礼拝説教 2016年2月28日 主日礼拝

「命の言葉」
 聖書 使徒言行録5章12〜26  (旧約 アモス書8:11)

12 使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、
13 ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。
14 そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。
15 人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。
16 また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。
17 そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、
18 使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。
19 ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、
20 「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。
21 これを聞いた使徒たちは、夜明けごろ境内に入って教え始めた。一方、大祭司とその仲間が集まり、最高法院、すなわちイスラエルの子らの長老会全体を召集し、使徒たちを引き出すために、人を牢に差し向けた。
22 下役たちが行ってみると、使徒たちは牢にいなかった。彼らは戻って来て報告した。
23 「牢にはしっかり鍵がかかっていたうえに、戸の前には番兵が立っていました。ところが、開けてみると、中にはだれもいませんでした。」
24 この報告を聞いた神殿守衛長と祭司長たちは、どうなることかと、使徒たちのことで思い惑った。
25 そのとき、人が来て、「御覧ください。あなたがたが牢に入れた者たちが、境内にいて民衆に教えています」と告げた。
26 そこで、守衛長は下役を率いて出て行き、使徒たちを引き立てて来た。しかし、民衆に石を投げつけられるのを恐れて、手荒なことはしなかった。




     使徒たちを通しての奇跡

 使徒言行録5章12節に「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間でおこなわれた」と記されています。主が、使徒たちを通して人々の間で多くの奇跡をおこなわれた。それはこの個所からさかのぼって、4:24〜31で教会が一致して祈った、その祈りに対する神さまの答えであると言えます。とくに4:29〜30です。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」その教会の祈りに対して、主なる神が聞き入れて下さり、このような奇跡が現れたということです。
 その前に、ユダヤの最高法院によって、教会に対して宣教禁止命令が出されていました。イエスの名によって話したり教えたりしてはならないと命じられたのです。しかし、主なる神は、その教会の祈りにお答えになることによって、引き続きイエス・キリストの名によって語り、奇跡をおこなって、伝道するように励まされたのです。
 その後、アナニヤとサフィラの事件が起こりました。それはたいへん驚くべき、神の裁きでした。しかしその事件を通して、教会は逆に強められた。そのことが今日の前半の個所から分かります。ここで記録されている奇跡は、尋常ではないレベルだと言ってよいでしょう。ペトロが道を通りかかる時、せめてその影だけでも病人にかかるようにする人々。そして多くの病人や穢れた霊に悩まされている人々が、周りの町からもつれてこられ、みな癒やされたという。このような「みな癒やされた」というような病の癒やし、奇跡は、イエスさまの時以来であり、また教会の長い歴史の中でも、ほとんどこの時だけといってもよいでしょう。
 それは繰り返しになりますが、教会の祈りが聞かれているということであり、また主が力強く御心を現していることだと言えるでしょう。最高法院は伝道を禁止したけれども、主は、それを一蹴なさり、人間の企てをあざ笑うかのように、圧倒的な不思議なしるしをなさることによって神の御心を示されたと言えます。イエス・キリストの福音を宣べ伝えよ、と。

     加わらないが

 さて、その中で、13節と14節が矛盾しているように読めないでしょうか。13節では、「他の者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった」と書き、14節では「多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった」と書いているからです。一方では、だれ一人仲間に加わろうとしなかったと書き、一方では主を信じる人が増えていったと書いている。いったいどっちなのか?
 これはこういうことだと思います。すなわち、「仲間に加わろうとはしなかった」というのは、教会のメンバーとなることはしなかった。すなわち、このとき洗礼を受けて教会に加わる人はいなかった。しかし、主イエス・キリストを信じる人そのものは増えていった。
 日本のクリスチャンは、人口比わずか1%だとよく言われます。しかし何年か前、ある調査で実は日本のクリスチャンは人口比6%だというものがありました。長い間1%だと言われ続けてきて、急に6%に増えたのか?いったいこれはどういうことか?と思いました。しかしどうやら、6%というのは、自分はキリスト教だと言う人の割合であるらしい。それに対して、1%というのは、洗礼を受けた人の割合です。
 日本人の中には、洗礼を受けないとクリスチャンとは言えないということを知らない人もいます。なぜなら、仏教徒となる、あるいは神道の氏子となるために洗礼が必要なわけではないし、何か特別な儀式を受ける必要もないからです。自分はキリスト教が好きだと思えばクリスチャンだという人もいるようです。だから教会には行かないけれども、自分はクリスチャンだと思っている人がいる。
 この使徒言行録のときは、そういうことではないかもしれませんが、多くの人々がイエス・キリストを信じるに至った。しかし教会に加わるには至らなかった。奇跡を体験し、あるいは奇跡を見てイエスがキリストであることを信じた。しかし洗礼を受けて教会に加わるには二の足を踏んでいる。そういう状況であったということになります。
 しかしこれは本来の主の御心ではありません。マタイによる福音書16章で、イエスさまのことを神の子でありメシア(キリスト)であると信じて告白したペトロに対して、とイエスさまはおっしゃいました。そして「天の国の鍵を授ける」とおっしゃいました。また、たとえばエフェソの信徒への手紙1:23には「教会はキリストの体」と書かれています。イエス・キリストは、信じて教会につながることへと招いておられます。

     逮捕

 このころ、教会の信徒たちは、エルサレム神殿のソロモンの回廊に集まっていました。ソロモンの回廊というのは、エルサレム神殿の周りを囲む壁のすぐ内側にあり、異邦人の庭と呼ばれる境内にありました。そこはだれでも入ることができ、集まることができた場所です。そこで教会は集会を持っていた。先に、最高法院は教会に対して、イエス・キリストの名によって語ることはまかりならんと命令を出していました。しかしそれを完全に無視している。しかも多くの人々がイエス・キリストを信じるようになっていく。‥‥
 これを見ていた神殿の管理者である、大祭司とその仲間、そしてサドカイ派(祭司が多く属していた)は「ねたみに燃えて」使徒たちを捕らえたのです。そして牢に入れた。なんだかんだというけれども、結局キリスト教会を迫害し始めた理由は「ねたみ」であるという。本来は大祭司や祭司らが、人々の尊敬を受けるべき存在でした。しかし今やキリストを宣べ伝えるキリスト者たちが尊敬を受けている。それへのねたみでしょう。ねたみというのは根深い罪です。言っていること、していることが正しいかどうかではない。ねたみ。これはもう話しにならない問題です。
 そうして彼らは教会のリーダーである使徒たちを捕らえて投獄しました。ついに迫害が始まったのです。ここでは「使徒たち」と書かれていて、だれが投獄されたかは書かれていません。もしかしたら12使徒全員が牢に入れられたのかもしれません。使徒たちの運命やいかに、というところです。ところが真夜中に、主が御使いを遣わして、牢の戸を開いて使徒たちを外に連れ出した。そうして神殿の境内で、みことばを語るように命じます。神さまが介入なさったのです。

     命の言葉

 その主の天使が、使徒たちに「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と語っています。
 「命の言葉」とは何でしょうか? これまでの使徒たちが人々に語った言葉を振り返ってみると分かってきます。するとペンテコステの聖霊降臨のあと、集まってきた群衆に向かってペトロが語った説教があります。そして3章で、神殿の「美しい門」のところで起こった奇跡を見て集まってきた人々に対してペトロが語った説教があります。そして、4章で、ペトロとヨハネが捕らえられた時、その最高法院にてペトロが語った言葉があります。それらを見ると、そこで語られているのが命の言葉であると言えます。
 するとそれらで語られていることは、イエスが旧約聖書で預言されたメシア=キリストであるということ、そして十字架に張り付けにされて死んだイエスは復活したということが中心となっていることが分かります。そして人々の前では、ペトロは悔い改めるように勧めています。まとめて言えば‥‥イエスこそ神が約束なさっていた救い主キリストである、そのイエスは十字架に張り付けにされて死んだがよみがえられた。だから悔い改めてイエス・キリストを信じなさい。‥‥それがここで言う命の言葉です。
 これは突き詰めて言えば、命の言葉とはイエスさま御自身のことであるとも言えるでしょう。このイエスさまを信じて生きる。イエスさまと共に生きる。このことを人々に伝えるために、神は導かれるのです。

     御言葉の力

 ホテルや学校に聖書の配布の働きをしているギデオン協会の機関紙の昨年12月号に、福岡女学院大学准教授で牧師の徐亦猛(じょ・いもん)さんという中国出身の方の証しが書かれていました。徐先生は中国の上海出身で、1994年に日本に来て、神戸YMCA学院専門学校に留学したそうです。しかし日本は物価が高い。それでアルバイトを始めた。しかしそうすると勉強の時間がなくなってしまう。そんな悩みの中で、1月にあの阪神淡路大震災が起こりました。徐さんは、神戸市長田区のアパートに住んでいましたが、全焼してしまった。逃げる時に、慌てて一つの鞄を持ち出しました。開けてみたら、通っていた神戸YMCAで配られたギデオン協会の聖書が一冊入っているだけだったそうです。だから、この一冊の聖書とたった一つの鞄だけが自分の持ち物として残ったそうです。
 子どもの頃から無神論の教育を受けて育った。しかしこれからどう生きるのか、避難所で聖書を開いて読み始めたそうです。そのとき、マタイ福音書6:26を読んで非常に感銘を受けたそうです。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」
 そして「一度その天の父なる神を信じてみよう。その神がこの避難している小さな私を養い、私の歩むべき道、一歩一歩を備えて下さると信じてみよう」と決心したそうです。そして震災のあと、教会に通い、洗礼を受け、ついには自分でも信じられないことだけれど、教会の牧師を10年間務めることになったそうです。
 まさに命の言葉です。それは過去の歴史的な名言といったようなものではなく、今も生きておられるキリストによって保証されている生きた言葉です。だから力がある。神の力が御言葉を通して働く。そして人を生かし、命を与える。さらには永遠の命へと導いて下さる。そういう命の言葉を、私たちもいただいています。

(2016年2月28日)



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