礼拝説教 2016年2月14日 主日礼拝

「欺きの代償」
 聖書 使徒言行録4章32〜5章11  (旧約 イザヤ書14:24)

4:32 信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。
33 使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。
34 信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、
35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。
36 たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ・・「慰めの子」という意味・・と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、
37 持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた
5:1 ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、
2 妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。
3 するとペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。
4 "売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
5 この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。
6 若者たちが立ち上がって死体を包み、運び出して葬った。
7 それから三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。
8 ペトロは彼女に話しかけた。「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。言いなさい。」彼女は、「はい、その値段です」と言った。
9 ペトロは言った。「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。」
10 すると、彼女はたちまちペトロの足もとに倒れ、息が絶えた。青年たちは入って来て、彼女の死んでいるのを見ると、運び出し、夫のそばに葬った。
11 教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。




 本日の聖書個所は、対照的な二つの人々の姿が書かれています。一人はバルナバという人であり、それに代表される人々です。そしてもう一つは、アナニヤとサフィラ夫妻です。

     助け合う共同体

 32節の前に見出しがついていて、「持ち物を共有する」と書かれていますが、これは必ずしも当たっていません。新共同訳聖書の見出しは、もともと聖書本文にはないもので、ここを翻訳した聖書学者がつけたものですから当たっているとは限らないのです。むしろ「持ち物を分け合う」と言った方が誤解がないでしょう。「共有する」というギリシャ語には、「分け合う」という意味があり、そちらの方がここでは適切だと思います。
 ここに書かれている教会の姿を見て、一種の共産社会が実現していると言う方もおられますが、それも正確ではないでしょう。共産主義制度というのは、不動産などの私有財産および生産手段が共有され、生産物が必要に応じて配分されるというものですが、この時の教会の姿を見ると私有財産を否定しているわけではありません。自分の持ち物は自分の持ち物としてある。しかし自分の財産を、それぞれがそれぞれの意思に従って、教会のために献げているというものです。「一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく」という32節の言葉も、それぞれが自分の持ち物は神さまから与えられた預かり物であるという信仰の言葉であると考えたほうがよいでしょう。
 34節には「一人も貧しい人がいなかった」と書かれていますが、これはみんな豊かだったという意味ではないでしょう。当時は社会全体からすると、現代よりもずっと貧しい時代でした。多くの庶民は、その日暮らしのような生活をしていました。そのような時代において、「貧しい」という場合は、その日暮らしもできないような貧しさ、食べる物すら事欠くような貧しさであると考えられるからです。
 しかし、そのような食べる物すら無いような貧しい人は一人もいなかった。なぜならそれは、多く持つ者がそのような貧しい人のために自分の財産を提供したからです。したがって、ここはむしろ、互いに「助け合っていた」ということです。
 教会には、収入のない人々がいました。教会の指導者である使徒たちがそうです。また、ガリラヤからイエスさまに従ってきていた多くの弟子たちがいました。前にも申し上げたように、それらの人々は、このエルサレムでは収入の道がありません。従って、みんなが献金してそれらの人々の生活を支えたのです。また、本当に貧しい人々もいました。その貧しい人々のためにも、教会は助け合って、生きることができるようにしたということです。
 そのようにして皆の献げ物によって教会が支えられていたということが書かれているのです。そして、財産のある人がその財産を売って、そのお金を必要に応じて分配するということがおこなわれていた。その典型例として、バルナバという人のことが書かれています。彼は、自分の畑を売ってその代金を使徒たちの足もとに置きました。
 なかなかできないことであります。しかし、教会はそのような神さまへの献げ物によって保たれてきました。
 先週、神奈川神学研究会が新横浜教会で開かれました。私は新横浜教会に行ったのは初めてでしたが、新横浜教会の河合牧師が教会がどうやってできたかということを説明してくれました。それによると、もともとその土地は養鶏場だったそうです。その養鶏場を経営していた齋藤虎松というクリスチャンが、教会を作りたいということでその土地を献げたことによって建ったのだそうです。そして今から30年前の1986年に新横浜教会ができたそうです。
 聖書のこの時は、バルナバは自分の畑を売ってそれを教会に献げました。そして他にも、持っている者は自発的にそれを売って、教会に献げ、使徒たちや貧しい人たちを支えた。そういうことが起こったと書かれています。

     聖霊のわざ

 ここに記されているのと同じようなことが、少し前にも出てきました。それは2章の最後の所で、ペンテコステの聖霊降臨のあとのできごとです。そのときのことと、きょうの個所と、同じようなことが書かれています。
 この二つに共通することがあります。それは、ペンテコステの時の2章4節に「一同は聖霊に満たされ」と書かれています。そして今日の4章31節では「みな、聖霊に満たされて」と書かれています。すなわち、教会において皆が一つの心になり、持ち物を分け合ったということが記されているこの二つの個所は、いずれも聖霊に満たされた結果として書かれているのです!それは聖霊の働き、聖霊のわざであると!
 すなわち、なにか律法に強制されてイヤイヤ財産を提供したのではない。聖霊が働いた結果、人々は自発的にそのようにしたということなのです!聖霊はそういう働きもするものであることが分かります。

     伝道という目的のために

 また、今日の32節で「心も思いも一つにし」と書かれています。どのような心、どのような思いで一つになったのでしょうか。
 ここに至った出来事を振り返ってみますと、ペトロとヨハネがエルサレムの神殿に祈るために入ったとき、そこの「美しい門」と呼ばれる門の所に座っていた物乞いの男から始まっていました。その人は生まれつき足が不自由で、歩くことができなかった。しかし、ペトロを通して働いた主の奇跡によって、彼は歩けるようになりました。それで多くの人々がイエス・キリストを信じるようになりました。そのことを苦々しく思った、ユダヤの最高法院はペトロとヨハネを捕らえ、イエス・キリストの名によって語らないように、すなわち伝道しないように命令しました。しかし教会は、そのような人間による禁止命令よりも神に従うことを選びました。世界の人々を救うためにという、主イエス・キリストのみこころに従うことを決めたのです。
 きょうの個所は、そのことに続けて書かれています。すなわち、教会が一つの心、一つの思いになったというとき、それはイエス・キリストの福音を宣べ伝えていく、伝道していくという点で、心も思いも一つになったということです。人間、同じ目標を持ったときに一つとなれるものです。教会もそうです。イエスさまによって与えられた、キリストの復活の証人として福音を宣べ伝えていくという目標で一致したのです。
 しかし、教会がこの目標を失うと、トラブルや内紛が起きてきます。それゆえ、教会は主イエスから与えられたこの目標を失ってはなりません。

     アナニヤとサフィラ

 さて、5章に入って、ここにはもう一方の対極の人が描かれています。それがアナニヤとサフィラです。それは衝撃的な事件となります。二人の死という結末を迎える。驚きです。11節に、教会全体とこれを聞いた人々は皆非常に恐れたと書かれていますが、私たちも驚き恐れます。これは神さまの裁きに違いありません。しかし、それにしても死という代償を払うことになるという、こんなきびしい裁きがあるのだろうかと思います。まるで旧約聖書であるかのようです。新約聖書となって、イエスさまの十字架があって、罪が赦されることとなった。しかしこの結末はきびしい裁きです。いったいなぜこのようなきびしい神の裁きが下ったのか?
 よく読めば分かることですが、アナニヤとサフィラが裁かれたのは、自分たちの土地を売った代金を全部献げなかったからではありません。彼らはウソを言ったのです。自分たちの土地を売った代金を全部献げたかのように、ウソを言った。それがペトロが言っているように、聖霊を欺き、神を欺いたということなのです。
 献げなくても良かったのです。ペトロが言っているように、土地を売らなければそれでも良かった。売っても、一部を献金しようが全部を献金しようが、それはアナニヤの自由です。何の問題もありません。問題は売ったお金をすべて教会に献げたかのようにウソを言ったことです。それが神を欺いたということです。
 アナニヤとサフィラは、なぜそんなウソをついたのでしょうか? バルナバが自分の土地を売った代金をすべて献金したからでしょうか? それを見て、競争心が芽生えたのでしょうか? あるいは見栄からでしょうか? 自分たちが賞賛されたいからでしょうか?‥‥そのような動機は、神の方を向いていません。自分の名誉のためです。
 3節でペトロは、「あなたはサタンに心を奪われ」と言っています。これは原文をそのまま訳すと、「あなたの心にサタンが満ちた」となります。これは4章31節と対照的ですね。そちらでは「聖霊に満たされて」となっています。しかしここでは、「サタンが満ちた」と書かれている。聖霊が満ちるのと、サタンが満ちるのとでは正反対です。
 サタンとは悪魔のことです。イエスさまが世に出る前に荒野で40日間の断食をなさり、サタンの誘惑を受けました。そのようにサタンは、神から離れさせ信仰を破壊しようとして、たくみに誘導していきます。アナニヤとサフィラは完全にサタンの誘惑にはまってしまい、その道具となってしまった。そして教会を欺いた。それはすなわち聖霊を欺いたことであり、神を欺いたこととなった。その結末が神の裁きであった。

     教訓

 しかし、死というきびしい裁きが下るというのは、新約聖書ではここだけにしか書かれていません。あまりにもきびしい裁きです。いったいなぜ、という疑問は消えることがないように思われます。しかし少なくとも、このできごとは教会にとって大きな教訓となったと言うことはできます。神さまを欺くことはできない、ということです。
 そして逆に、我々がこのように生かされている。それは私たちの罪がイエスさまによって赦されたということであり、その罪が赦されることの尊さ、ありがたさが対照的に浮かび上がってきます。
 また今日の前半の個所ですが、聖霊に満たされイエス・キリストの福音を宣べ伝えていくという伝道の共通の目標を持ったとき、聖霊はすばらしいことを教会に起こして下さるということです。聖霊に満たされると自分の財産に固執しなくなる。聖霊に満たされると、金銀財産など、この世の物に代えがたい喜びと平安が与えら得ることが分かります。
 実際、この私も、聖霊に満たされたということがわかった、という経験を何度かしたことがあります。それはとても口では言い表せないほどのすばらしい平安に支配されいました。天国とは、このようなところであろうと思われました。いや、たしかに天国に行ったら、そうでありましょう。天国では財産は必要ない。神さま、イエスさまがそこにおられる。それは財産などのこの世の物に代えがたい、尊いものであり、喜びであり、平安であるでしょう。
 反対に、サタンに満たされ、サタンに支配されると、神さまの前でもウソをつき、欺くほどに、疑心暗鬼となってしまう。平安がありません。そのことを教えていると思います。
 それゆえ私たちは、主の祈りを日々真剣に祈る必要があります。「我らを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ」。悪魔の誘惑から救って下さい、と。すべてをご存知で、偽る必要など無い、このありのままの罪人である私を救い、愛してくださる主を信じるのです。

(2016年2月14日)



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