礼拝説教 2016年7月24日 主日礼拝

「祈りと驚き」
 聖書 使徒言行録12章1〜19  (旧約 詩編66:19〜20)





     神の御心は

 本日の聖書では、はじめに使徒ヤコブが殉教いたします。12使徒最初の殉教者です。いっぽう、後半は同じく使徒のペトロがヘロデ王によって逮捕されましたが、神の介入によって救出されたという奇跡が書かれています。わたしたちは、この二人の使徒に起こった出来事の差を不審に思います。使徒ヤコブは剣で斬り殺され、使徒ペトロは天使を送って劇的に救出される。この差はいったい何なのか? 神はなぜヤコブをお助けにならなかったのか? 神はヤコブを見捨てられたのでしょうか? あるいはヤコブが神の御心にかなわないことをしたから、神はヤコブを助けなかったのでしょうか?
 しかし、そうではありません。そのようなことであるはずがありません。まずわたしたちは、この地上の命がすべてではないことを思い起こさなければなりません。いや、わたしたちのこの地上で生きている間の時間というものは、ほんのわずかしかないことを心に留めなければなりません。わたしたちが地上で生きている時間というものは、ほんの数十年に過ぎません。それに対して、神の国に行ったならば、そこには永遠という時間があるのです。
 そして何よりも、わたしたちの主であるイエス・キリストもまた、十字架という死刑台で処刑されたことを思い出さなくてはなりません。イエスさまが十字架で殺された時は30歳あまりでした。しかし復活なされ、天の父なる神のみもとへと行かれたのです。
 キリスト者であるヤコブは、そのイエスさまによって永遠の世界に迎え入れられたことを覚えなくてはなりません。7章で記されていたステファノが殉教した時、天国のイエスさまが立ち上がってステファノを迎え入れられたようにです。ではペトロが奇跡によって救出されたのはなぜでしょうか? それは主は、ペトロについて用いられる計画をもっておられたということでしょう。

     使徒ヤコブの殉教とペトロの投獄

 使徒ヤコブを処刑したのはヘロデ王であったことが記されています。新約聖書には、ヘロデ王という名前の人が何人も登場します。今日登場するヘロデ王は、ヘロデ・アグリッパ1世という人で、イエスさまがお生まれになった時のヘロデ王の孫です。そしてイエスさまが十字架にかけられた時のヘロデ王の甥に当たります。このヘロデ・アグリッパ1世は、西暦41年から44年までユダヤ・パレスチナの王でした。王様と言っても、ローマ皇帝のもとでの王様ですから、一番偉いわけではありません。わかりやすく言えば、日本の江戸時代の大名のような地位です。ローマ皇帝のもとでユダヤ・パレスチナ地方を治めることを任されていたのです。
 そのヘロデ王が使徒ヤコブを死刑にしました。ヤコブという名の使徒は二人いますが、こちらのヤコブはゼベダイの子ヤコブであり、使徒ヨハネの兄弟です。すなわち、ペトロとアンデレと共に、最初にイエスさまの弟子となった人たちの一人であり、ガリラヤ湖で魚を捕っていた漁師でした。彼が12使徒最初の殉教者となったのです。ちなみにヤコブの兄弟のヨハネは、12使徒の中でもっとも長く生きた人です。
ヘロデ王がキリスト教徒を迫害しだした理由は、どうやらユダヤ教徒の歓心を買おうとしたところにあるようです。ただいま申し上げましたように、ヘロデ王は王と言っても国のトップではなく、トップはローマ帝国の皇帝です。ローマ皇帝からユダヤ地方をうまく治めるように任されている。会者には中間管理職という言葉がありますが、ヘロデの場合、言ってみれば中間権力者です。
 そしてヘロデ王は、純粋なユダヤ人ではありません。もともとイドマヤ人、つまりエドム人の出身です。だからユダヤ人をうまく治めるためには、ときどきユダヤ人の気に入ることもしなければならない。そこでキリスト教徒に目をつけた。ユダヤ教は、自分たちの中から分かれていったキリスト教を快く思っていませんでした。ステファノの殉教に始まるキリスト教徒への迫害は一段落したとは言え、異邦人にも伝道し始めたキリスト教会に対しては不満がくすぶっている。それでヘロデは、それを利用し、キリスト教会の指導者である使徒の一人のヤコブを捕らえて処刑することをしたと言えます。その結果、ユダヤ教徒はそれを喜んだ。それでヘロデはさらにユダヤ教徒の支持を得ようとして、ペトロをも捕らえたというわけです。
 こうしてペトロは三度、捕らえられることとなりました。そしてそれは「除酵祭」、すなわち「過越祭」の時であったと書かれています。ヘロデは、その祭りの終わったあとにペトロを民衆の前に引きだし、処刑するつもりでした。

     祈る教会

 権力者の都合によって迫害され、もはやペトロの運命も風前の灯火となりました。たいへんきびしい状況です。相手はヘロデ王という権力者、そしてその背後にはキリスト教徒への迫害を支持する圧倒的多数のユダヤ教徒がいる。教会はどうすることもできません。
 教会はどうしたのか?‥‥5節に書かれています。「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていたと。教会の対抗措置は祈りでありました。神に祈る。それは全く見栄えのしないことに見えるでしょう。日本では、「祈っているよ」と言えば、それは何か祈りによって問題が解決することを意味するのではなく、「ダメだろうけれども、自分の気持ちとしてはそう願っている」というような自分の気持ちを相手に伝える、単なる社交辞令のように受け取られるでしょう。
 しかし教会が祈るという時、それは天地の造り主であり、全知全能の神さまに向かって、その偉大な力を信じて祈ることであるはずです。このときも教会は祈りました。「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた」と書かれています。「熱心な祈り」とあります。熱心な祈りとはどういうものか?‥‥この「熱心」と訳されている言葉は、「絶えることなく」という意味の言葉です。すなわち「熱心」とは「絶えることなく」祈るということでもあります。気持ちが熱心と言うだけではなく、絶えることなく祈るということです。祈り続けたのです。

      ペトロの救出

 さて、牢獄に閉じ込められたペトロは、人間の目で見たら助かるのは絶望的な状況でした。厳重な警備体制のもとに置かれていました。二人の兵士と鎖でつながれていました。さらにそのペトロの入れられている獄の部屋の戸口には番兵たちが交替で牢を見張っていました。さらにその外には第一衛兵所があり、そのそとにはさらに第二衛兵所があり、さらにその外には、町に通じる門があり、そこには鉄の扉がありました。これでは脱獄は全く無理と言わなければなりません。教会の祈りも無駄なことのように見えます。しかも明日、ペトロは引きだされて処刑される‥‥。もはや絶体絶命です。
 しかしまさにそのような時に主は行動を起こされました。まさに引きだされる前夜、主は御使いを送られました。天使は眠っていたペトロを起こし‥‥と、明日引きだされるというのに眠っていられるところに、ペトロが全面的に主に信頼してゆだねていたことが分かりますが。ペトロの手から鎖が外れて落ちました。そしてペトロは天使の言うとおりについていくと、二つの衛兵所を通過し、町に通じる鉄の門が独りでに開き、町の中に至ったのです。
 そういう奇跡が起きました。まさに神にできないことは何もない。そのみことばを思い起こすことができます。

     びっくりする教会

 ペトロは神の奇跡の介入によって解放されました。11節ではペトロが、我に返って「今、初めて本当のことが分かった」と言っています。おそらくペトロはここまでの奇跡が、まるで夢を見ているようだったのではないでしょうか。あまりのことに、現実とは思えない。そういう奇跡だったのです。
 これは教会の人々にとっても同様でした。ペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行ったと書かれています。この家は、最後の晩餐の家であったとも言われています。そしてこの家が、教会として使われていたと考えられます。当時は教会堂という建物はありません。比較的広い家を持つ信徒が、自分の家を教会の集まりの場所として提供していたのです。
 牢獄から救い出されたペトロはそのマルコの母の家に行きました。そして玄関のドアをたたきました。その家では多くの信徒が集まって、ペトロのために祈りをささげていました。女中が玄関まで来ました。すると門をたたく人の声がペトロの声だと分かり、驚きのあまりドアを開けもしないで戻って、ペトロがいると、集まって祈っている人々に告げました。すると人々は、「あなたは気が変になっているのだ」と言ったと書かれています。‥‥これはおかしな返事ではありませんか。なぜなら、彼らは獄中のペトロが助かるように神さまに祈っていたのです。そしてその祈りが聞かれて、ペトロが神の奇跡によって解放されて戻ってきたというのに、それが信じられないで、「あなたは気が変になっているのだ」という。いかにもおかしい。自分たちの祈りがかなえられたということが信じられない。祈っているのに、祈っていることがかなえられるということが信じられない‥‥。
 しかし、こういうことはわたしたちにもあるのではないでしょうか。祈っているのに、祈っていることがかなえられるとは信じていない。まさか祈りが聞かれるとは信じていないということが。そういう意味では、このときの教会の信徒たちも、わたしたちも不信仰です。しかしイエスさまが、そして神さまがすばらしいのは、そういう不信仰な者の祈りであるのにもかかわらず、このような形で奇跡を表して下さったということです。そのような神さまに、そしてイエスさまに感謝です。
 それゆえ、私たちはあきらめてはなりません。この不信仰な自分を丸ごとイエスさまにおゆだねし、祈り続けるのです。

(2016年7月24日)


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