礼拝説教 2016年8月7日 主日礼拝

「神の予定」
 聖書 使徒言行録13章1〜12  (旧約 イザヤ書52:10)

1 アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた。
2 彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」
3 そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。
4 聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、
5 サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた。
6 島全体を巡ってパフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った。
7 この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していた。総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした。
8 魔術師エリマ・・彼の名前は魔術師という意味である・・は二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした。
9 パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、
10 言った。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。
11 今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。
12 総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った。




     平和聖日

 8月の第一主日は、日本基督教団の暦で平和聖日となっています。昨日の6日は、広島の原爆記念日でした。このことをめぐる今年最大のニュースは、5月27日、アメリカのオバマ大統領が、現職のアメリカ大統領としてはじめて広島を訪問したということでしょう。そして慰霊碑に献花をし、スピーチをいたしました。そのあと、二人の被爆者と会話を交わし、そのうちのお一人、森重昭(もりしげあき)さんとハグをされた光景はとても印象的でした。
 私は、きのうの朝、日本テレビの「ウェークアップぷらす」という番組を見ておりました。するとその中で、キャスターの辛坊治郎さんが、オバマ大統領と会話を交わした日本原水爆被害者団体協議会(被団協)代表委員の坪井直(つぼいすなお)さんを取材をした場面が放送されていました。そして坪井さんに、オバマ大統領に最初に何と言ったんですか?と尋ねたところ、坪井さんはこのように答えておられました。「私は91歳の被爆者ですが、あなたに謝罪することを要求しません。本当にそう思っています。」‥‥そしてそのことについて、「肌の色が違おうとも、国が大きかろうと小さかろうと関係ない。われわれがやられた、あっちがやった、そんなことをいちいち考えなくてもいい、そうなったんです。」
 続けて、番組ナレーターは、「今、坪井さんの心にあるのは赦し。憎悪は国家間のあつれきを生み、核廃絶への道が遠のくだけだという」と紹介していました。
 私はこれを見ていてたいへん心を打たれました。坪井さん自身が被爆者である。そして原爆の時、多くの人々が死んでいくのを目の当たりにしました。しかし今、アメリカを非難するのではなく、赦しであるという。その赦しの心が、人々の心を感動させ、アメリカの大統領をも動かすことにつながっていったのではないかと思いました。おっしゃるとおり、憎しみは何も生み出さないばかりか、お互いの憎悪を増幅させます。
 私は、イエス・キリストの赦しを思い起こしました。私たちは、神にそむき、神を信じないで生きてきました。神の敵でありました。しかしそのような私たちを赦すために、イエスさまは十字架におかかりになったということを心に留めました。この十字架のキリストの愛を知った時、私たちの心は動かされ、変えられたのです。

     世界宣教へ

 本日の聖書ですが、ここはいよいよ教会が世界に向かってイエス・キリストの福音を宣べ伝える、世界宣教に踏み出すという個所です。それまでは、積極的に世界に福音を宣べ伝えるということはありませんでした。復活されたイエスさまが、弟子たちに向かって世界宣教命令を出されていたにもかかわらずです。それは、彼らユダヤ人が、ユダヤ教の教えからなかなか抜け出せないでいたからです。割礼を受けず、神の掟である律法を守ってもいない異邦人が救われるということは、彼らユダヤ人にとっては考えられないことでした。
 しかしここに至るまでも、神さまのほうが弟子たちよりも先回りをして進んで行かれる様子が描かれていました。エチオピア人の宦官がイエス・キリストを信じて洗礼を受けました。また、イタリア人の軍人がイエスさまを信じて洗礼を受けました。それらはいずれも、人間が伝道したというのではなく、聖霊が導いて、キリストを信じるに至ったのです。そのような神さまの働きを見せつけられて、教会はようやくユダヤ人以外の異邦人でも救われること、割礼を受けていなくても、律法を守っていなくても、イエス・キリストを信じるだけで救われるということを、神さまによって教えられてきたのです。そしてきょうの個所に至ったのです。
 場所は、エルサレムではなく、シリア州のアンティオキアの教会です。アンティオキアは、ローマ帝国でも第3の都会でした。そしてここにはすでにキリスト信徒の大きな群れ、すなわち教会がありました。
2節を見ると、彼らが主を礼拝して断食していたことが書かれています。断食というのは、もちろん食事をとらないことですが、なぜ断食するかというと祈りに集中するためです。ではなぜこのときアンティオキア教会の人たちは断食して祈っていたかというと、それはおそらく、世界宣教のことを祈っていたのだと思われます。これから世界に向かって、広大な世界の人々に向かって、イエス・キリストの福音を宣べ伝えていこうとしている。そのことについて、神さまの御心を尋ね求めて祈っていたのです。
 そうすると聖霊が告げたと書かれています。これはおそらく、預言者によって主が語られたということでしょう。主は言われました。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」‥‥主は、すでにこの二人にキリストの福音を宣べ伝えさせると予定しておられたのです。そして、その時が今や来たというのです。それで教会は、さらに断食して二人がその務めを果たすことができるように祈りました。

     なぜバルナバとサウロ?

 さて、バルナバとサウロが派遣されるのでしょうか? もちろんそれは、主がお決めになったことですから、神さまだけがご存知のことであると言えるのですが、聖書を通してこの二人について私たちが分かっていることもあります。
 まずバルナバですが、彼はキプロス島出身のユダヤ人でした。ユダヤ人の中のレビ部族、すなわちレビ人に属していましたから、旧約聖書、および神殿の礼拝について詳しかったことでしょう。ユダヤ名をヨセフと言いました。また彼は、この最初の伝道旅行にも連れて行っていますが、マルコによる福音書を書いたヨハネ・マルコのいとこでした(コロサイ4:10)。また使徒言行録4:36には、自分の畑を売って教会にささげたことが書かれています。また11:24には、「立派な人物で聖霊と信仰に満ちていた」と書かれています。これは祈りの人であったことを示しています。祈らないのに聖霊に満たされるという人はいないからです。また彼は、キリスト信徒を迫害していたサウロが回心したあと、そのサウロの回心をなかなか信じられないエルサレムの教会の人たちに、サウロを取り次ぎました。
 このようなことが聖書から分かります。すると彼は、よく祈る人であり、献身的な人であり、偏見のない人であり、ものごとを新港に寄ってみることのできる人であったと言えるでしょう。
 次にサウロですが、これは9章のところで私たちがすでに読んだとおりです。以前は熱心なユダヤ教徒のファリサイ派であり、キリスト教会をはげしく迫害していました。だから本来なら、神の罰を受けて滅ぼされた当然の男でした。しかしそんな彼のところに、ご承知のように、イエス・キリストがあらわれ、彼を赦し、キリストの弟子として下さったのでした。ですからサウロという人は、キリストの赦しのすばらしさを最もよく知っている人のひとりと言えるでしょう。

     準備の時

 そのサウロの回心のできごとの時、主はダマスコにいたキリスト信徒アナニヤに、サウロのことを「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」(使徒9:15)とおっしゃっています。すなわち、主は、サウロを回心させた時すでに、サウロを世界宣教者として用いることを予定しておられました。あれから約10年の歳月が流れています。10年というのは、当時の平均寿命が現代と比べて格段に短かった時代ですから、決して短い時間ではありません。なぜ主は、もっと早くサウロを世界宣教に向かわせられなかったのか?‥‥そんなふうにも思います。
 しかしそれには神さまのご計画があったといわざるを得ません。この10年の時は、サウロを世界宣教に送り出すための準備の時、訓練の時であったのでしょう。これは私たちにとっても同じです。祈っているのになかなかかなえられない。あるいは、これは神の御心だと確信しているのに、なかなか実現しない。‥‥しかし神さまは、私たちの知らないうちに、着々と準備を進めておられる。そういうことがあるものです。

     キプロスへ

 さて、そうしてバルナバとサウロは、バルナバのいとこであるヨハネ・マルコを同行させて、初めての世界宣教に出発しました。最初に向かったのは、地中海に浮かぶキプロス島でした。ここはバルナバの出身地でした。しかしここでさっそく、二人に立ちはだかる敵が現れます。それは、キプロス島の総督セルギウス・パウルスの前で、魔術師と対決するというできごとです。
 その人について、6節に「ユダヤ人の魔術師で、バル・イエスという一人の偽預言者」と書かれています。そしてまた8節には、「魔術師エリマ」と書かれている。これはおそらく同一人物です。魔術師というのは、わかりやすく言えば占い師です。ものごとを占い、運勢を変えるために祈祷をする。そういう商売です。6節で「偽預言者」とも呼ばれているのは、この人が神さまの名前を使って占っていたからでしょう。本当は神さまの言葉ではないのに、あたかも神さまが占ったかのように言う。だから「偽預言者」と言われているのです。
 この魔術師エリマは、総督がバルナバとサウロの語るイエス・キリストを信じ始めたのを妨害しました。おそらく二人の語るイエスさまのことを中傷したのでしょう。
 そこで二人はこの魔術師と対決いたします。パウロたちは、積極的に相手を口撃するということはいたしませんが、相手が人の信仰を覆そうとした時には、断固として反論いたします。サウロは、聖霊に満たされて、すなわち聖霊の言葉、預言を魔術師エリマに告げます。そうするとエリマは目が見えなくなってしまった。もちろんそれはサウロが聖霊によって語っているように、しばらくの間のことでしょうけれども。
 これを見た総督は、驚き恐れ、イエス・キリストを信じました。このように、偽物と対決することによって、イエス・キリストを信じるに至りました。

     すべてに優るキリストの名

 イエス・キリストを信じること、イエス・キリストの名は、魔術に優るということを示しています。しかも圧倒的にです。そのことを教えられます。
 今日、どこを見ても占いがあふれています。最近携帯電話を買い換えました。「スマホ」ではなく、今までどおりの「ガラケー」というやつです。ところがその最初の画面の下の方に、「天気」「ニュース」というアイコンに並んで、「占い」というアイコンがあるんです。このアイコンをどうやって消したら良いか分からないので、そのままになっているんですが、インターネットにも占いはあふれています。しかしそのようなものは、何の根拠もなければ力もありません。ハッキリ言ってデタラメです。ところがこういうものに惑わされる人がいます。
 占いに惑わされている人、あるいは怪しげな教祖のカルト宗教に入りかけている人‥‥私たちはそのような人から相談を受けたら、ハッキリと言うことができます。「それはデタラメである」と。イエス・キリストを信じるものは、そのように断言することができる。占いは人を救うことができません。教祖はやがて死んでいく人間です。何の力もありません。私たちは何も恐れることなく、それらは誤りであるとハッキリ言うことができるのです。
 そしてイエス・キリストを信じれば良いのだ、と言うことができます。私たちはそのようなイエス・キリストを信じているのです。

(2016年8月7日)


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