礼拝説教 2016年5月22日 主日礼拝

「神のタイミング」
 聖書 使徒言行録8章26〜40  (旧約 詩編119:115)

26 さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。
27 フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、
28 帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。
29 すると、”霊”がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。
30 フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。
31 宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。
32 彼が朗読していた聖書の個所はこれである。「彼は、羊のように屠殺場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。
33 卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」
34 宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」
35 そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。
36 道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」
37 フィリポが、「真心から信じておられるなら、差し支えありません」と言うと、宦官は、「イエス・キリストは神の子であると信じます」と答えた。
38 そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。
39 彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。
40 フィリポはアゾトに姿を現した。そして、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行った。




     エチオピア

 本日の個所では、一人のエチオピア人が主イエス・キリストを信じて洗礼を受けます。エチオピアというと、1964年東京オリンピックのマラソンで優勝したアベベを思い出すのは、古いでしょうか。エチオピアは、アフリカにある古い国で、三千年の歴史があります。旧約聖書にも出てきます。列王記上10章に、イスラエルのソロモン王のところに、シェバの女王が訪れたという出来事が書かれていますが、あのシェバがエチオピアです。そしてエチオピアの伝説では、そのイスラエルのソロモン王とシェバの女王の間に生まれた子が、エチオピアの王室を継いでいったそうです。
 そう言われてみると、私が子どもの頃は、エチオピアはまだ革命前で、ハイレ・セラシエ1世という皇帝がいました。その皇帝は、ソロモン王とシェバの女王の子孫だと言っていたことを覚えています。そして4世紀には、キリスト教が国教となったと言いますから、世界で最も古いキリスト教国のうちの一つであると言えましょう。そして、エチオピアが早くからキリスト教を受け容れたきっかけのひとつに、今日の宦官の入信の物語があったかもしれないと思うと、なんだか歴史のドラマを見ているような気がいたします。

     広がる伝道

 ステファノの殉教によって始まった迫害によって、キリスト信徒が散らされました。しかしその結果、ユダヤ人以外の外国人にもキリストの福音が宣べ伝えられることとなったということを私たちは学んでいます。
 はじめの教会は、ユダヤ人キリスト者の教会でした。そしてユダヤ人は、ずっと旧約聖書を正典とする神の民、神から選ばれた民であると信じてきました。イエスさまの弟子たちは、復活されたイエスさまが、全世界にキリストの福音を宣べ伝えるようにお命じになった言葉を聞いていましたが、なかなか「ユダヤ人だけ」という固定観念から抜け出せませんでした。
 そういうことは私たちにもあるのではないでしょうか。長い間染みついた考え方から、なかなか抜け出せないということが。そしてもしかしたら、教会もそういう固定観念から抜け出せないために、なかなか広がっていかないということがあるかもしれません。
 なかなかユダヤから踏み出せないでいた教会。それを神が、せき立てるようにして世界へ向かわせられる。そういう出来事が続けて書き記されていました。最高法院に於けるステファノの大弁論によって、それまでユダヤ教の一派と見られていたキリスト教会が、袂を分かちました。神がステファノをお用いになったのです。そして続けて起こった教会への迫害。神はその迫害さえもお用いになり、信徒を散らされ、ユダヤから外に向かわせられる。
 まず、フィリポのサマリア伝道のことが書かれていました。ユダヤ人と敵対していたサマリア人のところへ。フィリポは、もともと海外在住のユダヤ人であり、いわゆる帰国子女でしたから、ユダヤで生まれ育ったユダヤ人に比べると、外国人に対して普通に接することができた。神さまは、そういう人をお用いになったのです。そしてサマリアの人々が、続々とイエスさまを救い主と信じていきました。
 教会は、そういう神さまの業を後から追いかけるようにして、後からエルサレムから使徒たちをサマリアに派遣しました。教会が、外国人への伝道をためらっているうちに、神さまのほうが、どんどん進んで行かれる。教会は、その後を必死について行かざるを得ないという状況です。そして神さまの伝道の働きは、さらに急ピッチで進み、きょうはエチオピア人がイエスさまを信じて洗礼を受けるに至ります。これは、当時の教会が予想もしなかったことだったでしょう。

     神の主導権

 26節を見ると、「さて、主の天使は」と書かれています。主の御使いが、フィリポにエルサレムからガザへ下る道へ行くように指示する。また29節を見ると、「霊」すなわち聖霊がフィリポに、エチオピアの宦官の乗っている馬車の所に行くように指示する。つまり、神さまがフィリポをエチオピアの宦官のところに導いたことが強調されている。
 このことは、神さまがこのエチオピア人にキリストの福音を伝えさせたということです。先に教会は、サマリア人がイエス・キリストを信じるようになって驚いたことでしょう。しかし言ってみれば、サマリア人はユダヤ人と仲が悪かったとは言え、親戚のような人々です。しかし今度は、サマリア人どころではありません。アフリカのエチオピア人です。宗教も違えば、人種も違う。エルサレムの教会が、「まさか!」と思うような出来事です。
 そして神さまは、フィリポという人を用いていることにも心を留める必要があります。神さまが直接エチオピア人をキリスト信仰に導いたのではありません。人間を通して、キリストに導かれました。すなわち、神さまは一人芝居をなさらないのです。信じる人と共に、お働きになります。それはつまり、私たちが神を信じるならば、神さまは私たちと共に働かれるということです。

     神のタイミング

 サマリアで伝道していたフィリポに、神さまは、天使を遣わして、ガザに至る道のほうへ行くように言われました。その26節の「ここを立って南に向かい」という言葉の「南に」という言葉は、お昼の「正午」をあらわす言葉でもあります。その意味で訳すと、天使はフィリポに、エルサレムからガザに至る道にちょうどお昼頃行け、と言ったことになります。この道は、朝夕に多くの人々が行き来しますが、日中日が高い時にはあまり通行がなく、寂しい道となるそうです。と考えると「そこは寂しい道」と書かれていることと合致するというわけです。
 そしてフィリポが、御使いが言ったように、ちょうどお昼頃その道へ行った。するとちょうどその時!‥‥という感じになります。ちょうど、エチオピアの女王カンダケの交換で女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が‥‥と。ベスト・タイミングであったと言っているのです。
 そしてさらに、今度は聖霊がフィリポに、その馬車を追いかけて行くように言われる。そして行ってみると、馬車の中からは、またまたちょうど旧約聖書の預言者イザヤの書、すなわちイザヤ書を朗読している声が‥‥! しかもその個所は、イザヤ書53章7節〜8節であった!それはまさに、イエス・キリストの受難を預言している個所です! そして声をかけると、宦官のほうからフィリポに馬車に乗って解説してくれるように頼んだ!‥‥
 これは偶然でしょうか? 偶然ではありません。天使が指示し、聖霊が指示している。神のタイミングであると聖書は言っているのです! そしてフィリポの解説を聞いた宦官は、イエスさまを信じて洗礼を受けるに至りました。フィリポはまさに、神によって、その時に導かれて用いられたのです。その時でなければならなかった。神さまは、その「時」をご存知であるということです。
 私自身を振り返ってみてもそうだったな、と思います。病気で会社を辞めて挫折し、街角を歩いていた時に、幼なじみとばったり出会った。しかも彼は、イエスさまを信じる者となっていました。あのとき、あの出会いがなかったならば、私はクリスチャンになっていなかったかもしれないと思うと、あの街角で幼なじみと出会わせたのは神さまであったと言えるのです。まさに、ジャスト・タイミングだったと思います。

     壁を破る神

 さて、こうして、ユダヤ人から始まったイエス・キリストの信仰が、神さまの主導によってサマリア人へと広がり、さらにアフリカのエチオピア人へと伝えられた。宗教も人種も異なる国にです。しかも彼は宦官でした。宦官というのは、宮廷に仕える去勢された役人です。中国などで見られた制度です。そして去勢された男子は、主の会衆に加わることができないと、旧約聖書の律法、申命記32:2に記されています。だから、ユダヤ人からしたら、宦官は神の民となることができない。
 そういう壁を、すべてぶちこわされたのがきょうの聖書個所です。しかも、ぶちこわされたのは神さま御自身です。イエス・キリストによって、それらの壁は取り払われたのです。もはやユダヤ人も異邦人もない。日本人も韓国人もアメリカ人もアフリカ人も違いはない。罪人でも悪霊にとりつかれた者でも、誰でもイエス・キリストを信じるならば救われる!私も救われるのです。
 宦官は、「喜びにあふれて旅を続けた」とあります。イエスさまを信じる喜びです!

     蒔かれていた種

 さて、今日の聖書でもう一つ覚えておきたいことがあります。それは、このエチオピア人の宦官は、この日いきなり神に導かれてイエスさまを信じたのではなく、以前から種が蒔かれていたということです。
 彼はフィリポに出会う前に、聖書に記されている真の神さまを知っていました。そして、遠くエルサレムまで巡礼の旅に来ていました。そして馬車の中で朗読していたことから分かるように、彼は聖書、少なくともイザヤ書を持っていました。当時の聖書は、ものすごく高価だったそうです。それを持っていた。すなわち、彼には、神を求める求道心があったのです。はるばる神を礼拝するために、ユダヤのエルサレムまで来るほどに。
 道を求めていました。そしてイザヤ書53章に書かれている「苦難のしもべ」の意味が分からなかった。そこにちょうど主に導かれて、フィリポが来た。宦官の心は、キリストを受け容れる準備がされていました。なぜ彼は、真の神を知っていたのか?‥‥誰かが教えたのでしょう。誰かが彼の心に種を蒔いていたのです。しかしその種を蒔いた人の名前は記されていません。無名の誰かが、彼の心に種を蒔いていた。そのように用いられていた。
 伝道とは、種を蒔くことです。福音の種を蒔く。それがいつ芽を出して、成長し、実を結ぶかは分かりません。しかし種が蒔かれていたからこそ、フィリポの言葉を素直に受け容れることができました。種を蒔く。尊いことです。そして、時を支配する神さまが、いつか実を結ぶ時、ベスト・タイミングを定めて下さる。そう信じたいと思います。

(2016年5月22日)



[説教の見出しページに戻る]