礼拝説教 2016年7月10日 主日礼拝

「先行する神」
 聖書 使徒言行録11章1〜18  (旧約 イザヤ書55:5〜6)

1 さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。
2 ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、
3 「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。
4 そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。
5 「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。
6 その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。
7 そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、
8 わたしは言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』
9 すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。
10 こういうことが三度あって、また全部の物が天に引き上げられてしまいました。
11 そのとき、カイサリアからわたしのところに差し向けられた三人の人が、わたしたちのいた家に到着しました。
12 すると、”霊”がわたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。ここにいる六人の兄弟も一緒に来て、わたしたちはその人の家に入ったのです。
13 彼は、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が、こう告げたことを話してくれました。『ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。
14 あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。』
15 わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。
16 そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。
17 こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」
18 この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。




     転機

 引き続き、ローマ帝国の軍人であるイタリア人の百人隊長コルネリウスがイエス・キリストを信じて救われたできごとの続きです。このできごとは、10章の冒頭から始まっています。一つのできごととしては、かなりページを割いていると言えるでしょう。ペンテコステのできごとが書かれているのと同じぐらいの分量があります。
 聖書がこれほど長く一つのできごとを書き留めているということは、このことが非常に重要なできごとであるからだと言わなくてはならないでしょう。教会の歩みにとって、非常に大きな転機となっているのです。それは、イエス・キリストを信じることだけで異邦人も救われることが明らかとなり、世界宣教に向かって行くという転機です。

     ペトロを糾弾する教会

 カイサリアの町にて、主の導きのもと異邦人であるコルネリウスたちに洗礼を授けた使徒ペトロ。そのペトロがエルサレムに戻ってきました。すると教会は、使徒ペトロを非難しました。「割礼を受けていない者」、すなわち異邦人(外国人)と一緒に食事をしたと言って。
 すでに申し上げていますように、最初の教会はユダヤ人から始まっています。このときの教会もユダヤ人ばかりの教会でした。そうすると、ユダヤ人には旧約聖書の律法に基づいて作られた掟がありました。その掟によれば、異邦人は宗教的に穢れており、交際してはいけないことになっていました。
 また、ユダヤ人の掟には食物規定というものがありました。それは旧約聖書のレビ記に基づいています。食べてはいけないものが決められているのです。それが穢れた動物です。穢れたというのは、汚いという意味ではありません。宗教的に穢れているのです。例えば豚は穢れていて、食べてはならない動物であるというのは有名です。なぜ豚が穢れているかと言えば、レビ記には反芻しない動物、あるいはひづめが分かれていない動物は穢れていると書かれているからです。だから、豚だけではなく、野ウサギや岩だぬきも食べてはならないと書かれています。また、水の中に住む魚類でも、ウロコのないものは食べてはならないと書かれています。だからタコだとか、なまこなどは穢れており、食べてはならないことになります。ではなぜそれらの生き物が穢れているのかと言われても、旧約聖書にそう書いてあるからとしかいいようがありません。
 他にも、様々な規定があります。乳製品と肉をいっしょに食べないとかです。今日のイスラエルでも、ユダヤ教のラビが認定したレストラン、すなわち食物規定をちゃんと守っているレストランが一流のレストランとされているようです。では食物規定に違反する食べ物を食べたいと思ったらどうするのか? それはちゃんと異邦人用のレストランがあります。
 ともかく、エルサレムの教会、それはキリスト教会の中心でしたが、彼らはユダヤ人でしたので、ペトロが異邦人と一緒に食事をしたと言ってペトロを非難したのです。これはなにか、まるで福音書に登場するファリサイ派の人々のようですね。イエスさまと対立し、イエスさまが最もきびしく非難したのがファリサイ派でした。ところが、教会がそのファリサイ派のようになってしまっている。

     何が変わったのか?

 さあ、こうなるとこれまでのユダヤ教と比べて、キリスト教会は何が変わったのか?ということになります。どうも多くのユダヤ人クリスチャンたちは、旧約聖書の律法の規定を守ると同時にイエス・キリストを信じると考えている。つまり、律法+イエス・キリストであると考えているようです。
 したがって、異邦人、つまり外国人が救われるためには、まず最低限、割礼を受けてユダヤ人のようになり、その上で食物規定を含む旧約聖書の律法を守り、その上でイエス・キリストを信じることが必要である‥‥そのようなことになります。まず男子は割礼を受けなければならない。そしてユダヤ人が守っている旧約聖書の掟を守らなければならない。その上で、イエス・キリストを信じることが必要である‥‥という3段階となります。
 言い換えれば3階建てです。ユダヤ人はすでに1階2階の部分は済ませている。だからイエス・キリストを信じるだけでよい。しかし異邦人は、まず1階2階の部分を守らなければならない。その上でイエス・キリストを信じる必要があるということになるのです。
 そうすると、結局イエス・キリストの救いとは何なのか?ということになるでしょう。イエスさまは、罪人を救うために十字架にかかられたのではなかったのか? 罪人であっても、イエス・キリストを信じれば救われるのではなかったのか? すなわち、異邦人であっても、だれであっても、イエス・キリストを信じれば救われるのではなかったのか?
 それなのに、ペトロを非難するこの最初の教会の使徒たち、キリスト信徒たちは、まるでイエスさまが登場する以前のユダヤ教に戻ってしまったかのようです。その背景には、やはり自分たちはアブラハムの子孫であるという、民族的優越感があるように思います。だから、異邦人はまずここまで登ってこいという意識が見え隠れします。自分たちは神の民であり、さらにイエス・キリストを知っていると。何か高いところに登っていくような感覚です。

     事実を述べるペトロ

 そのような非難に対して、ペトロはどう反論したか?
 4節を見ると、「そこでペトロは、事の次第を順序正しく説明し始めた」と書かれています。つまりペトロは、なぜ異邦人であるイタリア人のコルネリウスの所に行ったのかということの事実経過を話し始めたのです。ペトロは、なぜ異邦人のところに行って、異邦人に洗礼を授けたのかという理屈を言ったのではありません。また、ユダヤ人も異邦人も平等であるというような思想を述べたのでもありません。神さまがなさった事実を淡々と述べたのです。神さまがなさった事実を述べる。それを教会では「証し」と言います。
 それで10章の最初から書かれていることを、ていねいに話し始めました。‥‥ペトロがヤッファの町で主から幻を見せられたこと。その幻は、穢れた生き物について、神が清めたとおっしゃったこと。つまり、食べてはいけない穢れたものなどなくなったということ!!これはユダヤ人にしたら、驚くべき、ひっくり返るようなことでした。そしてその穢れはなぜ清められたかというと、先日申し上げたように、イエス・キリストの十字架によって清められたのです。穢れたものなどなくなった。イエスさまが十字架で命をささげて、全て清められたのでした。そういうことを意味しています。
 その穢れの清めの幻が、「三度」あったとペトロが言っています。「3」回というのは決して忘れないように、念を押している数字です。例えば、ヨハネによる福音書21章で、復活なさったイエスさまが、ペトロに対して「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と3度尋ねられ、「わたしの羊を飼いなさい」と3度おっしゃったのもそうです。非常に大切なこと、その恵みを主は3回おっしゃるということをなさるのです。だから、この穢れの清めも非常に大切であり、決定的なことであることを表しています。
 するとそこに、カイサリアから来た3人の人、それがコルネリウスが天使に告げられてペトロの所に遣わした人々です。その3人がやって来た。天使に告げられてやって来たのです。ですからこれも神のなさったことです。そしてペトロがコルネリウスのいる家に向かった。そしてイエスさまのことを話し出すと、彼ら異邦人に聖霊が降った。神さまが、人間の考えに先立って、異邦人に聖霊を与えたのです。神さまがそうなさった以上、わたしが洗礼を授けないわけには行かないでしょう‥‥とペトロは言っているわけです。
 そのように、異邦人のところに行き、一緒に食事をしたのは、神さまがなさったことであるということを、事実をもって証ししました。それを聞いた教会の人々は、言葉を失いました。神さまがなさったということが、今のペトロの証しでハッキリしました。それで彼らは、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美するに至りました。
 このできごとは、教会が、異邦人の救いを公認したということになります。もはや、キリストによって救われるのには、ユダヤ人も異邦人も関係ない。1階も2階も関係ない。ただイエス・キリストを信じる。このことだけによって救われる。そのことがさらに明らかとなっていくのです。
 そうすると、旧約聖書はどうでも良いのか?‥‥そうではありません。先ほど交読文の中で聖書の中でも最も長い章である詩篇119編を交読いたしました。各段落の冒頭に書かれている( )内の「へー」とか「ワウ」という言葉は、ヘブライ語のアルファベットです。つまり詩篇119編は、日本語で言えばいろは歌のように、各段落の冒頭の文字がヘブライ語のアルファベットの順になっているという歌です。その今日の「へー」のところでも、「あなたの律法を理解させ、保たせてください。わたしは心を尽くしてそれを守ります」と書かれていました。
 教会は、旧約聖書の律法を、イエス・キリストの到来を指し示す預言と信じているのです。その意味で大切であると。しかしユダヤ人は、律法の規定を永遠にそのとおりに守る法律であると信じている。教会は、律法の規定はキリストによって成就し、キリストを信じることに置き換わるものと信じています。

     ただ神のあわれみ

 さて、私たちは、ペトロを非難した教会を見て、おかしなことだと思います。しかし私たちにはそういうところはないでしょうか。最初の教会のユダヤ人キリスト者たちが、異邦人に対してなんとなく優越感を持っている。少なくとも距離をとっていることは事実です。
 私たちは、本当の神を知っている、そして信じていることについて、少しでも優越感を持ったりしないでしょうか。まだ真の神を知らない人々に対して、心のどこかで軽く見ることが少しでもあるとしたら、それはこのペトロを糾弾した人たちと同じことになります。
 しかし実は、自分自身、神さまに対して何も誇ることができないことを思い出さなくてはなりません。私自身、幼い時にイエスさまによって命を助けられながら、そののち教会を離れ、神を信じなくなった恩知らずのものです。何も救われる値打ちのない者です。そのまま死んでしまっても何も文句の言えない者です。しかし主は、そんな私を救ってくださった。再びキリストのもとへと導いてくださいました。その神の愛を思うと、感謝としか言いようがありません。それは私が偉かったとか、なにか神さまの律法を守ったとかいうことでは全然ありません。ただキリストがわたしを憐れんでくださった、それだけです。そのことを忘れてはならないと思うのです。
 分け隔てなく、すべての人を救ってくださるのがイエス・キリストです。ただイエス・キリストを信じれば救われる。感謝と言うほかありません。

(2016年7月10日)



[説教の見出しページに戻る]