きな箱を逆さまにして用いて礼拝がなされました。聴衆は5名でした。
 教会ができるというのは、信徒による礼拝が始まるということです。従ってこの日をもって当教会の創立記念日といたしました。いうまでもないことですが、教会はキリストの体であると新約聖書は記しています。すなわち教会は、人の集まりですが、人間のものではありません。主イエス・キリストの教会です。そしてその主は、人を用いて教会を作られます。すなわちそこには、主によって用いられ、労苦を惜しまず働く人がいるということです。私たちはその主によって用いられた先人たちのことも忘れないようにしたいと思います。

     パウロの最初の説教

 本日の聖書個所は、まさに教会が今までなかったところに教会ができていくという個所です。そのことを使徒パウロの働きを通して追っていきます。どうやって教会ができたのか。言い換えれば、どうやって人はイエス・キリストを信じていったのか。そういうことを、これらの個所を通して知ることができます。
 きょうの個所、それはピシディア州のアンティオキアという町でのことです。パウロとバルナバは、その町にあったユダヤ人の会堂で行われる毎週の安息日の礼拝に入っていきました。そこで会堂長に指名されて、パウロが説教を語った。そしてここでは、病が癒やされるとか、足の不自由な人が歩けるようになるというような奇跡はなされていません。ただみことばの説教を聞くことによってイエス・キリストを信じる人々が生まれていきます。
 ここに集まっているのは、この町に住むユダヤ人であり、また、ユダヤ人ではないけれどもユダヤ人が信じている天地の造り主なる神を信じる人々、求める人々でした。ですから旧約聖書を知っている人々です。そしてパウロは、そういう人々にはそういう人々にふさわしい仕方で語っていきます。
 前回は前半のところを読みました。そこでは、出エジプトに始まるイスラエルの歴史を簡潔に追っていきました。奴隷の国エジプトから神によって導き出され、荒れ野で40年過ごし、約束の地に入り、士師記の時代を過ぎ、サムエル記の時代となり、サウル王、そして次にダビデ王が立てられていく。そしてそのダビデの子孫として、神は約束どおりイエスさまという救い主を送って下さったこと。そしてイエスさまが救い主であることは、有名な洗礼者ヨハネも証言していたこと‥‥。
 そしてきょうの個所、後半では、そのイエスさまについて語ります。神が送られた救い主であるイエスさまを、27節ですが「エルサレムに住む人々やその指導者たちは」イエスさまを罪に定め、ローマ帝国の総督であるポンテオ・ピラトの手によって死刑、十字架刑にしてしまった。神が送られた救い主を、神を信じている人々が殺したのです。どうしてそんなことが起こってしまったのか?‥‥その答えは、本日のパウロの説教の中心部分と重なります。

     律法によっては義とされず

 このパウロの説教の中心は、38節39節にあると思います。なぜなら、ここでパウロは非常に大胆なことを述べているからです。それは、人は律法によっては義とされず、イエス・キリストを信じることによってのみ義とされるということです。律法とは旧約聖書に記されている神の掟です。義とされるとか義とされないとか分かりにくいと思われ方もいるでしょうが、もう少しわかりやすく言えば、それは救われる、救われないということです。
 すなわちパウロは、人はモーセの律法、すなわち神の掟を守るということによっては救われない、ただイエス・キリストを信じることによって救われるのだと言っているのです。さらにわかりやすく言えば、人は、良いことを行うことによって救われるのではない、ただイエス・キリストを信じることによって救われる、ということです。
 これは、イエスさまご自身が言わんとしたことでもあります。そしてそれがユダヤ人の宗教指導者の逆鱗に触れたのです。なぜなら、彼らはモーセの律法を守ることによって義とされると信じ、がんばっていた人たちだからです。自分たちはモーセの律法である神の掟を守ることができると思っていた人たちです。自分の力でがんばって、良い人になれると思っていた人たちです。自分の力で努力することによって、神さまに認めてもらえる人になれると思っていた人たちです。
 ですから、人間の頑張りや努力によって良い人になることはできない、すなわち人間はみな罪人であるということは受け入れることができなかった。罪人を救うために来て下さったというイエスさまを認めることができなかったのでした。そんなものは不要であるというわけで、そのイエスさまを十字架にかけて殺した。そういうことに至ったわけです。せっかく、がんばっても良い人になることのできない私たちを救うために神さまが送って下さった方、イエスさまを殺してしまったのです。

     復活

 しかし、それで救いがダメになったわけではありませんでした。神さまは、罪深い人間がイエスさまを殺してしまうことを織り込み済みでした。それが29節です。「イエスについて書かれていることがすべて実現した」と書かれている。イエスさまが十字架につけられて殺されることは、すでに神さまは知っておられた。その上でイエスさまをお遣わしになられた。
 神の子イエスさまを殺してしまうような人間を救うために、死んで墓に葬られたイエスさまを復活させられた!‥‥そのことが30節以降に述べられています。旧約聖書の言葉をいくつも引用して、イエス・キリストの復活が予言されていることを述べます。33節は詩編2編の引用、34節はイザヤ書55:3の引用、35節は詩編16:10の引用、41節はハバクク1:5の引用です。そのように旧約聖書のいくつもの個所を引用しながら、イエス・キリストの復活が神のご計画であり、予言されていることを論証しています。
 神の掟を守ることもできず、自らの力で善人になることもできず、そんな人間を救うために送られたイエスを殺してしまう。それが人間の罪の深さのしるしです。しかし、そんな人間、私たちを救うために復活されたイエスさま。このイエスを信じることによって救われる!パウロはそのように述べています。
 先週は、パウロは説教の中で「神は」と、神さまを主語にして考えていることを学びました。人間はどうしようもない。しかし神さまが何をなさったか、どうされたかということを。きょうの個所も、「神は」あるいは「神が」と言うように神さまが主語になっているところを拾ってみましょう。すると、30節で「神は」イエスを死者の中から復活させて下さった。33節で、「神は」イエスを復活させて、私たち子孫のためにその約束を果たして下さった。35節で、「神が」復活させたこの方(イエス)は朽ち果てることがなかった。‥‥と、人間の罪にもかかわらず、神さまがその人間を救うために、力強くイエスさまを復活なさったことが伝わってきます。
 そのように、神さまが主語になると、愛と希望があふれています。その神さまが送って下さったイエスさまを信じて救われるとパウロは言っています。

     信じる

 イエスさまを私の救い主として信じる。信じるということには、やはり理屈を超えたところがあると思います。
 昨日、教会を見学したいという来訪者がありました。そしてその方が私に尋ねました。「神はいるんでしょうか?」 私は、「いると信じています」と答えました。すると彼は「ほお」と言って驚かれました。
昨日は今日の聖日の準備の日でしたので、ゆっくりお話しする時間もなかったのですが、なぜ神を信じるのか、なぜイエスさまを信じるのかと問われた時、いくら言葉を尽くしたとしても、やはりどこかで理屈を超えるところがあるのだと思います。しかし、神の愛を信じ、イエス・キリストを信じると、その結果として新しい世界が開けていくということは信仰の事実であることは間違いないと思います。
 これは仏教の浄土真宗の開祖である親鸞の話しですが、親鸞は尊敬する師匠である法然について、門徒に対してこう言ったそうです。「たとい法然上人にだまされて、念仏して、地獄に堕ちても私は後悔しない。なぜなら、念仏以外の何か行でもして仏に成れる身だったのが、念仏したために地獄に堕ちたのなら、だまされたという後悔も起るだろうが、どの行も手に合わない自分であって見れば、どうで地獄より外に行く処はないのだ。」
 法然は立派な人だったに違いありませんが、人間ですからイエスさまと比べることはできません。すなわち、神さま、イエスは私たちをだましたりなさらないにきまっているわけですが、親鸞の言葉を借りれば‥‥「私を救うために命をなげうって十字架にかかって下さったイエスさまを信じたために万が一、仮に地獄に堕ちたとしても、後悔しない」ということになるでしょう。言い換えれば、イエスさまにすべてを預ける。そういう信仰に生きたいと思います。

(2016年8月21日)


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