礼拝説教 2016年6月5日 主日礼拝

「神の選び」
 聖書 使徒言行録9章10〜19  (旧約 詩編75:3)

10 ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。
11 すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名のタルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。
12 アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」
13 しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。
14 ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」
15 すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。
16 わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」
17 そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」
18 すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、
19 食事をして元気を取り戻した。




     ダマスコ途上の出来事

 サウロという若者は、キリスト信徒に対する迫害の急先鋒でした。彼はエルサレムにいるキリスト信徒を迫害するだけでは飽き足らず、北のシリアの首都ダマスカスに逃げていったキリスト信徒を捕らえるために、そちらへ向かいました。ところがその途上、真昼の太陽よりもまばゆい光に照らされ、地面に打ち倒され、自分に呼びかける声を聞きました。キリスト信徒を捕らえるために向かっていたサウロは、あべこべに天から現れたキリスト・イエスさまによって捕らえられたのです。
 そして目が見えなくされました。これはキリストの与えた天罰なのか?それとも救いなのか?‥‥十字架で処刑され死んだはずのイエス。キリスト教徒はイエスがよみがえって天に昇られたというデタラメを信じていると思っていた。ところがそのイエスが、このような形で自分の前に現れ、自分を呼んだ。サウロは、衝撃のあまり何が何だか解らなくなったことでしょう。
 サウロは三日間、目が見えず食べも飲みもしなかったと書かれています。目が見えなくされたショックのあまり、食事ものどを通らなかったのか。いやむしろサウロは、断食をして神に祈ったのではないかと思います。よく「ダマスコ途上の回心」と言われますが、実はこの時点ではまだ回心していません。自分の身に起こったことに、ただただ驚き、神の答えを待っていました。

     行け、と言われる主

 そして今日読んでいただいた個所が、サウロが回心する場面となります。場面が変わって、アナニヤというダマスカス(ダマスコ)にいるキリスト信徒に主が語りかけるところとなります。ちなみに新約聖書で「弟子」と書かれている言葉は、キリスト信徒のことを指しています。
 そして主は、このアナニヤを用いてサウロの所に行かせ、手を置かせてサウロの目を再び見えるようにさせなさいます。主が直接サウロの目を見えるようになさればよいのに、と思いますが、主は、このように人を用いるということをなさいます。つまり、神さまは、ひとり芝居をなさらないのです。神を信じる人と共に働かれます。そのようにして主の栄光を現されます。それで、この時サウロが滞在していたダマスコにいる信徒であるアナニヤを用いられました。
 もう一つは、主は、サウロを教会につなげるために、アナニヤを用いたと言えるでしょう。ただキリストに出会って、キリストを信じただけでは救いとは言えない。サウロを救い、さらに世界伝道者として用いられる。そのために教会につなげられる。それで、キリスト教会の一員であるアナニヤから洗礼を受けさせることによって、教会に加えられたのです。
 そのために、主は、幻の中に現れてアナニヤに対し、サウロのところへ行くようにお命じになりました。しかしアナニヤは抵抗いたします。13節で「主よ、わたしはその人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています」と主に対して答えています。
 無理もない話しです。これまでキリスト信徒をひどく迫害してきた人の所へ行けというのですから、そして目を見えるように手を置けとおっしゃるのですから、驚くなというほうが無理というものです。

     選び

 しかしそれに対して主イエスさまは、さらに驚くべきことをおっしゃいました。アナニヤに対して、「行け。あのものは、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」
 なんと、イエスさまは、今まではげしくキリスト教会を迫害していた男を、逆に「わたしの名」すなわちイエス・キリストの名を宣べ伝える者とする、とおっしゃったのです。こんなに驚くべきことがあるでしょうか。いったいなぜ、よりによってこのサウロをお選びになったのか?その理由は?
 その理由は神のみぞ知ることに違いありません。しかし後のサウロ、つまりパウロの書いた多くの手紙を見るとなんとなく解ってきます。サウロは、後に書いた多くの手紙の中で、律法と福音の比較をしています。つまり、神の掟である律法を守ることによって救われるのか、それともイエス・キリストを信じることだけで救われるのか、ということです。そのことを、例えばローマの信徒への手紙やガラテヤの信徒への手紙で詳細に書いています。
 そういうことを人々に説くことが出来たのは、サウロ自身の経験から来ているところが大きいと思います。したがって、主は、ただ信仰によって救われることを人々に伝えるために、このサウロをお選びになった。少なくとも、それが理由の一つであったと言えるでしょう。

     目からウロコ

 アナニヤは主に促されて、言われたとおりダマスコのユダの家に入っていきました。すると果たしてサウロがそこにいました。キリスト信徒を捕らえて投獄し、迫害してきた男がそこにいたのです。本来ならば、はげしくサウロを非難したいところでしょう。しかしアナニヤは、主イエスに言われたとおり従いました。主イエスに言われたとおり、サウロの頭の上に手を置きました。するとたちまち「目からウロコのようなものが落ち」たと書かれています。「目からウロコが落ちる」という言い回しがありますが、聖書のここから来ています。目からうろこのようなものが落ちて、見えなくされていたサウロの目が、実際に見えるようになった。
 しかし実際に目が見えるようになったというほかに、ここではもう一つ、ことわざで使われているような意味で、目からうろこが落ちたのも事実ではなかったか。目からうろこが落ちるとは、辞書では「今まで わからなかったことが とつぜんはっきりわかる。さとる。」ということだと書かれています。サウロにこの時起こったことも、実際に目が見えるようになったということと同時に、信仰について今まで分からなかったことが、突然分かった、ということが起きたと言えます。つまり、サウロがこの時、悟りに導かれたということです。

     見えるようになったもの

 それは先ほど少し触れましたように、律法から福音に、ということです。先週の説教で申し上げましたように、サウロはこれまで熱心に神の救いを求めていたと言えます。前にこの礼拝で読みましたフィリピの信徒への手紙でパウロ(サウロ)が、かつての自分を振り返っています。(フィリピ3:5〜6)「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ち所のない者でした」。
 つまりサウロはユダヤ教徒として、いっしょうけんめい神の戒律である律法を守ってきた。それも律法を厳格に守るファリサイ派として、熱心に守ってきた。しかし平安がない。救いが得られない。それでさらに神に認められようと思って、神に近づきたいと思って、神の敵であると信じていたキリスト教会を迫害した。‥‥そのようにいっしょうけんめい、自分の力で神の救いを得ようとしてきたのですが、全然救われない。平安がないのです。これは言わば、自力の救いを目指してきたのだがダメだったと言えるでしょう。
 しかしこの時、サウロは目からうろこが落ちました。それまで自分は、自力で神に近づき、救いを得ようとしてきた。熱心に戒律を守り、熱心にキリスト教徒を迫害してきた。しかし全然救われなかった。なんの平安もなかった。しかし今や、ものすごい喜びに満たされている。
 先ほどのフィリピの信徒への手紙の続きのところで、パウロはこう述べています。‥‥「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」(フィリピ3:7〜8)
 わたしの主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさ!

     主イエスの名を唱える

 さて、きょうの聖書個所でもう一つ注目したいことがあります。それは、イエスの名、ということです。14節でアナニヤが、「御名」と言っています。この「御名」とは、イエスさまの名です。15節と16節はイエスさま御自身の言葉ですが、そこでは「わたしの名」という言い方を2回なさっています。また、このあとの個所でも、「この名」とか「イエスの名」「主の名」という言い方が出てきます。それはいずれも、イエス・キリストのことです。
 14節の「御名を呼び求める人」というのはキリスト信徒のことです。つまり、クリスチャンのことが「御名を呼び求める人」と言われています。クリスチャンとは、御名を呼び求める人のことです。御名とは、イエスという名と、救い主メシアを洗わずギリシャ語のキリスト。すなわち、イエス・キリストという名号であると言ってよいでしょう。そして「呼び求める」というギリシャ語には「唱える」という意味があります。すなわち、キリスト信徒とは、イエス・キリストという名号を唱える人であると言えます。
 どう祈ってよいのか分からない、という時、ただ「主イエス・キリスト、イエス・キリスト」と唱えればよいのです。悲しい思い、つらい思いの時、祈れないというならば、そのような思いを乗せて、心を込めて「主イエス・キリスト」と繰り返し唱えればよい。以前ご紹介した、10分ごとに5秒間祈るということ。これも10分ごとに、「ハレルヤ、主よ感謝します」でも良いのですが、ただ「主イエス・キリスト」と繰り返して御名を呼んでもよいのです。どんなときも御名を唱える者でありたいと思います。

(2016年6月5日)



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