礼拝説教 2016年1月31日 主日礼拝

「唯一の救い」
 聖書 使徒言行録4章1〜22  (旧約 イザヤ書45:5〜6)

1 ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。
2 二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、
3 二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。
4 しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。
5 次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。
6 大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。
7 そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。
8 そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、
9 今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、
10 あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。
11 この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。
12 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
13 議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。
14 しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。
15 そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、
16 言った。「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定することはできない。
17 しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう。」
18 そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。
19 しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。
20 わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」
21 議員や他の者たちは、二人を更に脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を賛美していたので、民衆を恐れて、どう処罰してよいか分からなかったからである。
22 このしるしによっていやしていただいた人は、四十歳を過ぎていた。




     信じた人と信じない人

 エルサレムの神殿の「美しい門」の所で物乞いをしていた男。彼は生まれつき足が不自由で、歩くことができなかった人ですが、それが癒やされ歩けるようになりました。彼は歩き回り踊ったりして神を賛美しました。どんなにうれしいことだったでしょう。
 彼に起こった出来事を見て、そしてペトロの語ったことばを聞いて信じた男の数が5千人ほどになったと4節に書かれています。そこにいた多くの人々がイエスさまを信じたのです。それはやはり、生まれつき足が不自由で歩くことができなかったその人が、歩けるようになったという奇跡を見ては、信じざるを得なかったということでしょう。それが事実だからです。
 ところが一方で、信じない人々が今日の聖書には登場します。それが1節と5節に書かれている人たちです。1節の祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々というのは、そのとき神殿にいた神殿の管理者たちで、彼らが使徒ペトロとヨハネをとらえて牢屋に入れました。そして5〜6節に記されている議員、長老、律法学者たち、そして大祭司は、新共同訳聖書では最高法院という名で記されているサンヘドリンという議会の構成員です。そしてそれは、以前イエスさまを裁いて、十字架につける決定をした人々です。

     なぜ信じないか?

 普通の人々が信じることを、この人たちはなぜ信じないのでしょうか?
 しかしここを読んだとき、私自身の経験に思い当たりました。私は学生時代、いわゆる左翼の学生運動に関わりました。そうすると人を見る目が変わってくるんですね。とくに、対立するセクト、政治党派、あるいは政府については、すべて批判の対象となります。対立する党派の人間であるというだけで、その人すべてを否定し非難する。あるいは政府=国家権力側の人間であるというだけで、その人を丸ごと否定し、非難する。そういう見方に変わってしまうのです。それがイデオロギーというものです。
 本当は、その人がどういう思想や立場であろうとも、良いところもあれば悪いところもあるのが人間であるはずなのですが、その人がどういう思想を持ち、どういう立場であるかによって判断してしまうことになる。そして敵と見なせば、たとえその人がどんなに普通の人、あるいは良い人であったとしても批判の対象となり、全否定することになります。そういう発想になってしまうというのは、とても恐ろしいことです。ものごとを普通に見れなくなってしまうんですね。わたしがそういうものの見方から解放されたのは、まさしくイエスさまに出会ってからのことでした。
 ペトロとヨハネを議会で尋問しているサンヘドリンの人たちも、そういう見方で自ら洗脳してしまっていると言えます。彼らは、少し前にイエスさまを偽メシアであり神を冒涜する者であるとして、死刑を宣告しました。そして十字架に追いやりました。それを正当化しているのです。だから、自分たちが間違っていたと悔い改めません。歩くことができなかった人が歩けるようになったという奇跡を見ても、それが神のわざであることを認めない。驚きますが、自分たちを正当化することから考えているのでそういうことになるのです。
 ペトロは、このユダヤ人の最高権力者たちに対しても、イエスさまを「あなたがたが十字架にかけて殺し」たと指摘しています。これはこの前に、神殿の境内で群衆に向かって説教したのと同じことを言っています。同じことをここでも語っているのに、結果は大きな違いとなりました。普通の民衆は多くの人々が悔い改めてイエスさまを信じました。しかしこのサンヘドリン=最高法院の議員たちは信じなかった。イエスさまの処刑を正当化したいからです。自分たちの罪、過ちを認めません。かたくなな心です。

     堂々たるペトロの弁明

 彼らはペトロとヨハネを尋問しました。しかし該当する罪がありません。イエスさまを死刑にしたときは、イエスさまが安息日の律法に違反したとか、最終的には自分を神の子として神を冒涜したということで罪に定めました。しかしペトロとヨハネは、何も律法に違反したわけではない。それで彼らは、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と問うほかなかった。要するに、「だれに断ってしたのか?」と問うことしかできなかったということです。
 それに対して、ペトロが口を開きます。これは今の問いに対する答えというよりも、説教ですね。先ほど民衆の前でイエス・キリストについての説教をしたのと同じように、最高法院の人々を前に説教をしている。ユダヤ人の最高権力者たちを前に、堂々たる演説です。あのペトロが?と思うほどの堂々たる態度。イエスさまが尋問を受けたときには、「わたしはあの人を知らない」と言ってイエスさまを否認し、見捨てたペトロとは思えません。いったい何があったのか、何がペトロを変えたのか?
 それは、イエスさまの予言の成就ということでしょう。たとえばルカによる福音書12章11〜12で、イエスさまは弟子たちに対してこうおっしゃっておられます。‥‥「会堂や役人、権力者の所に連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」そして今日の8節には、ペトロが「聖霊に満たされて言った」と書かれています。すなわちペトロは、聖霊によって語ったのです。聖霊にゆだね、聖霊の働きを信頼して語った。
 そしてペトロは、あなたがたが十字架につけて殺したイエスは、神が死から復活させたこと、そして「イエス・キリスト」という呼び名を使って、イエスさまがキリスト=メシアであることを説きます。そして11節では、旧約聖書の詩編118編22節の引用をして、その予言が成就したのであると言っています。この詩編はイエスさま御自身もかつて引用なさっていました。ここで言う「家」とは世界のことを指すと考えられます。「あなたがた」というのは、今、目の前にいる最高法院の人たちです。あなたがたはイエスという石を捨てた、十字架にかけて殺して捨てた、しかし神はその石を世界を救う要の石とされたのだ‥‥そのように言いたいのです。
 そして12節のことばを語って結びました。‥‥「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

     釈放

 最高法院のメンバーたちは、言い返したかったことでしょう。こんな無学な一般庶民に言われては。しかし、足を癒やしてもらった人がそこにいた。だから言い返すことができなかったのです。しかもペトロとヨハネには、罰を与えるための該当する罪がない。さらには、民衆がこの奇跡によって神を賛美し、使徒たちを支持している。どうすることもできません。それで、「金輪際イエスの名によって語ることはまかりならぬ」と言って脅すことしかできなかった。しかしペトロとヨハネは、それに従わなかったという結果に至りました。そうして釈放されました。
 しかしペンテコステ以来、順調に歩んできた教会の歩みに対して、逆風が吹き始めたのは確かでしょう。

     イエスの名しか

 さて、もう一度あらためて12節のペトロの言葉を考えたいと思います。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
 人間が救われることができるのは、イエス・キリストの名しかない、と言っています。救いはイエス・キリストによるしかない、他にはない!ということです。
このような主張は、現代社会では全く流行らないと言えるでしょう。現代は、キリスト教会の内部ででさえも、あらゆる宗教の共存が言われる時代です。「救いはイエス・キリストにしかない」などと言うことは独善的な主張であり、他の宗教を認めない主張であると言われそうです。少し前に、「キリスト教などの一神教は排他的であり独善的だ」と言った政治家がいましたが、そのように世間の人は見るでしょう。他にも救いはある、というのが多くの人の思うところでしょう。
 「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこのイエス・キリストという名のほか、人間には与えられていないのです」というペトロの宣言は、独善的なのでしょうか?あるいは狂信的なのでしょうか?
 しかしペトロのこの宣言は、何かの主義主張に凝り固まった言い方なのではありません。この言葉は、ペトロ自身の経験から出ている言葉と言わなくてはなりません。先ほど言いましたように、かつてイエスさまに愛されながら、いざイエスさまが逮捕されると、「わたしはあの人を知らない」と言って三度もイエスさまを否認し見捨てたのがペトロです。だから、救われる値打ちもない。しかしそんな自分の所に、復活したイエスさまは近づき、再び弟子としてくださった。その実体験を振り返ったとき、「こんな自分のような罪人が救われるのは、イエス・キリストの名しかない!」と言わざるを得なかった。それが土台になっているのです。
 そしてそのイエスは、唯一の神さまが私たちの所に送って下さった方であった。唯一の神さま。それは先ほど読んでいただいた旧約聖書のイザヤ書45章5〜6節にも言われていることです。天地の創造主なる、唯一の神さまが、その愛するひとり子を送って下さったのですから、この方以外に救いはないと言わざるを得ません。
 しかし同時に、私たちは独善的になってはいけません。「この私のような罪人を救うことがおできになったのはイエスさましか」という、謙遜さがなければなりません。ですから私たちは、他の宗教を尊重しつつ、しかし救いはこの方、イエス・キリストの名によるしかないと信じているのです。
 よくこういう言い方をされることがあります。「結局宗教は、みな同じ山に登っているのであって、どの宗教を信じていっても同じ頂上に着く」と。
 このことについて私は、半分その通りだろうと思います。それは前半部分です。‥‥つまり、人間は心の底ではみな救いを求めている。それがいろいろな宗教となって現れている。その点では、どの宗教も救いという同じ山の頂上を目指していると言えると思います。しかし後半部分、すなわち、どの宗教もみな頂上にたどり着くという点は、違うと言わざるを得ないのです。同じ救いを目指してはいるが、頂上に着く、すなわち神にお目にかかることができるかというと、そうではないと。あるいは8合目、9合目まで行けるかもしれない。しかし頂上に至るには、イエス・キリストにおすがりするしかないのだと。その点で、宗教はどれを信じても同じと言うことはできません。
 私たちは、他の宗教の信仰を持つ人々を十分尊重しなければなりません。しかしこの罪人を救うことのできる方は、イエスさましかおられないということも、確かな事実です。

(2016年1月31日)



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