礼拝説教 2016年4月24日 主日礼拝

「渾身の訴え」
 聖書 使徒言行録7章44〜53  (旧約 イザヤ書44:21〜22)

44 わたしたちの先祖には、荒れ野に証しの幕屋がありました。これは、見たままの形に造るようにとモーセに言われた方のお命じになったとおりのものでした。
45 この幕屋は、それを受け継いだ先祖たちが、ヨシュアに導かれ、目の前から神が追い払ってくださった異邦人の土地を占領するとき、運び込んだもので、ダビデの時代までそこにありました。
46 ダビデは神の御心に適い、ヤコブの家のために神の住まいが欲しいと願っていましたが、
47 神のために家を建てたのはソロモンでした。
48 けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです。
49 『主は言われる。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。お前たちは、わたしにどんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。
50 これらはすべて、わたしの手が造ったものではないか。」』
51 かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。
52 いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。
53 天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」




     悔い改めへの招き

 初めに、最初に読んだ旧約聖書イザヤ書44章21〜22節を取り上げます。これは預言者イザヤがイスラエルの民に向かって、神の言葉を取り次いでいるものです。その21節の最後の行ですが、この聖書では「イスラエルよ、わたしを忘れてはならない」と日本語に訳されています。この「わたし」というのは神さま御自身のことで、これは神さまの言葉です。
 しかし、実はそういう訳ではないようです。以前富山におりました時に、北陸には北陸の牧師たちの勉強会である北陸神学会というのがあるんですが、毎年3月の回ではヘブライ語の勉強会にするんです。その会の講師は、前にこの教会の特別伝道礼拝にも来ていただいた大隅啓三先生がしてくださいます。ある年、このイザヤ書44章をテーマにいたしました。そのとき大隅先生は、ヘブライ語本文を解説しながら、この21節は「イスラエルよ、わたしを忘れてはならない」となっているけれども、それは違うと言われました。本当は、「イスラエルよ、わたしはあなたを忘れない」と訳すべき言葉だと。
 そうすると全然違う意味になりますね。「イスラエルよ、わたしを忘れてはならない」というと、イスラエルの民が神さまを忘れてはならないと忠告されている意味ですが、「わたしはあなたを忘れない」と訳すと、神さまがイスラエルを忘れない、という意味になります。神さまが、あなたを忘れない。だから「わたしに立ち帰れ」、神さまに立ち帰れ、悔い改めよ、罪は赦されたから、という意味になります。私はその時、非常に感動したのです。
 私たちがどんなに神を忘れ、そむいても、神さまは私たちのことをお忘れにならない。そして神のもとに立ち帰るように言ってくださる。私たちの罪は、イエスさまが十字架について下さったことによって、赦されたから、と。
 ステファノが最高法院で語っている弁論も、最高法院の議員たちに対して、神に立ち帰るように訴えているものです。何か非難して断罪しているのではありません。そもそもこの弁論は、2節の「兄弟であり父である皆さん」と言って、この人たちを敵としてみているのではなく、家族として親しく呼びかけて始まっています。議員たちの誤りを指摘して、悔い改めるよう、切々と訴えていると見るべきです。

     転換点となる説教

 この7章のステファノの弁論は、非常に長いものです。イエスさま以外の言葉としては、異例に長い言葉として書き留められています。なぜでしょうか? このあとステファノが殉教するからでしょうか?
 それは、この時からキリスト教は、キリスト教として別の道を歩み始めることになったからだと言えるでしょう。それまでは、教会はユダヤ教の一部だと思われていた。しかしここに至って、キリスト教会はユダヤ教から別れていくのです。そういう転換点が、このステファノの説教です。
 そもそもステファノが訴えられた理由は、6章13節に書かれているとおりですが、イエスをキリストと信じるステファノが、エルサレムの神殿と律法をけがしたということでした。この神殿と律法という二つは、ユダヤ人の信仰の柱でした。最も大切なものでした。神殿で羊などの動物をいけにえとしてささげて礼拝をし、モーセの律法を守って生活をする。それが信仰生活でした。だからこの二つはなくてはならないものでした。
 最初は教会も同じようにしていました。キリスト信徒はみなユダヤ人でした。だから他のユダヤ人と同じように、エルサレムの神殿にお参りをしていました。たとえばペンテコステの聖霊降臨によって教会は誕生したわけですが、そのすぐあと、使徒言行録2章46節には、教会の信徒が「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り」と書かれています。毎日神殿にお参りをしていた。また、そのあとペトロとヨハネが生まれつきあることのできなかった人を癒やしたのも、二人が神殿に礼拝に行く時の出来事でした。
 そのように、はじめはキリスト信徒も他のユダヤ人、すなわちユダヤ教徒と同じように、いやむしろ、熱心なユダヤ教徒として信仰生活を送っていました。しかしキリスト教会の中から、だんだん疑問や迷いが生まれて来たのだと思います。なぜなら、まず、神殿の祭壇にささげられる羊や牛などの動物のいけにえです。それら動物をいけにえとして神さまに献げることによって、罪を赦していただく。しかし、今やイエス・キリストが来られて十字架にかかられたわけです。その十字架によって、自分たちの罪は赦されるのではないか? もう羊をいけにえとしてささげる必要はなくなったのではないか? だとしたら、もう神殿は要らなくなったのではないか? イエスさまを信じることで十分なのではないか?‥‥そういう疑問であり、迷いです。
 もう一つのモーセの律法についても同じです。律法の精神である、神を愛することと隣人を愛すること、これは変わることはないけれども、私たちが救われるのには、律法を守ることによって救われるのか? そうではなく、イエスさまを信じることによって救われるのではないのか? そのように主イエスはおっしゃったではないか。むしろモーセの律法は、イエス・キリストを預言するためのものだったのではないか? そうすると、イエス・キリストが来られた今、律法のおもな役割は終わったと言えるのではないか?‥‥
 このように、エルサレムの神殿とモーセの律法は、イエス・キリストが来られたことによって、どうなるのか。その疑問、迷いに対して、ステファノは初めて答えを出しているのです。聖霊によって、大胆にそのことの結論を述べている。つまりここでステファノは、初めて教会の立場を打ち出したのです。イエスさまによって、新しい時代に入ったということが明らかになる。そのことを分かってほしいと、命をかけて訴えているのです。同じ兄弟姉妹として。

     神はどこにおられるのか

 そしてきょうの聖書個所でステファノが言いたいことはなんでしょうか。44節からですが、ステファノは「幕屋」について語っています。これは、言ってみれば移動式の神殿です。幕でできていたから幕屋と呼ばれます。そのむかし、イスラエルの民が荒れ野で放浪していた時に、神さまがモーセに命じて作らせたものです。荒れ野の中を旅しましたから、あちこち引っ越します。だからそのたびに分解して、また組み立てられるような構造になっていました。それが幕屋という礼拝所でした。ですから、モーセの時代、イスラエルの人々は、どこか決まった場所で礼拝していたのではありません。
 その幕屋が、エルサレムの神殿となったのは、ソロモン王の時代でした。それまでは、幕屋という移動式の礼拝所だったのです。だから、ステファノは最高法院の議員たちに向かって、あなたがたはエルサレムの神殿が特別に神が選ばれた場所であるかのように言うけれども、そうではないことは、歴史を見れば明らかでしょうと言っているわけです。神は、神殿という特定の場所に住んでいるわけではない。そのことは、預言者も言っているではないかということで、49節50節では、これはイザヤ書66章1〜2節を引用しているのです。預言者イザヤも言っているではないか。いと高き方、すなわち神は、人間の手で作ったものにはお住みならないと。エルサレムの神殿に神が住んでおられるわけではない、と言っているのです。

     悔い改めを迫る

 ステファノの説教の最後は、最高法院の議員たちに対して悔い改めを迫っています。51節では「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています」と述べている。これはわかりやすく言えば、あなたがたは形ばかり神を信じているように振る舞っているが、本当に神を求めていない。神の言葉に心から聞こうとしていないということです。
 その点において、過ちを繰り返してきた私たちの先祖と同じ過ちを犯しているという。「今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった」と言っていますが、これはイエスさまを死刑に定めたことを言っているのです。イエスという名前を出していませんが、彼ら最高法院がイエスさまを死刑に定めたわけですし、今まで2回、キリストの使徒たちをこの最高法院で裁判にかけているので、ステファノがイエスさまのことを言っていることは分かっているのです。
 ステファノは、かなりきびしい口調で言っていますが、決して最高法院の議員たちを糾弾したり攻撃したりしているわけではありません。なぜなら、キリスト信徒という者は、必ず「わたしもイエスさまを十字架に追いやった罪人である」と思っているからです。だから責めているのではありません。わたしもそうだった、だから共に悔い改めましょう、自らの罪に気がつきましょう、そして神さまのあわれみを求めましょう!‥‥そう呼びかけているのです。しかもステファノは、命をかけて渾身の訴えをしている。

     神に聞こうとしているか

 私たちはどうでしょうか?‥‥私たちは、本当に神の言葉に耳を傾けているだろうか? 名前だけのクリスチャンになっていないだろうか?
 ステファノは、「あなたがたはいつも聖霊に逆らっています」と言っています。私も、むかし教会に通っていた時には、「聖霊」ということが分かりませんでした。聖霊が分からないということは、イエスさまが生きて私たちに関わって下さるということが分からないということです。だから教会の礼拝に通うということは、神社の代わりに教会にお参りに行くようなものであり、聖書の昔話を聞きに行くような、あるいはせいぜい、生きて行く上でためになる何かの教訓を聞きに行くような感じであったように思います。キリストが生きておられ、聖霊を通して、この私という人間にも語りかけ、働きかけ、共に歩んで下さる方であるということは分からなかった。
 ステファノが言っていることは、会堂が大事なのではなく、そこに来て下さる方が大事だということです。私たちはステファノの渾身の訴えをしっかりと受け止めることができるでしょうか。聞いて、悔い改めることができるでしょうか。
 聖書で言う悔い改めとは、神とキリストの方を向くということです。生きて、我々の間で働いて下さる聖霊を信じることです。そこに、「ああ、神さまは本当におられる」という証しが生まれます。今年度の主題も「主を証しする教会」といたしました。この神を信じなくなった世の中において、私たちは、「神は生きておられる」と言おうというのです。
 まずわたしたちひとりひとりが悔い改め、生ける神、生けるキリスト、生ける聖霊に心を向け、御言葉に真剣に耳を傾けて行くならば、日本の伝道の前進は、この逗子教会から始まると信じます。

(2016年4月24日)



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