礼拝説教 2016年6月26日 主日礼拝

「穢れと清め」
 聖書 使徒言行録10章1〜33  (旧約 レビ記11章45〜47)




     穢れ

 本日の聖書個所は、一見、何か日本人に非常に理解しにくいことのように感じられます。しかし実はそうではありません。逆に、世界の中でも日本人が一番よく理解できるかも知れないことなのです。日本語の聖書では「汚れ」という漢字を使っていますが、実は、正しくは「穢れ」と書くべきことです。そうすると日本人ならすぐに理解できることです。
 このことは以前にも申し上げたことですが、穢れということについて旧約聖書と日本の神道は非常に似ているのです。どちらとも、「汚い」ということではなく、宗教上の穢れという点です。例えば、日本の神道では「死」は穢れです。家に死人が出ると、神棚を閉じて白い紙を貼ります。また神社の中では葬式をいたしません。そして葬式が終わると清めの塩が配られます。旧約聖書でも、死は穢れです。死体に触れた者は穢れるのです。
 ちなみに、きょうの聖書でペトロは「皮なめし職人シモン」という人の家に泊まっていますが、この皮なめしという仕事はユダヤでは忌み嫌われたようです。なぜなら、動物の死体をいつも扱っているからです。これは日本でも同じです。そしてこれが部落差別の一因となったと言われています。
 そして穢れからの清めに、水や塩が用いられるというところも同じです。神道では「禊ぎ」とか「水垢離をとる」という習慣があります。水を身にかぶって穢れを清める。旧約聖書でも、穢れは水によって清めます。また、神社の境内には、手水舎(てみずや/ちょうずや)と呼ばれる場所があり、水を口に含み、手を洗って清めます。これは旧約聖書の幕屋(神殿)も同じで、拝殿の前に水を入れた洗盤が置かれ、そこで身を清めます。ちなみに、日本の神社の基本構造と、旧約聖書の幕屋の基本構造は同じです。
 他にもいくらでも上げることができるのですが、私が申し上げたいことは、穢れと清めという問題は、日本人に遠いことなのではなく、むしろ密接なことであるということです。
 なにか、昔ベストセラーとなったイザヤベンダサンが書いた『日本人とユダヤ人』という本の影響でしょうか、日本人とユダヤ人は全くほど遠い民族だという印象をお持ちの方が多いように思いますが、あの本は、「安全」ということに関する日本人とユダヤ人の考え方の違いを書いたものであって、民族性の違いを書いたものではありません。むしろ最近では、日本人とユダヤ人はどうもよく似ているという本が目立つほどになっているのです。
 さて、そうすると洗礼は、禊(みそ)ぎであるとも考えることができます。日本の神道の禊ぎは罪穢れを清める行為です。しかしイエス・キリストの洗礼は、本当に実際に罪をゆるし、穢れを清めます。ヨーロッパのキリスト教は、どうも罪のことばかりに焦点を当てていました。しかしイエス・キリストは、実際は罪の赦しにとどまらず、穢れも清めてくださったというのが今日の出来事です。
 この「穢れの清め」の問題が解決しないと、日本人は神社から抜けることはできないでしょう。それぐらい、日本人にとっては穢れを清めるということが大きな問題だからです。神社の働きの大きなものがそれだからです。そう思ってきょうの個所を読むと、なんとも興味深いものがあります。

     コルネリウス

 最初に登場するのは、ローマ軍の「イタリア隊」の百人隊長であるコルネリウスという人です。この人はイタリア人でありますから、ユダヤ人から見れば異邦人です。しかし彼は一家そろって神を畏れる人であり、絶えず神に祈っていたとあります。ですから彼は、異邦人ではありますが、ユダヤ教に改宗した人です。そして敬虔な人であったことが分かります。
 そこに神が天使をお遣わしになります。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。」
 これはよく考えると不思議な言葉ではないでしょうか。コルネリウスの祈りと施しが神に覚えられ、その結果何がかなえられたのでしょうか? このあと、ペトロの泊まっているヤッファの町の皮なめし職人シモンの家に行けと天使が言っているところを見ると、彼の祈りの何が答えられたのかが分かってきます。つまりそれは、彼が救いを求め続けてきたのではないか。イタリア人でありながら、ユダヤ人の神を信じるに至った。それはコルネリウス自身の心の中に、救いを求める強い願いがあったからだと考えられます。
 その救いを求める祈りが答えられた。そしてイエス・キリストの信仰へ導かれたと言えるでしょう。そして皮なめし職人シモンの家に滞在中のペトロに導かれるのです。

     ペトロの見た幻

 一方9節ではヤッファの滞在中のペトロの所に場面が移ります。今度はペトロに神が語られます。それは幻を通して語られました。
 その幻は、天が開いて大きな布の中に、いろいろな動物や鳥、は虫類などが入っていた。それを食べよという主の声。しかしその布の中には、穢れた生き物も入っていたようです。穢れた生き物というのは、旧約聖書のレビ記に書かれています。穢れた生物は食べることができません。そして神へのささげものとすることができない。なぜそういう穢れた生物があるかといわれても、それは旧約聖書にそう書いてあるというより他にありません。
 しかしペトロは、ユダヤ人でレビ記の戒律を守っていますので、もちろん穢れたものを食べたことがありません。それでペトロは、「主よ、とんでもないことです」と答えました。しかしここで天の声は、15節「神が清めた物を、清くないなどとあなたは言ってはならない」というものでした。

     キリストによる清め

 旧約聖書には、穢れた動物や生き物のリストが書かれています。しかしこのとき神は、「神が清めた」とおっしゃっています。いったいいつ清められたのでしょうか? もっと言えば、旧約聖書のあの穢れに関する律法は、いつ廃止となったのでしょうか?
 そこで私は、ヨハネ福音書19:34を思い出します。イエスさまが十字架の上で死なれた。それで、番をしていた兵士が、イエスさまが本当に死んだかどうかを確かめようと、槍でイエスさまの脇腹を突き刺しました。すると、そこからすぐに「血と水」が流れ出たと書かれています。血は分かります。しかしなぜ水が流れ出たと書かれているのか?
 これは禊(みそ)ぎの水ではないか。すなわち、イエスさまの十字架の死によって、穢れは清められたと。もう穢れは、このとき清められた。それで今日の使徒言行録10章15節で天の声は「神が清めた物を清くないなどと、あなたは言ってはならない」と語った。そう考えることができます。もう穢れは清められたのです。イエス・キリストによって!  ペトロ自身もまだこのときまでそのことが分かっていなかった。しかしこのようにして、一つ一つキリストの恵みを学んでいっているのです。
 ペトロはコルネリウスの家に出かけていった時、28節ですが、「ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています」と語っています。それは、外国人は旧約聖書の穢れの規定を守っていないから、穢れている。そのようにユダヤ人は考えていたことを示しています。しかし、神がお示しになったように、もう穢れはイエス・キリストによって清められた。異邦人も何も境が無くなったのです。
 穢れはイエス・キリストの十字架によって清められました。だからもう神社に行って、お祓いを受ける必要がないのです。禊ぎをする、水垢離を取る必要もありません。イエス・キリストを信じればよいのです!

     求める者には答えられる

 コルネリウスは、イエス・キリストを全く知りませんでした。しかし、敬虔にへりくだった思いで神を信じ、救いを求めていました。それで神の導きを与えられました。山上の垂訓、マタイによる福音書7:7などに「求めなさい。そうすれば与えられる」というイエスさまの言葉どおりです。救いを求めれば与えられる。主の約束です。
 私たちも、現状にとどまることなく、さらに新しいキリストの恵みを求め続けるものでありたいと思います。

(2016年6月26日)



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