礼拝説教 2016年4月10日 主日礼拝

「遠大な計画のはじめ」
 聖書 使徒言行録6章1〜16  (旧約 創世記12:1〜4)

1 大祭司が、「訴えのとおりか」と尋ねた。
2 そこで、ステファノは言った。「兄弟であり父である皆さん、聞いてください。わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ、
3 『あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け』と言われました。
4 それで、アブラハムはカルデア人の土地を出て、ハランに住みました。神はアブラハムを、彼の父が死んだ後、ハランから今あなたがたの住んでいる土地にお移しになりましたが、
5 そこでは財産を何もお与えになりませんでした、一歩の幅の土地さえも。しかし、そのとき、まだ子供のいなかったアブラハムに対して、『いつかその土地を所有地として与え、死後には子孫たちに相続させる』と約束なさったのです。
6 神はこう言われました。『彼の子孫は、外国に移住し、四百年の間、奴隷にされて虐げられる。』
7 更に、神は言われました。『彼らを奴隷にする国民は、わたしが裁く。その後、彼らはその国から脱出し、この場所でわたしを礼拝する。』
8 そして、神はアブラハムと割礼による契約を結ばれました。こうして、アブラハムはイサクをもうけて八日目に割礼を施し、イサクはヤコブを、ヤコブは十二人の族長をもうけて、それぞれ割礼を施したのです。
9 この族長たちはヨセフをねたんで、エジプトへ売ってしまいました。しかし、神はヨセフを離れず、
10 あらゆる苦難から助け出して、エジプト王ファラオのもとで恵みと知恵をお授けになりました。そしてファラオは、彼をエジプトと王の家全体とをつかさどる大臣に任命したのです。
11 ところが、エジプトとカナンの全土に飢饉が起こり、大きな苦難が襲い、わたしたちの先祖は食糧を手に入れることができなくなりました。
12 ヤコブはエジプトに穀物があると聞いて、まずわたしたちの先祖をそこへ行かせました。
13 二度目のとき、ヨセフは兄弟たちに自分の身の上を明かし、ファラオもヨセフの一族のことを知りました。
14 そこで、ヨセフは人を遣わして、父ヤコブと七十五人の親族一同を呼び寄せました。
15 ヤコブはエジプトに下って行き、やがて彼もわたしたちの先祖も死んで、
16 シケムに移され、かつてアブラハムがシケムでハモルの子らから、幾らかの金で買っておいた墓に葬られました。




     友人牧師の電話

 先週、友人牧師から電話をもらいました。再び脳梗塞を起こして入院していると言いました。彼は私よりも若いのですが、昨年秋に脳梗塞を発症して救急車で病院に運ばれました。幸い軽症で、病院に到着した頃にはほとんど回復していたそうです。しかし今回はもう少し重く、倒れた時には顔面が麻痺して口がきけず、左半身があまり動かない状態だったそうです。そして、奥さんに救急車を呼んでもらって病院に運ばれました。幸いにも回復して、病院から携帯電話で電話をしてきたということでした。彼はそれまで病気らしい病気をしたことがないという健康の持ち主だったこともあり、今回はかなり落ち込んだそうです。そうして病院のベッドの中で、何もすることがないので、ゆっくり聖書を読んだそうです。そして神さまの御言葉によって慰めを受け、立ち直ったと言っていました。そして今回の脳梗塞によって、信仰の原点に立ち帰らされたと言っていました。
 私たちは物事が順調に進んでいる時には、立ち止まらずに進んで行ってしまいます。しかし大きな試練が臨むと、進めなくなる。そのような時、神さまは、信仰の原点に立ち帰るように導かれます。きょうの聖書個所であるステファノの弁論は、まさに原点から聖書を説き明かすことでした。

     分岐点に立つ教会

 使徒たちの務めを分担するために、7人が按手を受けて、教会の奉仕の務めにつきました。それは、教会内のやもめたちへの食糧配給に携わることであり、またイエス・キリストの福音を宣べ伝えることでした。そしてそのうちの一人であるステファノが、ユダヤ教徒の反発を受けて捕らえられ、最高法院に突き出されました。捕らえられた理由は、6章13〜14節に書かれているように、ステファノがエルサレムの神殿と律法をけがすことを言ったというのです。
 神殿と律法は、ユダヤ人の信仰のしるしであり中心でした。このときには、ヘロデ大王が建てた立派な神殿が建っていました。大理石で輝き、壮麗で荘厳な神殿でした。また、モーセの律法がありました。これはその昔、モーセが神さまからいただいた律法、すなわち掟でした。共にユダヤ人の誇りでした。自分たちが神の民であることのしるしでした。
 彼らがステファノを告発した言葉は大げさです。6:14で「あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し‥‥」と言ったと言って訴えていますが、神殿を「破壊」というのは、そこまで言っていないと思います。しかし、先週も申し上げましたように、それまでユダヤ人社会の中で、他のユダヤ人と同じように神殿での礼拝をし、モーセの律法を守ってきたことにてついて、何か違うんじゃないかと迷いが生じてきた頃であったかと思います。
 旧約聖書で約束されていた、神のメシア=キリスト(救い主)がイエスさまであり、その方が来られた以上、もう神殿は要らないのではないか。そもそも、どこに神さまがおられ、何によって救われ、神さまの所に行くことができるのか? 我々が罪を赦されるのは、神殿で献げる羊によってか、それとも神の子イエス・キリストの十字架によってか?‥‥そうだとすると、神殿はもはや不必要なのではないか? モーセの律法を守ることによって救われるのか? いや、イエスさまを信じることによって救われるのではないか?‥‥だとしたら、モーセの律法の使命は終わったのではないか?
 まさにそういう分岐点に教会は立っていたのです。そして一部の熱心なユダヤ教徒は、キリスト信徒のそういう揺れを見抜いていたのだということもできましょう。

     最高法院に立つステファノ

 捕らえられたステファノは最高法院に立たされました。またもや最高法院です。ユダヤ人の最高議会であり裁判所です。使徒言行録では、4章でペトロとヨハネが、5章で使徒たちが最高法院に連行され取り調べを受けました。今回はそれに続いて3度目となります。「仏の顔も三度」と言いますが、そろそろ最高法院の堪忍袋の緒も切れそうな雲行きです。
 最高法院の議員たちは、イエスを信じるステファノが連れてこられたのを見て、「またお前たちか」と思ったことでしょう。やっかいなことになった、と思ったことでしょう。前回5章17節からの所では、議員たちは怒り、使徒たちを殺そうと思いましたが、人々から尊敬を受けていた律法の教師ガマリエルが、神さまの手にゆだねるように言いまして、助かりました。もちろんそれも神の導きでした。
 しかし今回はその時とはまた情勢が違ってきています。その後もキリスト信徒たちは、イエス・キリストのことを宣べ伝えるのをやめず、教会は信徒を増やしていきました。しかも、エルサレム神殿の祭司たちまでもが大勢イエスを信じるようになっている。そうなると、大祭司をはじめ最高法院としては、黙認するわけにもいかなくなってきます。我慢の限界が近づいてきたのです。そこにキリスト教会の伝道者の一人が捕らえられてきた。1節で大祭司が、「訴えのとおりか?」と訊きました。被告人に弁明の機会を与えたのです。ステファノの答え方によっては、本人と教会の運命が決まる。まさに緊迫した状況です。

     ステファノの弁論

 そしてステファノが語り始めたのは、反論でも、弁明でもありませんでした。長い弁論です。イスラエルの壮大な歴史を語り始めました。6章15節を見ると、最高法院に立たされたステファノの顔は、「さながら天使の顔のように見えた」と書かれています。
 天使の顔というのはどういう顔かということですが、天使というのは天の父なる神さまのおそばでお仕えしている存在です。ですから、喜ばしい顔であり、平安な顔であり、光り輝くような顔と言えるでしょう。ステファノには、このあと極刑が出ることも予想されます。なのにそのような顔をしていた。それはステファノに聖霊が働いて、守っていてくださる。そう言えるでしょう。
 ステファノは、「兄弟であり父である皆さん」と語りかけています。「兄弟」というのは、ここでは同じユダヤ人である同胞のことを指しています。親しみを表しています。「父」とは、ここでは大祭司および祭司であり、律法の教師たちのことを指しています。すなわち、ステファノは最高法院の面々と対立するつもりは全くない。敵対心がないのです。家族として、心から語り始める。分かってほしいと。しかしステファノは、何も割り引いて語らない。心から本当に信じていることを語ります。願わくは、この人々も回心してほしいという気持ちの表れです。それが吉と出るか、凶と出るか、分かりません。しかし、すべてを神さまにゆだねています。

     アブラハム

 そしてステファノは、イスラエルの原点である人物、アブラハムから語り始める。それはイスラエル=ユダヤ人のルーツであるばかりではありません。私たち教会のルーツでもあります。それはユダヤ人なら誰でも知っていることでした。アブラハムが神の声を聞いた。その声に従って旅立った。そのことから、物語は始まりました。今日読んだ旧約聖書、創世記12章1〜4節の神の言葉です。
 アブラハムは、それまでは今のイラクとシリアにあたる地方に住んでいました。イスラエルから言えば外国です。そこで神さまの呼びかける声を聞いたのです。神さまに出会ったのです。神殿で神さまの言葉を聞いたのではありません。アブラハムは、その神さまの約束の言葉を信じて、旅立ちました。その時、実に75才でした。神さまの言葉だけを頼りに。すなわち、ステファノは最高法院の面々に向かって、「あなたがたは神殿、神殿と言うが、そのような物に頼るのではなく、神の言葉に信頼して従っていくのが信仰ではないですか?その神さまの言葉は、このエルサレムの神殿ではなくても、どこにおいても聞くことができるのではないでしょうか?」‥‥そのように心を込めて訴えているのだと言えます。

     ヨセフ物語

 続いてステファノが9節から語っているのは、旧約聖書創世記の終わりのほうのヨセフ物語についてです。9節の「族長たち」というのは、ここではヤコブ(イスラエル)の12人の息子を指しています。ヨセフはその一人でしたが、兄弟たちにねたまれて、結果的にエジプトに奴隷として売られることになりました。
 しかし神はエジプトという異国の地、異教徒の地においても、ヨセフを助けてくださった。そして飢饉から家族を救う結果となった。神の御計画があった。これもユダヤ人なら誰でもよく知っている出来事です。そのように、神はエジプトという異国の地においても共におられ、働いてくださった。だから、神はエルサレムの神殿に鎮座ましましているわけではない‥‥ステファノはそのように言いたいのではないか。

     礼拝におられるキリスト

 前任地の教会で、市の再開発事業に伴い、教会堂を移転新築いたしました。教会も宗教法人でしたので、宗教法人は土地建物への固定資産税は非課税となります。しかしそれには、その土地にたしかに宗教施設が建っていること、そして建物は、宗教施設であることの証明をもらわなくてはならないわけです。そうすると県庁の方が新築の建物の確認に来るわけです。宗教施設であることの特徴は礼拝堂にあるわけですから、礼拝堂を見ます。そのお役人さんも礼拝堂を見て「神さまはどちらですか?」というようなことを私に訊いてきたんですね。まだ、完成したばかりで、イスも何も入っていない時です。
 この質問に対する答えは、お寺さんでしたらご本尊、つまり仏像のある所でしょうし、神社でしたら本殿のある場所となるでしょう。しかし、教会はどうか?‥‥「キリスト教では、どこか特定の場所に神さまがおられるというわけではありません。そもそもイエスさまは『二人または三人がわたしの名によって集まる所には、わたしもその中にいるのである』とおっしゃったわけでありまして‥‥」などと説教してもよかったのですが、そんなことを言われてもお役人さんは困るでしょうし、要するに一番神聖な場所を尋ねたいのだろうと思いましたので、「こちらです」と言って、十字架のある聖壇のほうを指しました。そうするとそれで確認は終わりでした。
 しかし、考えてみれば聖壇が特に神聖というわけでもないし、十字架に何かをしたらたたりがあるというわけでもありません。これらはキリストの恵みを指し示すしるしに過ぎないのです。
では神さまはどこにおられるかといえば、先ほど引用した聖句、マタイ福音書18章20節のイエスさまのお言葉です。『二人または三人がわたしの名によって集まる所には、わたしもその中にいるのである』。‥‥二人または三人がイエスさまの名によって集まるというのは、まずこの礼拝がそうですね。ですから、ここに今、たしかにイエスさまがいて下さっているのです。
 これは本当にすばらしいことです。イエスさまは約束通り、ここにおられる。「わたしはダメな人間だから、ここには来てくださらない」というのではありません。『二人または三人がわたしの名によって集まる所には、わたしもその中にいるのである』とおっしゃっておられるのです。だからここに来てくださっているのです。あるいはまた、「わたしは先週、神さまにそむいた。だからここにはおられない」のでもありません。なぜならイエスさまが『二人または三人がわたしの名によって集まる所には、わたしもその中にいるのである』と約束しておられるからです。
 イエスさまが十字架にかかられる前に復活を約束なさり、その通り復活なさったように、イエスさまの約束はたしかです。そんなすばらしい所に今、私たちは、いるということです。

(2016年4月10日)



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