礼拝説教 2016年7月3日 主日礼拝

「イエスが主―永遠の求道者」
 聖書 使徒言行録10章34〜48  (旧約 イザヤ書66:2)

34 そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。
35 どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。
36 神がイエス・キリストによって・・この方こそ、すべての人の主です・・平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、
37 あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。
38 つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。
39 わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、
40 神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。
41 しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。
42 そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。
43 また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」
44 ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。
45 割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。
46 異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、
47 「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。
48 そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。それから、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願った。



     救いを求め続けたコルネリウス

 ローマ帝国の軍人で、イタリア人の百人隊長であるコルネリウスがキリスト信仰に導かれた出来事の続きです。10章2節を見ると、コルネリウスという人は真の神さまを敬虔に信仰する人でした。イタリア人でありながら、イタリア人の宗教ではなく、ユダヤ人の信じている旧約聖書に記されている天地創造の神さまを信じていました。そのことからも、彼が本当の神を求めていた人であることが分かります。
 しかも、ユダヤ教に固執しているわけではありませんでした。本当の神、もっと言えば本当の救いというものを求めていたいたと言えます。彼は真の神、真の救いを求めて、ユダヤ人の信じている聖書の神、天地創造の神にたどり着きました。しかしおそらく、まだ平安がなかったのではないかと思います。なぜなら、ユダヤ人の信仰は律法主義でしたから、神の掟である律法を守ることによる救いだったからです。しかしなかなか救われたという確証がない。平安がないのです。だからさらにユダヤ教に熱心になることによって、救いに達しようとしていたと思われます。
 彼はまだイエス・キリストを知りませんでした。しかし彼がそのように、熱心に神を求め救いを求めているゆえに、神は彼を憐れんで、イエス・キリストへと導かれた。それが神がコルネリウスに天使を遣わして、ペトロに出会わせたということです。このように、神は、神を求める者を、キリストへ、そして教会へとつなげようとされます。
 戦前のことですが、富山市の富山新庄教会を開拓伝道して建てた亀谷凌雲牧師は、もとは富山市の浄土真宗の僧侶でした。彼は、浄土真宗を仏教の頂点と信じ、誇りを持っていました。しかしなお大きな疑問がありました。そしてキリストの伝道者と出会います。やがて疑問を抱えつつも、親の後を継いで寺の住職となります。しかしさらに道を求めていって、ついに、阿弥陀仏の真の姿はイエス・キリストであったという発見をするに至ります。そして彼はキリストを信じる。そして住職を辞め、キリストの伝道者への道を歩み始めたのです。
 そのように、神は、救いを求め続ける者をイエス・キリストへと導かれます。

     神は人を分け隔てしない

 ペトロもコルネリウスも神に導かれて出会いました。ペトロは、主の幻を見せられ、穢れた動物は神が清められたということを知りました。それがイエス・キリストの十字架の効力でした。しかしそれを信じるには、大胆な勇気が必要でした。なぜなら、穢れた動物と清い動物という区別がなくなったということは、今までの旧約聖書の律法の教えに変更が生じたということだからです。実際には、変わったのではなく予言が成就したのですが。今まで、ユダヤ人として、旧約聖書に基づいた律法の教えに従って生きていた。それが神の与えた掟であると信じてきたわけです。もちろん、イエス・キリストの弟子となったのですが、イエス・キリストによってそのように変わったということを、ペトロもまだよく分かっていなかったのです。
 しかし穢れたものがなくなった、イエス・キリストによって清められたということは、異邦人も救われるということに他なりません。
 しかし信じざるを得ない。ペトロも幻と神の言葉によって、コルネリオと出会った。コルネリオもまた、神の御使いの導きによって、それまで知らなかったペトロを家に招いた。これでは信じざるを得ません。そのように、神が、この異邦人であるイタリア人の救いに導かれたことを信じざるを得ない。
 きょうの聖書の34節ですが、ペトロは「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」と言っています。「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」 どんな国の人でも‥‥。しかしここに至るまでには、崖から飛び降りるぐらいの勇気が必要だったことでしょう。それまではペトロたちユダヤ人は、自分たちが旧約聖書に記された紙の民であると信じ、特別な民族であると思っていました。しかし、異邦人がこのように神さまに導かれている現実を見ては、否定しようもありません。神は異邦人も救われるということをです。
 神は分け隔てをなさらない、偏り見られない。偏見も先入観もない。これはすばらしいことです!人間は分け隔てをします。かたより見ます。人種で人を見る、民族や国籍、見かけで人を判断します。学歴や職業で人を見ます。そのように人間は人を、外見や外側のことで判断します。しかし神は分け隔てをなさらない。みな同じように見られる。ただ神を求めるのかどうか、救いを求めるのかどうかのみです!

     すなおにイエスを信じるコルネリウスたち

 コルネリウスは、それまでイエスさまのことをよく知りませんでした。ただ神を信じていました。さらに神の救いを求めて来ました。
 そのコルネリウスに、ペトロはイエスさまのことを語ります。‥‥イエスこそ神が「油を注がれた者」、すなわちキリスト(メシア)であること、イエスのなさったこと、神がご一緒だったこと、十字架につけられて死んだこと、しかし神が三日目にイエスさまを復活させなさったこと、そしてこのイエスさまが世の終わりの審判者であること。そしてこのイエス・キリストの名を信じる者はだれでも罪を赦されること。
 ペトロがそのように話していると、コルネリウスと、コルネリウスと共に話を聞いていた人々に聖霊が降りました。なぜ聖霊が降ったことが分かったかというと、彼らが異言を話し、また神を賛美し始めたからです。これはつまり、コルネリウスたちがすなおにイエス・キリストを信じたということです。彼らは、神を信じ救いを求めていた。それでペトロの語るイエス・キリストの福音を素直に受け入れることができたのです。それで聖霊が降った。
 普通は聖霊は、洗礼と共に与えられるものです。しかしこのときは、洗礼に先立って聖霊が降りました。それは、神さまが人間に先回りなさっているかのようです。さあ、この人たち、異邦人であるこの人たちに洗礼を授けなさい、と。
 先ほど申し上げたように、ユダヤ人以外の異邦人が神の救いに入れられる、ということはユダヤ人にはなかなか信じられないことでした。しかし聖霊が彼らに降ったということは、神さまが彼らを救ったということです。使徒ペトロが、すなわち教会が異邦人に洗礼を授けることを神さまが促しておられるのです。それでペトロは彼らに洗礼を授けました。
 先にフィリポが、聖霊に導かれてエチオピア人に洗礼を授けました。しかしそのことはまだ教会全体が知っていない。しかし今回のペトロは使徒です。教会の代表者です。キリスト教会が、聖霊によって正式に異邦人に洗礼を授けた。教会に加えたということになります。こうして徐々に、キリストの新しい恵みが明らかになっていきます。

     求めることの尊さ

 コルネリウスは、神を求め続け、救いを求め続けました。その結果、神さまがキリストのもとへと導かれ、教会へ加えられました。
 さて、「求道者(きゅうどうしゃ)」という言葉があります。教会ではまだ洗礼を受けていないけれども教会に通っている人のことを指します。しかし、同じ字を書いて仏教ではふつうは「くどうしゃ」と読みます。仏教の求道者は、まだ信者になっていない人というよりも、むしろもっと先に行く人、僧侶となってもさらに道を究めようとする人のことを指したりするようです。これは尊いことだと思います。
 キリスト教会でも、本当のことを言えば、イエス・キリストを信じて洗礼を受ければ求道者でなくなる、というのではないと思います。いやむしろ、洗礼を受けてから、本当の求道が始まるといってもよいと思います。
 フィリピの信徒への手紙の3章12節を思い出してください。使徒パウロがこう述べています。‥‥「わたしは、すでにそれを得たというわけではなく、すでに完全なものとなっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」
 すでに自分がイエス・キリストに捕らえられている。その自分が、何とかして捕らえようと努めている。‥‥これは矛盾した言い方のように聞こえますが、信仰というものをよく言い表していると思います。私たちはイエス・キリストを信じることによって救われている。しかしその救いのすばらしさをもっと知りたい。キリストの恵み、聖霊の働きについて、もっともっと知りたい。そのように求めている。私たちはそういう意味では、永遠の求道者であると言えます。
 先日、若手の牧師からメールをもらいましたが、その中で彼は「私は毎日『聖霊を与えてください』と祈っています」と書いていました。実際のところは、彼はキリスト信徒であり牧師であるわけですから、すでに聖霊は与えられているはずです。しかし、聖霊の働きをもっと知りたい、体験したい。そういう思いがその祈りに表れているのだと思うと、感銘を受けました。
 私たちは、永遠の求道者です。神を求める。聖霊を求める。救いの確信を求める。自分の知らなかった聖霊なる神さまの働きを求め続ける。神は必ずそれらの祈りを聞き入れてくださると信じるものです。

(2016年7月3日)


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