礼拝説教 2016年2月7日 主日礼拝

「団結の祈り〜分水嶺に立つ教会」
 聖書 使徒言行録4章23〜31  (旧約 イザヤ書14:24)

23 さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。
24 これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。
25 あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデでの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。
26 地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアに逆らう。』
27 事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。
28 そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。
29 主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。
30 どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」
31 祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。




     危機から祈りへ

 生まれつき足が不自由で歩くことができなかった人が歩けるようになった。その奇跡によって始まったできごとの、今日は締めくくりの個所です。その奇跡を見聞きして、多くの人がイエス・キリストを信じました。しかしそれを苦々しく思ったユダヤの最高法院のメンバーたちは、ペトロとヨハネを逮捕しました。数ヶ月前にイエスさまに死刑を宣告したのがこの最高法院でした。だからそのイエスの名を宣べ伝える使徒たちをなんとか罰したかった。しかし、二人を裁こうにも彼らに該当する罪状がない。それで最高法院は、もうイエスの名によって語ってはならないと脅しました。
 しかしペトロとヨハネは屈しませんでした。3章19〜20をご覧ください。二人は、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」と答えたのです!!
この言葉を見ますと、自分たちは神に従っているのだということを言っています。人間に従うよりも、神さまに従うべきである。これはこの時二人を逮捕した最高法院の人々の多くは宗教家でもあるわけですから、その言葉については何も反論できません。さらにペトロとヨハネは、「見たことや聞いたことを話さないではいられない」と言っています。自分たちが宣べ伝えていることは、何か作り話ではない。また、何か危険な思想を宣伝しているのでもない。自分たちは、あなたがたが十字架につけたナザレのイエスを神が復活なさったという事実を語っているのである。それを話さないではいられないのだと。
 自分が見聞きした事実よりも強いものはありません。そして、生まれつき歩くことができず、「美しい門」の所で物乞いをしていた男が事実癒やされて、そこに立っている。しかも民衆はそれを見て、神をほめたたえてしまっている。こうなっては、二人に着せる罪をでっち上げるわけにもいきません。それで最高法院は、更に二人を脅して釈放せざるをえなかったのであります。
 しかし、使徒ペトロとヨハネが釈放されたことで、喜んでばかりはいられません。なぜなら、教会が初めて危機に直面しているからです。ペンテコステの聖霊降臨によって誕生した教会が、これまで順調に歩んできました。しかし、足の不自由だった人が癒やされるという奇跡によって、教会はユダヤ人の最高議会である最高法院と対立することとなりました。そしてその最高法院は、今後イエスの名によって話したり教えたりしてはならないと、禁止命令を出したのです。
 その命令を無視したらどうなるのか?‥‥教会への弾圧、迫害が始まることでしょう。教会は強制解散させられ、指導者は捕らえられて牢屋に投げ込まれる、あるいは死刑にされる可能性もあります。そういう危機を迎えたのです。一気に場面は緊張していきます。そういう場面です。

     すべてのものの上におられる方に

 この初めての大きな危機に直面して、教会はどうしたのか?
 教会はまだ誕生したばかりの小さな集団です。迫害が始まって、一気に消滅してしまうかもしれないのです。最高法院が使徒たちを脅し、禁止命令を出したことに従って、イエス・キリストの伝道をやめるのでしょうか?‥‥たしかにそういう選択肢もあります。あるいは、迫害によって殉教する人が出ないように、教会を解散するのでしょうか?‥‥それもあるでしょう。あるいは、エルサレムから逃げることにするでしょうか?‥‥
 こういう場合、こんにちの教会はどのようにするでしょうか? おそらく会議をして、あれこれと相談するのではないでしょうか。しかし最初の教会は違っていました。どうしようかと相談する前に、当然のように共に祈り始めたのです。迷うことなく、ただちに祈り始めた。このことによって私たちは、危機に際してまず何をなすべきかということを教えられます。
 「心を一つにし、神に向かって声をあげて」祈ったと記されています。そして祈りの言葉がそこに書かれています。これを共に祈ったということは、24節から書かれている言葉のとおり、みんなで唱和したということでしょうか?‥‥そうではないでしょう。ここには、そこに集まった信徒たちが口々に祈ったことの要約が書かれているか、もしくは、誰かが代表して祈り、他の人々はそれに合わせて「アーメン」「アーメン」と応答していったということだと思います。
 この祈りを見ていきたいと思います。
 @ まずこの祈りでは、「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です」と祈り始めています。
これは主なる神さまが、天地宇宙万物の創造者であることを確認している言葉です。神さまが全能者であり、すべてのものの上にあるお方であるという信仰告白です。すなわち、教会を脅しているユダヤ人の最高権力機関である最高法院のメンバーよりも、神さまのほうが上におられることを確認しています。そういう方に我々は祈り、願うということです。
 これはすばらしいことですね。また事実です。私たちが祈るときも、そのことを思い起こしたい。私たちが祈りをささげるお方は、宇宙とその中にあるすべてのものの造り主であり、全能なる神さまであるということです。神さまにはできないことはないのです。

     予言と神の手

 A 次に、25〜26節の二重カギ括弧の中の言葉、これは旧約聖書の詩編2:1〜2の引用です。「ダビデの口を通し」というのは、この詩がダビデがつくった詩であると考えられているのですが、それは聖霊がダビデの口を通して詩によって予言しているということを言っているのです。
 メシアというヘブライ語は「油を注がれた者」という意味で、神さまによって選ばれた人ということです。それがギリシャ語になるとキリストという言い方になります。この詩編では、地上の王たちがこぞってメシア=キリストに逆らうと予言しています。ちなみに、福音書もこの使徒言行録もそうですが、旧約聖書の言葉の引用がしばしば出てきます。それはつまり、旧約聖書において神さまが予言していたということ、新約聖書は旧約の予言の成就であると言うことを確認しながら進んでいるのです。
 ここでは、キリストがこの世の王や支配者によって拒絶されることは、すでに旧約聖書で予言されていることを確認しているのです。だから、今回、ユダヤ最高法院が、イエス・キリストの伝道を禁止したことも、驚くには当たらないのだと。すでに神さまはご存知であり、その迫害すらも神さまのご計画の中にあったのだと、弟子たちが理解していることが、28節を読むと分かります。人間はメシアであるイエスさまを十字架につけて葬り去ったと思った。しかしそれは、神がイエスさまを通して人間を救うというご計画に手を貸しただけであった。そういうことになります。
 ここまでが祈りの前半部分です。すべては神の御手の中にあることを確認し、その信仰を告白しています。それが神さまへの賛美となっています。

     救いのために仕えること

 そして29節からが祈りの後半部分です。そこで、自分たち教会の願いが祈られています。
 B そこでまず、思い切って大胆に御言葉を語ることを願っています。これは、ふつうに考えて、たいへん驚くべきことではないでしょうか。最高法院から脅され、キリストを宣べ伝えること、伝道を禁止されたのです。逆らえば、迫害が始まるでしょう。だから、「私たちを守って下さい」と祈りたいところです。ところが彼らは、そう祈ったのではなく、「あなたのしもべたち」すなわち自分たちが、大胆に御言葉を語ることができるようにして下さい、と祈っているのです!
 大胆に御言葉を語るとは、自分たちの考えを宣べ伝えるということではなく、聖霊によって神の言葉を語る、神の言葉を人々に伝えることです。
 C そして続いて最後に、「どうか、御手を伸ばし聖なる僕(しもべ)イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」と祈っています。病気の癒やしとしるしと不思議な業。奇跡を起こして下さいと。それは何のためかというと、イエスがキリストであることを証明するためにということになります。イエスさまが神のメシア、キリストであるという御言葉が事実であることを「しるし」と呼ばれる奇跡によって、証明される。だからそのような奇跡が、イエスの名によっておこなわれるようにして下さい、自分たちを通して、ということです。それはまさに、世界の救いのためにです。伝道のためにです。
 先日、更新伝道会の全体委員会に出席してきました。その中で、ある信徒の方が証しをされました。それは、その方のお父さんから聞いたことを話されたのです。その方のお父さんは、戦前のメソジスト教会の信徒でした。あるときお父さんは、教会で、自分たちの教会に人が増えるように祈ったそうです。するとあとから牧師に注意されたというのです。牧師が言うには、「メソジストは、そのように祈ってはいけない。日本を救って下さい、と祈りなさい」と言われたそうです。
 私は心を動かされました。私たちはともすると、自分たちのことを優先してしまいやすいのではないでしょうか。しかしこの初代教会の信徒たちは、まさに世界を救うためにイエス・キリストの名が宣べ伝えられること、それだけを祈り願っています。

     神の答え

 祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、御名、聖霊に満たされて大胆に神の言葉を語り出しました。「聖霊に満たされて」というのは、聖霊降臨のあったペンテコステのときにも書かれていました。ですから、「神の言葉を語りだした」というのは、聖霊の賜物による預言を語り出したということです。
 神さまのお答えがあったのです。神さまは様々な方法で祈りの答えを与えられますが、この時は、たいへん珍しいことですが、その場所が揺れ動いたという。これも神の答えの一つです。たいへん力強く、神さまがこの教会の祈りを良しとされた、励まされたことが伝わってきます。
 さて、こんにちの教会でこのように祈る教会があるでしょうか。先進国、あるいは日本で、このように祈る教会があるだろうか。迫害がないから、危機感がないのかもしれません。日本の教会、そして先進国の教会で「伝道が振るわない」という声をよく聞きます。また、「使徒言行録に見られるような、聖霊の働きが現代では見られない」ということも聞きます。
 それは、このような祈りができないことに原因の一つがあるのではなかろうかと思います。教会が一致して、このように真剣に祈る。初代教会の信徒たちはこのように祈った。そして聖霊の働きが顕著に現れたのです。今なおキリストの福音を聞いていない人が多くいるのは事実です。私たちは、そのように一致して熱く祈る教会へと成長したいと思います。

(2016年2月7日)



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