礼拝説教 2016年6月12日 主日礼拝

「生まれ変わった人」
 聖書 使徒言行録9章19〜31  (旧約 ダニエル書4:34)

19 サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、
20 "すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。
21 これを聞いた人々は皆、非常に驚いて言った。「あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼らを縛り上げ、祭司長たちのところへ、連行するためではなかったか。」
22 しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。
23 かなりの日数がたって、ユダヤ人はサウロを殺そうとたくらんだが、
24 この陰謀はサウロの知るところとなった。しかし、ユダヤ人は彼を殺そうと、昼も夜も町の門で見張っていた。
25 そこで、サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出し、篭に乗せて町の城壁づたいにつり降ろした。
26 サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。
27 しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。
28 それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。
29 また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。
30 それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた。
31 こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。




     サウロの転身

 今までキリスト教会をはげしく迫害していたサウロ。しかし彼は、キリストによって捕らえられ、回心し、一転してイエス・キリストを宣べ伝える者になりました。このことは、ダマスコのユダヤ人社会にたいへん大きな衝撃を与えました。それは無理もありません。サウロは、ダマスコに逃げてきているキリスト信徒を捕らえるためにダマスコに来たはずなのに、逆にそのキリストを神の子であると言って宣べ伝えているのですから。
 サウロがこのように変わった理由は、ダマスコに来る途中に天から現れたイエス・キリストに出会ったからです。しかもイエスさまは、サウロを裁いて滅ぼすために現れられたのではない。逆に、サウロを救うために、そしてキリストの伝道者とするために現れられたのでした。サウロはそのように、十字架で死んだはずのイエスが、キリスト信徒が言うように本当に復活していて、天に昇られていた。それは事実であったことを知ったのです。
 しかし、サウロが知ったのは、イエスが復活したと言うことだけだったのでしょうか?イエスが本当に復活していたという事実を知ったということだけが、サウロに起こったことなのでしょうか?

     変えられたサウロ

 私は、サウロ自身が変えられたということを申し上げたいのです。それは、イエス・キリストと出会う前のサウロと、出会ってからのサウロが別人のようであるということです。
 以前のサウロはどうだったかというと、(8:3)「一方サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引きだして牢へ送っていた」と、キリスト信徒迫害のときの様子が書かれています。また、(9:1)「サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで」と記されています。非常に凶暴な印象、残忍なテロリストのようなイメージが伝わってきます。
 ところが、イエス・キリストと出会い、信じて伝道者となってからのサウロ、というよりそれからはパウロという名前のほうが出てきますが、どうかというと、例えば使徒言行録14:19〜20では、リストラの町で、石を投げつけられて死んだと思われたパウロが起き上がって町に入り‥‥と書かれています。いわれのない迫害によって石を投げつけられ、死んだと思われるようなほどのひどいことをされたのですが、神の守りによって何事もなかったかのように、そして怒るわけでもなく、立ち上がって町に入っていった、と。あるいはまた使徒言行録16章は、フィリピ伝道のことが書かれていますが、ここでもサウロは迫害されます。しかし、捕らえられ鞭で打たれても忍耐しています。
 また、この礼拝で使徒言行録を学ぶ前にご一緒に読みました、フィリピの信徒への手紙は「喜びの手紙」と呼ばれているということを前に申し上げました。彼はこの手紙を書いた時、迫害されて囚人となっていました。無実の罪で捕らえられている。しかしサウロは喜んでいます。感謝で満ちあふれていました。
 このように、サウロは、全く生まれ変わったようです。すなわち、復活のキリストと出会ったサウロは、キリストを迫害する者から、全く反対にキリストを宣べ伝える者へと変えられたばかりではなく、彼自身が変えられています。彼の内面、心が変わっていることが分かります。

     アラビアへ

 何が彼をそのように変えたのでしょうか。
 ここで、ガラテヤの信徒への手紙1章13〜17節を見てみたいと思います。そこを読みますと、サウロはダマスコ途上でキリストと出会い、回心した後、ダマスコの町からいったんアラビアに行っていることが分かります。このことは使徒言行録のほうには書かれていません。アラビアというのは、現代の私たちはアラビア半島か、サウジアラビアの国のあたりを想像いたしますが、この頃はそうではなく、ナバテア王国というローマ帝国の属国のあったあたりを指していました。それは、シリアの南東部から現在のヨルダンの国のあるあたり、そしてその南の地域を指しています。だから、ダマスコからそんなに遠くはない。
 サウロは一時そこに出かけていった。なんのためにでしょうか?‥‥それは聖書に書かれていないのでなんとも分かりませんが、人口が多く賑やかなダマスコから、静かな、さびしい、荒れ野のほうへ行って、神さまとの祈りと黙想のときを持ったのではないでしょうか。それは、かつてイエスさまが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、すぐに世に出て福音を宣べ伝えたのではなく、荒れ野に出かけて40日間の断食をなさり、悪魔の試みを受けられたように。
 ガラテヤ書の1章11〜12節で、サウロ(パウロ)はこう書いています。‥‥「兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」‥‥直接イエスさまから啓示を受けて福音を教えられたと。それが、アラビアに行っている時のできごとであると考えられます。

     律法と福音

 もう一度、ガラテヤ書を見てみます。ガラテヤの信徒への手紙1:13〜14を読むと、サウロは「人一倍熱心」に「ユダヤ教に徹しようと」していたと、以前の自分について語っています。それが高じてキリスト教徒を迫害したのだと。その時のパウロの心境は、ユダヤ教、旧約聖書の律法、神の掟を熱心に守ることによって救われよう、魂の平安を得ようとしていたのでしょう。しかし何の平安も与えられない、自分が救われたという確信もない。
 ちょうどそういうときに、天から現れたイエス・キリストに出会ったのです。ガラテヤの信徒への手紙2章16〜17節でサウロはこう書いています。
 「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」
 律法、すなわち戒律を守ることによっては救われない。魂の平安がない。喜びもない。感謝もない。いっしょうけんめい自分の力でがんばっても、救われたという確信がない。
 旧約聖書の律法をまとめると、2つになるとイエスさまは言われました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」ということと、「隣人を自分のように愛しなさい」ということであると(マタイ22:37〜39)。‥‥なるほどこれはよく分かります。
 しかし、では「隣人を自分のように愛しなさい」ということを、私たちは実行することができるのか。この場合の「隣人」とは、自分の関わる人すべてを指しています。家族、隣近所の人、毎日顔を合わせる人、通りがかりの人、道ですれ違う人、同じ満員電車に乗っている人、スーパーで同じ売り場にいる人、テレビのニュースで報道される人、新聞で知ったシリアの戦争のもとで生きている人々‥‥すべてです。毎日顔を合わせる人にしても、良い人ばかりではありません。イヤな人もいます。悪口ばかり言う人もいます。
 そういう人すべてを、自分を愛するように愛することができるのか?‥‥「できません」というのが、本当でしょう。がんばっても、努力しても、限界があります。たしかにすばらしい律法には違いないが、どこまでがんばって愛そうとすればよいのか?そんなことができるのか?‥‥がんばればがんばるほど、「まだまだそれではだめだ」という声が聞こえてきそうです。平安がありません。喜びもありません。
 自分のひどいことをした人を愛するどころか、赦すことのできない自分があり、すべての人を自分のように愛することのできない自分がいます。すなわち、神の掟、律法を実行することができないのです。神の律法の求める要求を実行できない。もしそれを実行しなければ救われないとしたら、神の国に行くことができないとしたら、本当に疲れ果て、絶望してしまいます。平安がないどころではありません。
 しかしサウロは、天から現れたイエス・キリストに出会った。そしてそのイエスさまという方は、そういう罪人である自分をそのまま受け入れて下さった。キリストの教会をはげしく迫害した自分を、裁いて罰するのではなく、救うために来て下さった。受け入れてご自分の弟子とするために来て下さった。
 ここでサウロは、初めて救われたのです。平安を得たのです。イエス・キリストを信じることによって、救われたのです。喜びが生まれたのです。こんな自分でも、主イエス・キリストは受け入れて下さった!愛してくださっている!
 罪人でなくならないと救われないというのが、律法です。それに対して、この罪人であるままの自分をイエス・キリストが救ってくださる、というのが福音です。この福音を知った時、サウロは救われました。サウロは、本当の意味で生まれ変わったのです。

     御名を呼び求める

 きょうの使徒言行録9:12に、「この名を呼び求める者たち」という言葉が出てきます。前回の14節にも「御名を呼び求める人」という言葉がありました。これは、キリスト信徒のことです。「この名」というのは何か。それは、イエス・キリストの名です。キリスト信徒、クリスチャンというのは、イエス・キリストの名を呼び求める人だといわれています。そしてこの「呼び求める」という意味のギリシャ語は、同時に「唱える」という意味があることを申し上げました。
 いかがでしょうか。みなさん、この一週間、どれぐらい毎日イエス・キリストの名によって祈ったでしょうか? 「祈ったか」と聞かれると、「あんまり祈らなかったなあ」という人もいるかも知れません。「祈る」というと、なにかかしこまって、時間がかかるといいますか、大がかりなことを考える方もいるかも知れません。しかし「御名を唱える」、すなわち、ただ「イエス・キリスト」と心を込めて言う。それでも構わないと言えます。たった七文字です。心をキリストのほうに向けて、「イエス・キリスト」または「主イエス・キリスト」と繰り返し唱える。そうすると、自然に祈りに移っていくことができます。
 私はこれを、「福音的称名」と呼びたいと思います。主の名を呼び求め、聖霊の働きを期待して歩んでまいりたいと思います。

(2016年6月12日)



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