礼拝説教 2016年3月13日 主日礼拝

「順風と逆風」
 聖書 使徒言行録5章27〜42  (旧約 創世記5:20)

27 彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。
28 「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」
29 ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。
30わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。
31 神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。
32 わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証しておられます。」
33 これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。
34 ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、
35 それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。
36 以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。
37 その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。
38 そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、
39 神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、
40 使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。
41 それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、
42 毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。




 ただ今は、聖歌397番をご一緒にうたいました。前にもご紹介しましたように、この聖歌は、関東大震災の時に作られた歌です。東日本大震災から5年がたちましたが、引き続き被災地に主の恵みと導きがあるように祈って参りましょう。

     成長する教会と迫害

 教会に対する迫害が始まったところを読んでいます。キリスト教の歴史を見ますと、キリスト信徒が少ないうちは問題にならないのですが、増えていくと無視できなくなって迫害が始まるという道をたどっていきます。
今読んでいる個所では、ユダヤ教による迫害が始まったところです。ユダヤ人の内部において、次第にキリスト信徒が多くなってきた。それでユダヤ教当局としては無視できなくなったのです。そしてやがてキリスト教会は、ローマ帝国の中に広がっていきます。これも最初のうちはキリスト信徒の数が少なく、したがって社会に与える影響も小さいので問題とされなかったわけですが、次第に人数が増えてくると無視できなくなって、ローマ皇帝による迫害が始まることになります。
 日本においても同じでした。戦国時代にカトリック教会が日本で伝道を開始した当初は問題とされることはなかった。しかしそれがあっという間に、大名をはじめとした武士や一般庶民の中で信じる人が増えていきました。そうするとこれは次第に無視できなくなっていきました。そして豊臣政権によって迫害が始まり、徳川政権になるに至って、本格的な迫害となりました。
 なぜ迫害が始まるのか? それはたとえば、先の戦争中の事情を知ると分かりやすいと思います。太平洋戦争中、教会は迫害とまでは行かなくても、敵性国家の宗教ということで、監視下に置かれました。そして当時の牧師が言っていたことですが、たまに牧師が特別高等警察の取り調べを受けることがある。そのときに、「天皇とキリストとどっちが偉いか?」と聞かれたということでした。この質問がよく表していると思います。すなわち国の指導者と、キリストは、どちらが上だと信じているのか、ということです。それはとりわけ、独裁者、あるいは独裁的な政権にとっては、とても関心のあることに違いありません。独裁者よりも、キリストのほうが上であるということになると、これは自分が一番偉いと思っている独裁者にとっては面白くないわけです。
 ユダヤ議会である最高法院において、29節で使徒たちが「人間に従うよりも神に従わなくてはなりません」と述べています。先にユダヤ議会である最高法院は、使徒たちに対して伝道禁止命令を出していました。そしてそれを守らないので、使徒たちを捕らえて牢屋に入れました。しかしそこに主は天使を遣わして、牢から使徒たちを出して言いました。「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」(20節)。
 最高法院は、イエスさまのことを語るなと命じましたが、主は天使を通して「語れ」とお命じになった。だから使徒たちは、最高法院の人間に従うよりも、主なる神に従ったのです。すなわちこれは、あなたの真の上司はだれなのか?王様、あるいは殿様なのか? それとも主なる神さまなのか?という問題です。ここをめぐって迫害が起きるのです。

     議会の困惑

 さて、前回読みましたように、捕らえて牢屋に入れたはずの使徒たちが、神殿の境内でイエスの福音を人々に語っている。これには最高法院の人々も驚かされたことでしょう。神さまが介入なさったのです。神さまが天使を送って、牢屋の扉を開け、使徒たちを再び神殿の境内に立たせた。
 しかし、最高法院の議員たちは、神さまの奇跡であることとは思わない。再び捕らえて議会に立たせます。教会のリーダーである使徒たちをどう処分するか。これは最高法院にとって、非常に頭の痛い問題だったでしょう。なぜなら26節に書かれているように、多くの民衆がイエスさまを信じるようになり、また教会を支持していたからです。その民衆の反発を招きかねません。
 こうしてみると、使徒たちは「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と言っているように、神に従うことを決めている。いっぽう、このユダヤの最高法院のメンバーは、みな同時にユダヤ人の宗教指導者たちでもあります。宗教指導者たちですから、本当を言えばこの人たちこそ神に従うべき人たちのはずです。しかしこの人たちは、神ではなく、民衆に石を投げつけられることを、すなわち人間を恐れている。どちらが神のしもべなのか、これではっきり分かります。

     復活の証し

 最高法院は、使徒たちを尋問しました。「あの男(イエス)の血を流した責任を我々に負わせようとしている」と!
 これは、イエスさまを十字架につけて殺した罪におびえている言葉でしょうか? それとも、使徒たちが人々に宣べ伝えていることが、自分たち最高法院の罪を糾弾しているように聞こえたのでしょうか?
 使徒たちは、イエスさまを十字架につける決定を下したこの最高法院の罪を追求しているのでしょうか?‥‥そうではありません。罪を追及し暴いているのではなく、逆に罪の赦しを宣べ伝えているのです。31節で語られているとおりです。そして罪の赦しの証拠がイエスさまの復活です。イエスさまに愛され弟子とされながら、イエスさまを見捨てて裏切った。その弟子たちの罪が赦されたことを、復活のイエスさまが明らかにして下さったように、復活は罪の赦しの証拠であり、福音です。そのイエスさまの復活、よみがえりを信じるのか信じないのか。信じるところに罪の赦しがあります。
 それにしても、ユダヤ人のトップである大祭司をはじめとして、居並ぶ議員たちを前に、使徒たちの言論は実に堂々としています。少しもたじろぐことがありません。これがあの使徒たちか?と思えます。ゲッセマネの園でイエスさまが捕らえられた時に、イエスさまを見捨ててクモの子を散らすように逃げていった使徒たち。イエスさまを否認したペトロ。そして、ある家に閉じこもって隠れていた使徒たち。
 その使徒たちが、今や、イエスさまに死刑判決を下したこの最高法院で、このように堂々たる演説をしているのです。このことを見ただけでも、弟子たちに何か劇的なことがあったことが分かります。何かがあって、あの弱い弟子たちが変えられたのです。つまりそれは、十字架で死んだイエスさまがよみがえられたこと、復活されたことを、この弟子たちの姿が証しをしています。復活があり、聖霊降臨があって、弟子たちは変えられた。この使徒たちの姿が、イエスの復活と聖霊降臨を証ししているのです!

     ガマリエル

 使徒たちは、イエスさまの復活を語りました。それはすなわち、イエスさまこそ神が遣わされたメシア=キリストであり、救い主であることを宣言しているのです。この最高法院が死刑に定めたイエスが、神が遣わした救い主であることを。ここに至って、最高法院の怒りは頂点に達しました。もはや多くの民衆が使徒たちを支持していることなど忘れて、怒りのあまり彼らは使徒たちを殺そうと考えました。おそらくこれは、使徒たちを石打の刑にしようとしたということだと思います。
 もはや使徒たちの運命も決まったかに思われたこの時、思わぬところから意見が表明されました。それがガマリエルという人の発言です。この人は「民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属する」と書かれています。実際この人は、ユダヤ教最後の聖者と呼ばれるほど人々から尊敬されていた学者だったそうです。そしてまだ名前は出てきませんが、パウロもこの人の門下でした。ガマリエルはファリサイ派に属していました。最高法院ではサドカイ派が与党でした。サドカイ派は祭司や貴族が属していました。一方ファリサイ派は庶民が主でした。しかしガマリエルは、サドカイ派も一目置く人でありました。
 ガマリエルは、先ほど使徒たちが言った言葉、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」という言葉に触発されたのかもしれません。このイエスを信じる使徒たちが神に従っているというのなら、神がどうなさるかを見ようと、そういう提案をしたのです。今までの例を挙げ、イエスとその信奉者たちが、神から出たのではなく人間から出たものであるならば、放っておいても自滅するに違いない。だから放っておけと。そしてもし彼らが神から出たものであるならば、神に逆らうことになってしまうと。
 神から出たものではないのなら自滅する。‥‥これは私たちにとっても、教訓となり、あるいはまた慰めともなります。私は、以前ある時、教団の中において発言したことが歪曲されて広まったことがありました。だれがそのように中傷して言いだしたのかも分からない。考えれば考えるほど腹が立ちました。もし私が神さまイエスさまを信じていなかったら、怒りが収まらなかったことでしょう。しかし幸い神さまとイエスさまを信じていたので、それ以上腹を立てずにすみました。それらの悪口が、神から出たものではないので、神さまが正しく裁いて下さるだろうと。それは本当に慰めです。
 また逆に、私たち教会がすることが、もし神さまから出たものではないならば、失敗するでしょう。これは教訓となります。

     神の介入

 ガマリエルの発言は、予想もしていなかった助けとなりました。しかしそれは単なる偶然と見てはなりません。ガマリエルの背後に、神の働きがあったのです。そのようには書かれていない。またガマリエル自身も気がついていない。気がついていないけれども、神さまがガマリエルを用いて、そのように介入された。使徒たちを助けるように。まだ殉教する時ではないと。神さまの御計画では。やがて使徒たちの多くは殉教していきます。しかし、今この時はまだ殉教する時ではない。だから神が介入され、ガマリエルの口を通して使徒たちが殺されるのを止めたのです。だからそういう神の働きをここに見ることができます。神は決して沈黙されているのではないことが分かります。先には、天使を遣わして牢屋から連れ出し、今日の場面ではガマリエルという人を使って働かれているのです。
 そして神は、私たちの毎日の生活においても、確かに目に見えない形で介入して下さるに違いないのです。
 使徒たちは、鞭で打たれて釈放されました。この鞭は、旧約聖書の申命記に書かれている、四十に一つ足りない鞭でしょう。それほど鞭で打たれた。だから使徒たちの体は傷がつき、腫れ上がったことでしょう。痛かったことでしょう。しかし使徒たちは、「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜」んだ。
 この使徒たちの姿、この変わりようを見る時、あらためて、確かに彼らは復活のイエスさまに出会い、共に過ごしたことを確信せざるを得ません。そしてあらためて聖霊の存在を信じられるのです。そのイエスさまが、聖霊によって私たちと共にいて下さる。私たちも神の働きを信じて、歩むことができるのです。

(2016年3月13日)



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