礼拝説教 2016年4月3日 主日礼拝

「キリストの体として」
 聖書 使徒言行録6章1〜15  (旧約 出エジプト記18:17〜18)

1 そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。
2 そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。
3 それで、兄弟たち、あなたがたの中から、”霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。
4 わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」
5 一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカルノ、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、
6 使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。
7 こうして神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。
8 さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。
9 ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。
10 しかし、彼が知恵と”霊”とによって語るので、歯が立たなかった。
11 そこで、彼らは人々を唆して、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。
12 また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。
13 そして、偽証人を立てて、次のように訴えさせた。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。
14 わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」
15 最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。




     教会内の問題発生

 最初の教会が、心を一つにし、皆がささげたものを共有にして、お互いに助け合っていたわけですが、ここにきて少し不協和音が出てきたということが最初に書かれています。それが1節に書かれている問題です。
 夫に先立たれた婦人は、収入を得るすべがなく、当時はもっとも貧しい階層の人々でした。そして教会は、みんながささげたものをもってその人たちに食料を分配していたようです。ところがそこに、ギリシャ語を話すユダヤ人からヘブライ語を話すユダヤ人に対して、公平に食料が分けられていないという苦情が出たと言います。
 「ギリシャ語を話すユダヤ人」というのは、外国で生まれ育ったユダヤ人、あるいは長く外国に滞在していてエルサレムに戻ってきたユダヤ人を指します。ユダヤ人は昔からいろいろな事情で外国で暮らす人も多かったのです。そしてそれが「ギリシャ語を話すユダヤ人」と呼ばれているのは、当時のローマ世界の共通語がギリシャ語だったからです。それで母国語であるヘブライ語よりも、ギリシャ語のほうが流暢に話すことができるというユダヤ人です。いっぽう「ヘブライ語を話すユダヤ人」とは、ユダヤで生まれ育ったユダヤ人のことです。
 そこにやもめへの食料などの分配のことで不公平があるという。これが意図的に不平等にしているとは考えられませんから、おそらくは何かの手違いでそのような問題が発生したものと思われます。信徒の人数が増えてくると、なかなか行き届かない点も出てくるものです。それで教会のリーダーである使徒たちは、それらの仕事の役割分担をしたというのが今日の前半の箇所です。
 私も同じような経験をしています。最初の任地である輪島教会では、陪餐会員が10数名という小さな教会でしたので、教会学校校長でも何でも牧師が一人ですることができたのですが、逗子教会ほどの人数になりますとそうはいきません。奉仕を分担しないと、把握できなくなってしまうことになります。

     神の言葉の任務

 そこで12人、すなわち使徒たちは教会員を集めて、「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない」と言ったと書かれています。これは、やもめたちの食事の世話、手配をすることがどうでもよい軽い任務だというのではありません。そうではなく、使徒たちには使徒たちが主から与えられた任務がある、それが「神の言葉」の任務であるということです。使徒たちがなすべき第一のことは、みことばの任務。それがおろそかにされてはならない、ということです。
 神の言葉の任務とは、預言、すなわち神の言葉を会衆に取り次ぐ務めです。今日でいえば説教に相当すると言えるでしょう。それは決して簡単なことではありません。神の言葉を聞くには、全力を傾注しなければならないのです。しかしそれはたいへん地味なことであり、目立たないことであります。
 ときどき、教会のことをご存じない方から聞かれることがあります。「牧師さんは普段なにをしてらっしゃるんですか?」と。確かにこれは世間の人から見たら不思議かもしれません。お坊さんはどうかというと、けっこうしょっちゅうお葬式や法事をしている印象があります。そうではないときも、たとえば月命日になると檀家を回ってお経を上げるということは、北陸ではふつうに見られた光景です。しかし牧師は何をしているかというと、どうやら日曜日には礼拝というものをしているらしいが、そのほかの日は何をしているのかよくわからないというのはもっともなことでしょう。それで輪島にいるときには、私は輪島の出身ではありませんのに、子供が通っていた小学校のPTAの副会長をやらされた、いや、させていただいたことがあります。暇そうに見えたんでしょうね。ちなみに会長は天理教の教会長さんでした。お坊さん以外の宗教者というのは暇そうに見えるらしいのです。
 もっとも、能登のようなところでは、伝道のためには暇そうに見えたほうがよいとも言えます。「教会の牧師が暇そうにしているから、一つ話でも聞きに行くか」とでも思ってくれればいいな、と考えたことがあります。しかし、説教の準備となりますと、教会が大きかろうが小さかろうが関係ありません。それは自分の言いたいことを言うのではなく、神さまのおっしゃりたいことを語るものだからです。
 使徒たちは、神の言葉を聞き取る時間を十分確保するために、やもめへの食事の配給などに関する務めをほかの者に任せることにしたのです。「私たちは祈りと御言葉の奉仕に専念する」と言っていますが、祈りは神の言葉を聞き取るために欠くことのできない時間です。

     7人を選出

 今日読んだ旧約聖書では、モーセの例が記されています。出エジプトの指導者であるモーセは、荒れ野の中でイスラエルの民のもめ事を一人で処理していました。そこに、モーセの奥さんであるチッポラのお父さんがミディアンの地からやってきた。そしてモーセ一人の前に、たくさんの人々が列を作って裁判のために並んでいるのを見て、アドバイスをしたのです。あなた一人で裁判を処理していたら身が持たないし、人々のほうも疲れ果ててしまう。そうして小さなもめ事はモーセの代わりに裁く人を立てて処理するようにアドバイスしました。考えてみれば当たり前の話ですが、モーセ本人も多くの人の裁きを朝から晩まで一生懸命していると、何か仕事をしているような気になって、なかなか気がつかなかった。しかし裁判を待っている人から見たら、遅々として進まないことに、ないがしろにされているように思われる、という状態です。
 初代教会の使徒たちは、7人を選んでその人々の上に手を置きました。手を置くというのは、このような場合、手を置いた人を通して相手に神の賜物や力、あるいは祝福が与えられることを意味します。
 そうすると、この7人は、やもめたちの食事の世話をするためだけに選ばれたのか、という問題が生じます。それだけのためならば、なにも使徒たちが手を置く必要がないように思われます。そしてこのあとの使徒言行録の記録を見ると、彼らが食事の世話をするためだけに立てられたのではないことが分かります。たとえばステファノは、本日の聖書個所の後半を見ると分かるように、イエス・キリストのことを宣べ伝えています。そして、使徒たちが以前捕らえられたのと同じように捕らえられています。また、フィリポもイエス・キリストの伝道に出かけている。
 そうしてみると、使徒たちがこの7人に手を置いたのは、使徒たちがしていたのと同じ伝道の務めにつかせるためであった、そのために聖霊の賜物が与えられるように、彼らの上に手を置いた、と言うことができます。

     ステファノ

 さて、そのステファノのことが8節以降に書かれています。エルサレムには、多くの会堂があったそうです。会堂とは、キリスト教で言えば教会堂のようなものです。そしてこの多くのユダヤ人会堂は、町内ごとにあったばかりではなく、出身地別、また階層別に集まる会堂があったようです。そこに出てくる、「解放された奴隷の会堂」というはそれです。その会堂は、奴隷の身分から解放された人たちが中心になって集まる会堂であったようです。そしてその会堂には、キレネとアレクサンドリア、キリキア州とアジア州出身の人々が集まっていた。
 ステファノもこの会堂に所属していたかもしれません。すなわち、ステファノも外国出身のユダヤ人であったかもしれないのです。当時はまだキリスト信徒も、ユダヤ教の一員でした。キリスト教がユダヤ教とは違う宗教であるとはまだ考えられていなかった。ですからステファノもユダヤ教の会堂に所属していたと考えられます。しかし、そのステファノが、自分が所属する会堂でイエス・キリストのことを語った時、意見が対立することとなった。そして訴えられることとなりました。それはいったいなぜか。

     キリスト教へ

 ここまでの教会は、キリスト信徒の家に集まりましたが、エルサレムの神殿にも集まって神を礼拝していました。キリスト教がキリスト教という独立した宗教であるという認識は、まだなかった。いや、むしろユダヤ教の正典である旧約聖書が預言しているメシア(キリスト)とは、イエスさまのことであると信じていました。すなわち、イエスさまを信じることは、旧約聖書を正しく信じることであると信じていました。
 しかし、イエスはメシアではない、十字架にかかった者などメシアであるはずがない、復活などしたはずがない‥‥そう言ってかたくなにイエスさまを拒絶する人々。その人たちが、ステファノを捕らえて、最高法院に訴えたのです。そしてその訴えの理由が、偽証であったと書かれています。その偽証の内容が、13〜14節に記されています。
 これは全くのデタラメな偽証でしょうか。たしかにステファノが言ったことを誇張したではありましょう。しかし全くデタラメな告発かと言えば、そうとも言えない面があります。彼らは、ステファノが「ナザレのイエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう」と言ったと言って訴え出ました。「この場所」というのはエルサレムの神殿のことです。
 しかし、イエスさまが来られた以上、それまでと同じでよいかと言われれば、そうではないはずです。たとえば、エルサレムの神殿では、神さまに対しての罪を赦してもらうために、羊などの動物をいけにえとして祭壇に捧げて神を礼拝していました。しかし、今やイエスさまが、私たちの罪を償って赦すために十字架にかかってくださったのですから、もう羊を祭壇にいけにえとして献げなくて良いはずです。動物をいけにえとして捧げなくても、イエスさまが私たちと神さまを取り持ってくださるようになったのですから、もう祭壇も、もっと言えばエルサレムの神殿も、実は必要ではなくなった‥‥。ステファノの言葉を聞いていた、〃会堂に属するユダヤ人たちは、そういうことを察したのではなかったか。それで、これは今までの習慣を変えることだと怒って、ステファノを訴えたのです。
 しかし実は、イエスさまが来られたことによって、モーセの律法も、エルサレムの神殿も、その役割が終わったということは言えるのです。
 これは私たち日本人にとってはどうでしょうか。神棚はどうか。イエスさまが来られたことによって、穢れは清まり、祈り願いはイエスさまが神さまに取りなしてくださいます。イエスさまは悪霊も追放されます。そのイエスさまを信じるならば、もはや神棚は要らなくなります。
 こうしてやはり私たち日本人にとっても、イエス・キリストが来られたことによって、そしてそのイエスさまを信じることによって、神棚の目的と仏壇の目的が達成されてしまうのです。だからそれらのものは不要となる。
 いや、さらに、もう自分はクリスチャンですという人でも、イエスさまを信じる人は常に新しいはずです。「イエス・キリストを信じても、こんなものさ」と思っていた人が、「イエス・キリストを信じることには、こんなすばらしいことがあったのか!」と、新しいキリストの恵みを発見して、感謝と喜びに満たされることができます。そういう新しさが、キリストを信じることには常に隠されています。今年度、主の新しい恵みを見させていただきたいと思います。

(2016年4月3日)



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