礼拝説教 2016年5月15日 主日礼拝

「比類なき聖霊」
 聖書 使徒言行録8章9〜25  (旧約 エゼキエル書36章26)

9 ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリヤの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。
10 それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」と言って注目していた。
11 人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。
12 しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。
13 シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。
14 エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞きペトロとヨハネをそこへ行かせた。
15 二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。
16 人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。
17 ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
18 シモンは、使徒たちが手を置くことで、”霊”が与えられるのを見、金を持って来て、
19 言った。「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。」
20 すると、ペトロは言った。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。
21 お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。
22 この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。
23 お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。」
24 シモンは答えた。「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。」
25 このように、ペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った。




 本日はペンテコステです。ペンテコステは、クリスマス、イースターと並ぶ、キリスト教会の三大祝祭日の一つです。しかし世間には最も知られていない日です。それでペンテコステについて、クリスチャンではない人に説明する時、一番難しい日でもあります。それで「教会の誕生日」などと説明するわけですが、考えてみれば教会に誕生日があるというのも、不思議なことには違いありません。教会の誕生日といっても、それは最初に教会の建物ができた日というわけではない。イエスさまの弟子たちが集まっているところに、聖霊が降って、教会となった日ということになる。すなわち、聖霊がお出でにならないとしたら、それは教会ではないということになるわけです。
 本日の聖書個所は、使徒言行録2章のペンテコステの出来事を記した個所ではありませんが、ペンテコステにふさわしい個所であると思います。

     サマリアへ

 ステファノの殉教にともなって、エルサレムの教会に迫害が始まり、多くの人々が地方へと散らされていきました。そしてステファノと同じ伝道者フィリポは、ユダヤの北のサマリアに行ってイエス・キリストの福音を宣べ伝えました。キリストの福音が、初めてユダヤ人の地から外に出て行きました。
 イエスさまが天に帰られる前に、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)とお命じになった。しかしこれまで教会は、外に向かって踏み出せないでいました。それが迫害によって散らされ、言わば強制的に外に向かっていくことになりました。そこに主の導きを感じます。「さあ、世界に向かって歩み出しなさい!私も共に行くから」と、主イエスがおっしゃっているようです。

    魔術師シモン

 さて、そうしてサマリア人の町でキリストの福音を宣べ伝えたフィリポですが、ここにシモンという人が登場します。このシモンという人は、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせていたと書かれています。「偉大な人物と自称していた」とありますが、だいたい自分で自分のことを「偉大だ」という人には、たいした人はいません。この人は魔術師シモンと呼ばれます。「魔術」というのはいったい何か?
 おもに二つの考え方があります。一つは、イエスさま誕生を知って東の国からやって来た人。新共同訳聖書では「占星術の学者」と訳していますが、正しくは「天文を読み解く者」です。ここに「マゴス」という、きょうの聖書個所の「魔術を行う」の名詞形で使われている。ただ、今日の聖書の魔術師シモンは、天文を読み解いて人々を驚かせているわけではなさそうなので、これではありません。
 するともう一つの魔術の意味は、旧約聖書の出エジプト記7章からの所で登場しますが、モーセと対決したエジプト王ファラオお抱えの魔術師です。その魔術師は、モーセに対抗して杖を蛇に変えて見せ、川の水を血に変えて見せました。そのように、人間の力を超えた特殊な知恵や能力を魔術と呼んでいます。
しかしこれは何かファラオの魔術師たちが、特殊な能力を発揮したわけではなく、言わば手品や奇術でしょう。私たちが、手品師が何もないところから鳩を出して見せたり、一瞬にして布の後ろから人間を登場させたりするのを見て度肝を抜かされるのと同じです。だいたい、ギリシャ語で魔術と訳される「マゴス」という言葉は、英語のマジックの語源なのですから。しかしシモンの場合は、人々は手品ではなく、本当だと信じていたのです。

     サマリア人の回心

 フィリポの伝道を通して、サマリア人が続々とイエス・キリストを信じ、洗礼を受けました。そしてシモンも洗礼を受けました。ただシモンがなぜ洗礼を受けたかについては、どうやらフィリポを通して神の奇跡がおこなわれることにあったようです。おそらく自分もそれにあやかりたいという動機でしょう。
 さて、サマリア人が続々と洗礼を受けたという知らせを聞いて、エルサレムにいた使徒たちはペトロとヨハネをそこに派遣しました。エルサレムの教会の人たちは、非常に驚いたことでしょう。なぜなら、前回も申し上げたように、ユダヤ人とサマリア人は仲が悪かっただけではなく、サマリア人はけがらわしい民だとユダヤ人は考えていたからです。しかしそのサマリア人がイエスさまを信じて洗礼を受けた。教会がまごまごしている間に、主なる神さまの方が先に先にと、進んで行かれる。教会は後からそれを追いかける形です。

     洗礼と聖霊

 さて、16節にこう書かれています。「人々は、主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだ誰の上にも降っていなかったからである。」
 これはいったいどういうことでしょうか? 不思議な言葉です。なぜなら、私たち教会は、ふつう洗礼を受けた時に聖霊が与えられると信じているからです。たとえば使徒言行録2章のペンテコステの聖霊降臨の時、集まった群衆に向かってペトロが言いました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(使徒2:38)
 主イエスを信じて洗礼を受ければ、聖霊をいただく。これが教会の信仰です。しかしきょうの個所では、サマリア人がイエスさまを信じて洗礼を受けたけれども、聖霊がまだ降っていなかったという。もしそういうことがありうるなら、洗礼式とは別に聖霊付与式のようなものを行わなければならなくなります。そうするとそれは、イエスさまの大宣教命令とも違ってくるように思います。「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」。そこには、「洗礼を受ける者は救われる」と書かれています。この「救われる」の中には、聖霊が与えられることも含まれていると考えるのが普通だからです。
 そうすると今日の聖書個所はどういうことになるのか?
 細かく聖書研究を紹介している時間はありませんから、結論を申し上げると、聖霊は洗礼を受けた時に与えられていたが、「聖霊の賜物」がまだ降っていなかったという意味だということです。
 では「聖霊の賜物」とは何かというと、具体的にそのことを書いているのが、コリントの信徒への手紙一の12章です。そこには、聖霊の賜物のリストが書かれています。それは、知恵の言葉、知識の言葉、信仰、病気を癒やす力、奇跡をおこなう力、預言する力、異言を語る力、異言を解釈する力です。その中の「異言」というのは、ペンテコステの時に聖霊が降って、使徒たちが知らない外国語で神の働きについて語り始めたという出来事で、その知らない外国語を語ることをいいます。詳しくいえば、それは外国語である場合もあり、天使の言葉である場合もあります(一コリント13:1)。
 そのように、イエスさまを信じたサマリア人たちには、まだ聖霊の賜物が与えられていなかった。それでペトロとヨハネが祈った。そう考えられます。
 「霊」というギリシャ語は、「風」というギリシャ語と同じです。どちらも目に見えません。しかし、木の葉が揺れると風が吹いているということが分かる。それと同じように、賜物が現れて聖霊が働いたことが分かる。それが聖霊の賜物です。さらに言うならば、先ほどのコリントの信徒への第一の手紙の12章31節で、パウロはこう述べています。「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に務めなさい。」 そして13章の「愛」の章へと続く。すなわち、「愛」も聖霊がくださる賜物であるということになります。
 そしてさらに、聖霊が与えられた結果、聖霊が自分自身の中で結ぶ実というものがあります。ガラテヤの信徒への手紙5:22〜23にその具体的リストが書かれています。それは、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、柔和、節制です。
 そのように、聖霊の賜物が与えられて、また聖霊によって実が結ぶことによって、その人の変化が外に表れる。木の葉が揺れることによって、風が吹いていることが分かるように。賜物が表れ、実を結ぶことによって聖霊が与えられたことが分かる。

     按手

 ペトロとヨハネが、洗礼を受けたサマリア人が聖霊を受けるように祈った。それは、まだ他の人の目から見て分かるようなしるしがサマリア人に表れていなかった、ということです。それでペトロとヨハネは、人々の上に手を置いた。
 この、手を置くという所作を「按手」と呼びます。たとえば、教区総会において「按手礼式」というものがあります。新しく牧師となる人の頭の上に、すでに牧師となっている人たちが手を置いて祈ります。その、牧師の按手礼式の式文の中にこういう言葉があります。‥‥「その務めを全うするために、聖霊を受けよ」。この場合、もちろん牧師たちはキリストを信じて洗礼を受けているわけですから、すでに聖霊を受けています。しかしそこで「聖霊を受けよ」と司式者が言うのは、牧師の務めをするために必要な聖霊の賜物を受けよ、ということなのです。
 ペトロとヨハネは、その聖霊の賜物が与えられるように、あるいは聖霊がその人の中で実を結ぶように祈った。そしてひとりひとりの上に手を置いた。按手したんです。手を置くのは、まとめて手を置くことができません。ですから、ひとりひとりが強調されることになります。聖霊はひとりひとりに与えられ、ひとりひとりに賜物が与えられ、ひとりひとりの中で実を結ぶ。
 18節を見ると、シモンは「使徒たちが手を置くことで聖霊が与えられるのを見た」と書かれています。外から見て分かったということです。変化が分かった。つまり、ペトロとヨハネが手を置いて祈ったその人が、聖霊の賜物を受けて異言を語り出したか、預言を語り出したか、あるいは神の知恵が与えられて神の知恵の言葉を語るようになったか、というようなことです。あるいは聖霊の実ということで言えば、その人が喜びに満たされるようになったとか、平安に満たされた、愚痴や不平不満ばかり言っていた人が神への感謝ばかり口にするようになった‥‥ともかく、そういう外から見て分かる変化があった。そういうことです。それがここで言う、聖霊を受けた、ということです。

     動機

 ところがそのような聖霊による人間の変化を見たシモンは、使徒ペトロとヨハネに、その力をお金で売ってくれと頼んだ。つまり、お金で聖霊をコントロールする力を買おうとしたわけです。聖霊は神さまです。すなわち、シモンは、お金で神さまをコントロールしようとした、人間の意のままに神を操ろうとした。これほど恐ろしいことはありません。恐ろしいほどの高慢です。ですから、ペトロはシモンに向かって烈火のごとく叱責しました。「お前の心が神の前に正しくない」と。
 水は、高いところから低いところへ流れます。神の恵みも同じです。聖霊も同じです。聖霊の恵みは、へりくだった人に注がれます。神の前に身を低くし、心からへりくだって、聖霊の与える良きものを求める。そこに聖霊の恵みは現れます。

(2016年5月15日・ペンテコステ)



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