礼拝説教 2016年5月29日 主日礼拝

「捕まる」
 聖書 使徒言行録9章1〜9  (旧約 出エジプト記3:4〜5)

1 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、
2 ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。
3 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
4 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
5 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエススである。
6 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」
7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。
8 サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。
9 サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。




     迫害者サウロ

 再びサウロという若者が登場します。サウロはステファノの殉教の場面に出てきていました。そして続けて起こった、エルサレムの教会に対するユダヤ教による迫害。サウロは率先してその迫害に奔走しました。本日の個所は、その8章3節の続きです。
 本日の9章1節を見ると、「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで‥‥」と書かれています。サウロは相変わらず、キリスト教会壊滅のために奔走していました。まるで凶悪なテロリストのようです。サウロをそこまでキリスト信徒に対して迫害に駆り立てているものは、いったい何だったのでしょう? 人間、どうしたらそこまで迫害にのめり込むことができるのか?
 そもそもステファノを石打ちの刑にしたのは、ユダヤの最高法院です。しかし、最高法院がキリスト教会を迫害する理由には、いくぶん政治的な理由もあっただろうと思います。単に、キリスト信徒は神を冒涜しているという表向きの理由だけではなく、どんどんキリスト信徒が増えてしまえば、自分たちの生活が危うくなるという理由です。実際、神殿に仕える祭司たちの中にもイエス・キリストを信じる者がおおぜい出てきたということが前に書いてありました。そうすると、神殿の経済が成り立たなくなるかもしれない‥‥。そいういうようなことです。
 それに対して、サウロはもっと純粋な動機から迫害していたのでしょう。「イエスをメシアであると信じる連中は、本当に神を冒涜する連中である」というようにです。のちにパウロが書いたガラテヤの信徒への手紙1章14節には、この頃の自分を振り返って、「ユダヤ教に徹しようとしていました」と書いています。イエスを信じる者たちの話もじっくりよく聞いて‥‥というのではありません。問答無用とばかりに、キリスト信徒を悪と決めつけて、迫害に狂奔する。
 サウロが、ユダヤ教に徹しようとしていた心理状態はどうだったのでしょうか?‥‥私は、サウロが救いを求めていたのではないかと思うのです。ご承知のように、旧約聖書を土台としたユダヤ教は、律法主義です。律法主義というのは、戒律に生きる宗教です。厳しい戒律を守ることによって、救いの境地を得ようとする。しかしいくら厳しい戒律を守っても、それで救われたという確信が得られない。それでますます、もっと自分を打ちたたいて戒律を守って行こうとする‥‥。そのような気持ちが高じて、キリスト信徒を神の敵と見なし、それを迫害することをもって救われようとする‥‥。
 律法によっては、救いの確信が与えられないゆえに、ますます自分を駆り立てていくという悪循環に陥っていたのではないかと思います。

     キリストの現れ

 今日のところで、サウロはダマスコへ向かっています。ダマスコとは、現在のシリアの首都ダマスカスのことです。2節に「この道」とありますが、それがキリスト教のことです。キリスト信徒を見つけたら、男女を問わずエルサレムに連行するためだったという。これは、ダマスコにもともと住んでいるキリスト信徒を捕らえるというよりも、エルサレムで起こった迫害を逃れてダマスコに逃げていった信徒を捕らえるということでしょう。
 こうして、イスラエルの外でも安全ではなくなった。いったい誰がこの凶暴なサウロという男の暴走を止めることができるのか? この男を変えることができるのか?
 その時のことでした。「突然、天からの光が彼のまわりを照らした」。これは真昼のことでした(使徒22:6)。その時の光は太陽よりも明るかったと後に述べています(使徒26:13)。そしてサウロは、地面に倒れてしまった。そして同時に、彼に呼びかける声を聞きました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか?」
 ちょっと話がそれますが、「サウロ」と「サウル」、どちらが本当の名前?と思われるでしょうから、解説します。本当は「サウル」です。これが当時ユダヤ人がしゃべっていたアラム語、ヘブライ語読みです。じゃあ「サウロ」は?というと、こちらはサウルをギリシャ語で発音するとそうなるということです。そして新約聖書はギリシャ語で書かれていますから、ふだんは「サウロ」という呼び方になっている。しかし4節では「サウル」。これは、天からの声が語ったままを、まるで録音機に録音した声そのものを再現するように書いているから「サウル」となっているのです。じゃあ、「パウロ」は?‥‥というのはまたの機会に。
 話を戻します。真昼の太陽よりも強い光に照らされ、サウロは地面に倒れ、声が聞こえました。「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」。ここて「サウル、サウル」と、二度名前を続けて呼んでいますね。このように人の名前を二度繰り返して呼ぶ時は、親しみを込めて呼んでいる時です。例えば、今日もう一個所読んでいただいた聖書個所、旧約聖書の出エジプト記3章4節は、モーセが神さまから召命を受ける時ですが、その時も神さまは「モーセよ、モーセよ」と二度繰り返して呼んでおられます。
 突然のその出来事。そのあまりの神々(こうごう)しさからでしょうか。サウロはその声の主に向かって言いました。「主よ、あなたはどなたですか?」。「主よ」と。するとその答えは、驚くべき答えでした。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」‥‥!!!
 私たちは、何か久しぶりにイエスさまの声を聞いたような気がいたします。なんとその声の主は、イエスさま、その方であった!サウロが、神の敵と信じ、救い主メシアを僭称する偽メシアのイエス、キリスト信徒が十字架で死んだイエスがよみがえったという話しをでっち上げた。そのイエス!!

     イエスを迫害

 「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」‥‥しかし、サウロはキリスト信徒、キリスト教会を迫害しているのであって、イエスさまを迫害しているのではありません。そもそも、イエスさまは天に昇られ神の国に行かれたはず。しかし声の主は、「あなたが迫害しているイエス」だとおっしゃる。
 すなわち、キリスト信徒を迫害することは、すなわちイエスさま御自身を迫害することと同じであるということです。言い換えれば、私たちに対して迫害があるとしたら、それはイエスさまへの迫害であって、イエスさまが引き受けて下さるということにもなります。そうして、サウロが迫害したイエスさまがここに現れた。おそらく、あのステファノが殉教する前に、天が開けてイエスさまが神の右に立っておられるのが見えたように、サウロは強い光の中にイエスさまを見たのだと思います。

     罰するためではなく

 サウロは、何も見えなくなりました。これは天罰でしょうか。
 このあと使徒言行録の22章と26章にも、この時の回想場面がサウロによって語られています。すると、もう少し別の言葉をイエスさまが語ったように述べている。とくに26章のほうでは、イエスさまがかなり長い言葉を語られたように書いていますが、そちらは、この時語られたのではなく、このあとサウロが三日間断食したのですが、その時にイエスさまが語れた言葉が続けて書かれているのでしょう。
 いずれにしろ、この時サウロは何が何だか分からない。イエスさまを迫害した罰で目が見えなくなったのかもしれないと思ったことでしょう。いや、それにしては天来のイエスさまの声は、親しげに語っておられた。いったいこれは何か?!‥‥しかし、キリスト信徒がデマをでっち上げていたと思っていた、すなわち、十字架で処刑されて死んだイエスがよみがえったという、それはデマだと思っていたが、たしかにそのイエスは生きていて、今自分に語りかけている!
 そうすると、今まで自分が神のために教会を迫害してきたことは、いったい何だったのか??‥‥サウロは大ショックを受けたに違いないのであります。そしてそのまま、連れの者に手を引かれてダマスコの町へ行きました。
 天から現れたイエスさま。しかしこれは、サウロを罰するために来られたのではありませんでした。サウロを回心させるためでした。そしてこれは、あのステファノが殉教する時に祈った祈りが聞き入れられたことであるとも言えます。ステファノは、自分に向かって石を投げつける者のために、とりなしの祈りを最後にいたしました。「主よ、この罪を彼らに負わせないで下さい」(使徒7:60)。

     先立って行かれる主

 このようにして、主は驚くべきことを次々とたたみかけるようになさっていかれます。聖霊を受けて誕生したキリスト教会。全世界に福音を宣べ伝えなさいと、主イエスに命じられていた教会。にもかかわらず、教会は、それまでのユダヤ人の中から外に足を踏み出せいないでいた。しかし、ステファノが最高法院で聖霊に満たされて語った演説は、それまでのユダヤ教が間違っていることを明らかにしました。
 そしてステファノの殉教から始まった迫害によって、信徒がエルサレムから散らされる。しかしそれが用いられて、キリストの福音が世界へと広がるきっかけとなりました。まずサマリアへ、そして前回のようにエチオピア人に。
 そして今回は、同じユダヤ人でも、キリスト教会を迫害している人、その急先鋒であった人を回心させるという驚くべきことを主はなさいます。しかも、今回はイエスさまが直々にといいますか、直接サウロを捕まえに現れる。主は、その人その人にふさわしい仕方で、信仰に導かれます。そして、キリスト信徒を迫害していた者を回心させ、世界伝道者とさせる。このようなことをいったい誰が考えつくでしょうか。しかしそれがイエスさまという方です。
 サウロは、キリスト教会を激しく迫害した張本人です。しかしそのサウロが、今やその罪を赦されて、キリストを世界に向かって宣べ伝える者とされようとしている。なぜか。それは、彼の罪の大きさを宣べ伝えさせるのではなく、キリストによる罪の赦しの大きさを宣べ伝えさせるのです。イエスさまが十字架にかかって、私たちの罪を赦してくださったという。その罪の赦しが、実際どれほど大きいものかを、サウロは誰よりもよく証しすることができる。
 サウロのところに来て下さったイエスさまは、私たちのところにも来て下さいます。

(2016年5月29日)



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