礼拝説教 2016年7月31日 主日礼拝

「栄光は誰のもの」
 聖書 使徒言行録12章20〜25  (旧約 サムエル記上2:2)

20 ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた。そこで、住民たちはそろって王を訪ね、その侍従ブラストに取り入って和解を願い出た。彼らの地方が、王の国から食糧を得ていたからである。
21 定められた日に、ヘロデが王の服を着けて座に着き、演説をすると、
22 集まった人々は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。
23 するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた。
24 神の言葉はますます栄え、広がって行った。
25 バルナバとサウロはエルサレムのための任務を果たし、マルコと呼ばれるヨハネを連れて帰って行った。




     相模原市での事件について

 先週の火曜日、相模原市の障害者福祉施設で、恐るべき事件が起きました。元職員の男が夜中に侵入し、刃物を使って入所者19人を殺害し、26人に重軽傷を負わせたという事件です。これは戦後最悪の殺人事件だそうです。私たちは、その残忍な手口と被害の大きさにも驚かされました。そしてそれだけではなく、犯人がこのような事件を起こすに至った、その犯人の障害者に対する考え方、思想にさらに驚かされたのではないでしょうか。
 容疑者は、「障害者なんていなくなればいい」とか「税金のムダ」などと言っていたと報道されています。そして今年の2月には、衆議院議長に宛てた手紙を書き、その中で犯行の予告とともに「障害者は不幸を作ることしかできません」などと書かれていたということです。そのように、障害者に対する偏見と憎しみの思想を持っていて、それをもとに凶行に及んだということに、私たちはたいへん驚かされ、また心を痛めたのであります。
 私たちはこのような偏見、間違った思想に対して、どのように反論することができるでしょうか。もちろん、すでに多くの人々が彼の思考の誤りを指摘し非難しています。しかしわたしたちキリスト者は、もっと根本的なところを見なければならない、そうでないと本当に解決につながらないと思うのです。
 それは、命というものは神さまが与えられたものだということです。神が与えられたなかった命などというものはありません。わたしたちひとりひとりは、誰であっても神が与えてくださった命です。そしてそのひとりひとりの命に、重いとか軽いとかいうことはなく、すべて同じ命です。しかもその命は、創世記2章を読むと分かりますが、そこには神さまが土の塵で人を形作り、その鼻から命の息を吹き入れられて人が生きる者となったと書かれています。神さまが鼻から命を吹き入れられた‥‥そこには神さまが愛をもって私たちに命を与えてくださったことが伝わってきます。
 そのように、神が私たちを愛して命をお与えになったということを忘れてはなりません。従って神がお与えになった命を、人間が奪うことは許されないことです。それゆえ十戒において「殺してはならない」と命じられているのです。殺してはならないと命じられているのに殺すということは、神にそむくことになります。
 さらに「障害者」ということで言えば、イエスさまのわざが最も多く現れた方々が、障害をお持ちの方であり、病気を抱えておられる方々でした。イエスさまが神の子であることは、それらの方々を通して証しされたことを思い出さなければなりません。たとえばヨハネによる福音書9章では、生まれつき目の見えない障害を持った人を通して栄光を現されました。弟子たちは、この人が生まれつき目が見えないのは、本人が罪を犯したか、両親が罪を犯したか、その因果応報で障害を持って生まれたのではないかと言いました。しかしイエスさまは即座にそれを否定なさり、「神のわざがこの人に現れるためである」とおっしゃり、奇跡をなさってこの人の目を開けられました。そのように、イエスさまは世間から偏見で見られている人々を通して、神の子としての栄光を現されました。
 さらに、障害や病気を持った方々を見下したような見方に対しては、パウロがみずからのことを語った次の言葉を思い起こすべきでしょう。(1テモテ1:15)「私はその罪人の中で最たる者です。」‥‥この自分自身こそ、神の怒りによって滅ぶべき罪人の中でも、最もひどいものであった。しかしそのひどい罪人である私を救うために、イエス・キリストは十字架にかかって命を投げ出してくださった。生きていても仕方がないようなこの私のために、この私を救うために、この私をかけがえのないものとして、愛して十字架にかかってくださったキリスト。そういう自分自身の告白です。このキリスト・イエスさまを見つめた時に、本当のことを知るのであります。

     ヘロデ王の末路

 さて、本日の聖書には、ヘロデ王(このヘロデは、イエスさま誕生の時のヘロデ王の孫に当たる人)の最後が記されています。このヘロデ王、すなわちヘロデ・アグリッパ1世は、ユダヤ、サマリア、ガリラヤ地方の統治をローマ皇帝によって任されていました。今日のイスラエル国とパレスチナ自治区をあわせたような領域と言えます。このヘロデ王は、使徒ヤコブを処刑しました。そして民衆の歓心を買うために、使徒ペトロも捕らえて処刑する段取りにしていましたが、前回読みましたように、主が介入なさってペトロを奇跡によって解放なさいました。ヘロデ王は、牢獄のペトロを監視していた番兵たちが逃がしたと思ったのでしょう。番兵を死刑にいたしました。
 このように、権力をかさにやりたい放題のヘロデ王。神はいったい何をしておられるのか?いつまでこの暴政を放置しておかれるのか?‥‥そういう疑問が読んでいる者の心に浮かんできます。
 きょうの個所ですが、この出来事が起こった場所は、カイサリアという地中海岸の町でのことです。今日のテルアビブのすぐ北にあたります。「カイサリア」とは、カエサルの町、すなわち皇帝の町という意味です。この町は、このヘロデ王の祖父であるヘロデ大王がローマ皇帝の名を冠して建設した町です。ヘロデ王は、このカイサリアにて、時のローマ皇帝クラウディウスの誕生日を祝う祝賀会を開催いたしました。その誕生日とは8月1日ですから、ちょうど明日ということになります。祝賀会をして、ローマ皇帝への忠誠の意思を表すのです。場所は、カイサリア市内の競技場。この競技場は、剣闘士の戦いなどの見世物が行われました。当時は、そうして民衆の娯楽としたのです。
 そこに、国外から、すなわちティルスとシドンの住民も来ていました。ティルスとシドンは、現在のレバノン共和国のティールとサイダという町です。この地方の住民は、ヘロデ王が統治するイスラエルから食糧を得ていたと書かれています。しかしヘロデ王はティルスとシドンの住民に腹を立てていた。それでティルスとシドンの住民は、ヘロデ王のご機嫌をとるために、このよう議場での祝賀会に参加し、ヘロデ王を持ち上げようとしたのです。
 ヘロデ王が民衆の前で演説をすると、ティルスとシドンの住民が口火を切ったのでしょう、大声でヘロデ王をほめたたえ始めました。曰く、「神の声だ。人間の声ではない!」‥‥すると、たちまち主の天使がヘロデ王を撃ち倒したと書かれています。具体的には、「蛆に食い荒らされて息絶えた」と書かれています。こうしてヘロデ王は死にました。
 このできごとは、ヨセフスという当時のユダヤ人の歴史家も『ユダヤ古代史』と言う書物の中で書き記しています。ちなみにヨセフスはキリスト者ではありません。それによりますと、このローマ皇帝の誕生日を祝う祝賀競技会には、多数の貴族や地方長官らも集まっていました。祝賀競技会の二日目、ヘロデ王は全面銀色に輝く衣をまとい、夜明けの光の中で席に着きました。王の衣装は朝日にさんぜんと輝いたそうです。すると観客席から、王にへつらう者たちの声が上がりました。「我らに恵みをたれたまえ。王よ、これまでは人間としてあがめ奉りましたあなたさま、今からは死すべき人間以上のお方として拝しまつる。」‥‥王を神として崇める声。王はそれを止めなかった。
 すると突如、王は腹部に激しい痛みを覚えました。王は王宮に運ばれましたが、五日間、七転八倒の苦しみのあげく絶命しました。享年54歳だったといことです。私たちが手にしている新共同訳聖書では、23節に「蛆に食い荒らされて」と書かれていますが、原語は「虫に食われて」、あるいは「寄生虫に冒されて」という言葉になっています。どうやら寄生虫によって内蔵がやられたようです。
 このことについて、使徒言行録を書いたルカは、「主の天使が撃ち倒した」「神に栄光を帰さなかったからである」と書き記しています。

     神に栄光を帰さなかった

 聖書では、栄光は神さまのものであることが記されています。言い換えれば、神さまだけが拝まれ、ほめたたえられ、賞賛されるべきであるということです。ましてやこのとき人々は、ヘロデ王を神としてほめたたえました。神さまに成り代わろうというのです。しかしヘロデ王はそれを止めなかった。むしろ、人々がそのように自分をほめたたえ、崇めるので、悦に入っていたのでしょう。
 それと対称的なのが、キリストの使徒たちです。例えば10章で、ローマの軍人であるコルネリウスがキリスト信徒となったことを学びましたが、コルネリウスの家に使徒ペトロが来た時、コルネリウスはペトロの足もとにひれ伏して彼を拝みました。するとペトロは、「お立ち下さい。わたしもただの人間です」と言って、コルネリウスを起こしました。ヘロデは、それと対称的です。

     神に栄光を帰す生き方

 キリスト信徒の信仰生活とは、神に栄光を帰す生き方であると言って良いでしょう。
 むかし、サッカーのJリーグ鹿島アントラーズの主力選手に、ビスマルクという選手がいました。彼はゴールを決めると、必ずすぐにグランドにひざまずいて祈りをささげることで有名でした。試合後のインタビューでは、必ず「ゴールを決めることができたのはイエスさまのお陰」と言いました。サポーターはビスマルクをほめたたえて歓声を上げる。しかし彼は、イエス・キリストをほめたたえました。そのような生き方です。
 わたしの尊敬する宣教師がいました。先生は、「良いお話でした」と言われると、「いや、聖書がすばらしいのです」と言うのだとおっしゃっていました。そのような生き方があるのだということを私は知りました。そのような生き方が主によって祝福され、喜びがあるのです。
 神の栄光を求めない生き方は、「自分が」「自分が」となります。自分が良い評価をされ、自分の思い通りになることを願って生きることになります。そこには平安がありません。いつも不平不満があります。この私がそうでした。しかし、神に栄光をお返しする生き方を知って、平安が来ました。
 2010年バンクーバーオリンピックのフィギュアスケート金メダリストである韓国のキムヨナ選手。彼女は、2008年にお母さんと一緒に洗礼を受けました。オリンピックでは、すべる前に胸の前で十字を切っていたのをご記憶の方も多いでしょう。彼女は浅田真央選手を破って優勝しました。すべる前はどんなに緊張することでしょう。しかしキムヨナ選手には、全くそのようなものが感じられませんでした。そのキムヨナ選手は、こう言っていたそうです。「準備は万全です。誰が金メダルを取るかは、神さまが決めるものです。たとえ金メダルを取れなくても、そんなに失望はしません」。
 旧約聖書のヨブ記で、ヨブはひどい試練に遭遇しましたが、彼はこう言いました。「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ記1:21)
 主なる神さまをほめたたえ、主に栄光を帰し、主にゆだねる。ここに平安があることを聖書は教えています。

(2016年7月31日)


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