礼拝説教 2016年1月24日 主日礼拝

「約束の祝福」
 聖書 使徒言行録3章11〜26  (旧約 申命記18:15〜16)

11 さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、「ソロモンの回廊」と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た。
12 これを見たペトロは、民衆に言った。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。
13 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。
14 聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。
15 あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。
16 あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスのよる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。
17 ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。
18 しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。
19 だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。
20 こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。
21 このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。
22 モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。
23 この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。』
24 預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、今の時について告げています。
25 あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。
26 それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」




     ペトロの説教

 生まれながら足が不自由で歩くことができなかった人が、癒やされて歩けるようになりました。それで人々は非常に驚いて、集まってきました。その場所は「ソロモンの回廊」と書かれています。この場所は、エルサレムの神殿を囲っている壁のすぐ内側になります。最初の頃、キリスト信徒たちはそこに集まって祈りをささげていました。
 そこでペトロは、集まってきた群衆に向かって語り始めました。そのペトロの説教がきょうの個所です。この時ヨハネも一緒にいたのですが、ヨハネの言葉は書かれていません。もっぱらペトロが語っています。ここに役割分担がなされています。ヨハネはおそらくペトロが語る間、心の中で神に祈っていたのだと思います。かつてイエスさまは、弟子たちを二人ずつ組にしてお遣わしになりました。一人が語り、一人が祈る。
 これは教会の説教も同じです。私がこのように講壇に立って語っているわけですが、そのためには教会員兄弟姉妹の祈りがなくては説教になりません。聖霊の働きが期待できないのです。その意味で礼拝の説教も、私たち教会全体のわざの現れだと言えます。
 さて、ペトロは集まってきた群衆に向かって説教を始めました。なぜ説教を始めたのでしょうか? 黙っていてもよかったわけです。しかしペトロは語り始めた。なぜでしょうか?

     ひたすらイエス

 一つには、集まってきた人たちにイエス・キリストの救いを知らせるためであったと言うことができるでしょう。つまり伝道のためです。そのために、神はこの奇跡を起こしてくださった。そのように信じたということがあるでしょう。
 もう一つは、ここで黙っているわけにはいかなかったという理由があります。そのことは12節にヒントがあります。ペトロはこう言っています。‥‥「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、私たちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、私たちを見つめるのですか。」
 「なぜ驚くのですか」と言われても、生まれてこの方40年以上歩くことができなかった人が歩けるようになったのですから、これを驚かないで何を驚けというのかと思いますが、ペトロに言わせれば、これはイエス・キリストのわざだから、こんなことは当たり前だといわんばかりです。それはそうとして、その後半の言葉ですね。‥‥「また、私たちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、私たちを見つめるのですか。」
 人々は、ペトロとヨハネがふしぎな力でこの人を歩けるようにしたと思いました。だから、ペトロとヨハネは語らざるをえなかったのです。人々は、ペトロとヨハネがすごい、と思いました。しかしそれは間違っていることでした。ペトロとヨハネがこの人を歩けるようにしたのではないからです。しかしこのまま放っておくと、人々はペトロとヨハネがすごい人たちだと思ってしまう。普通は、このままならペトロとヨハネは新興宗教の教祖になれるでしょう。
 しかしそれは聖書においては決してあってはならないことです。だから黙っているわけにはいきませんでした。自分たちではない、神さま、イエスさまがこの人を歩けるようにしたと言わなくてはなりません。自分たちがほめたたえられてはならないのです。これを、神に栄光を帰すと言います。そうしてみると、ペトロはここでひたすらイエスさまを語ろうとしていることが分かります。自分たちではない、イエスの名によるのだと、少し神経質なぐらいに人々の誤りを訂正しようとしています。

     信心と信仰

 ここで、きょうの聖書個所に「信心」という言葉と、「信仰」という言葉が使い分けられていることに注目したいと思います。
 12節では「また私たちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、私たちを見つめるのですか」と言って、ペトロらの信心によって歩かせたのではないということを言っています。ところが16節では、「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです」と語っています。すあわち「信心によるものではない」と言い、また「信仰によるものです」と言っている。これは全く矛盾しているように見えます。いったいどういうことなのでしょうか?
 まず12節の「信心」という言葉ですが、これはευσεβεια(ユーセベイア)というギリシャ語で、神さまに対する敬虔さをあらわす言葉です。つまり自分自身の敬虔な心、信仰心です。ですからこの言葉は自分を見ていると言えるでしょう。「あの人よりも自分のほうが敬虔である。信心深い」というような感じです。
 それに対して、16節の「信仰」という言葉は、ギリシャ語でπιστιs(ピスティス)という言葉で、信頼という意味を表します。誰かに対する信頼であり、神への信頼、イエスさまへの信頼です。16節の後半は、新共同訳聖書では「イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」と日本語に訳されていますが、新改訳聖書では「イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです」と訳しています。すなわち、ここで言う「信仰」とは、自分の信仰心と言うよりも、イエスさまから来る信仰、イエスさまから与えられた信仰であるということです。
 そうすると、16節は、ペトロがペトロの信心によってこの人を歩けるようにしたのではなく、イエス・キリストの名、イエス・キリストから与えられた信仰がこの人を歩けるようにしたのだということを強調した言い方になっていると言うことができます。そしてこの16節は、ペトロがこのように言っているのだと考えることができます。すなわち、「イエスの名が奇跡を起こした。イエスの名を信じる信仰があったので。そのイエスの名を信じる信仰とは、イエスが与えた信仰だ。」
 そのように、ペトロはあくまでも、自分たちが信心深いから奇跡が起こったのではない。これはイエス・キリストのわざだ、イエス・キリストから来る信仰だ、と、ただただ栄光をキリストと神にお返ししていることが分かります。
 そのように考えると、前回、16節で言う「信仰」とは、ペトロとヨハネの信仰のことを指しているのか、それともこの足の不自由で物乞いをしていた男の信仰を指しているのか、どっちなのかということは、あまり問題ではなくなります。主役はイエスさまです。

     自分の信心のもろさにもかかわらず

 このように強調しているのは、ペトロ自身、自分の信心のもろさというものをよく知っていたからだと言えるでしょう。とりわけ、あのイエスさまとの最後の晩餐の夜、「あなたのためなら命も捨てます」とイエスさまに向かって近いながら、その舌の根も乾かないうちに、イエスさまのことを「あの人を知らない」と言って否認したことを。ペトロは自分がどんなに信仰が弱い者であるかということを、痛いほど学んだのです。
 だから、自分の信仰自分の信心ではない。本当の信仰とは、イエスさまが与えて下さる信仰であると。コリントの信徒への手紙一の12章には、聖霊の賜物のリストが書き記されていますが、その中の9節に「信仰」が入っています。そのような信仰は、聖霊の賜物であるということです。そのようにペトロは群衆に向かって、あくまでも、私たちではない、キリストであるということを強調しているのです。
 よく「私は信仰が弱くて‥‥」という方がいます。しかしそんなことは当たり前なのです。自分の信仰が強いという人などいません。ペトロだって、ヨハネだって、他の使徒たちだって、最後の晩餐のあと、みんなイエスさまを見捨てたのです。仮に「自分は信仰が強い」という人がいたとしても、その人でも大きな試練がやってくると、たちまち不安と恐怖に陥ることでしょう。
 では私たちはどうすれば良いのか?‥‥それは、イエスさまから来る信仰を求めることです。そのことができる。イエスさまが聖霊によって与えて下さる信仰です。それを願い求めることができるのです。
 さて、ここで誤解が無いようにしておかなければならないことは、イエスさまから与えられる信仰があれば、この男のように足が不自由であっても歩くことができるようになり、病気は必ず癒やされるのだということではない、ということです。というのは、信仰というのは、いろいろな力を発揮するものだからです。たとえば、試練を耐え忍ぶのも信仰の力です。苦しいことがあっても感謝することができるというのも、信仰の力です。ですから時には神さまは、病気を癒やすことをなさるのではなく、病気にもかかわらず感謝と平安を与えるという信仰をお与えになるかもしれません。
 しかしいずれにしても、神さまは、イエス・キリストの名によって、通常ではあり得ない力を発揮する信仰をお与えになることができるということです。

     悔い改めを迫る

 もう一つ強の聖書個所で触れておかなくてはならないことがあります。それは、ペトロは人々に向かって悔い改めを迫っていることです。「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまった」と言っています。
 「命への導き手」、この命とは永遠の命のことです。その道引き手であるイエスさまを、あなたがたが殺してしまったのだと。罪を指摘しています。神が送られた救い主を十字架に追いやってしまった。これがどんなに大きな罪であるかということが分かります。永遠の命へと導いて下さる方を殺してしまったのですから。そのように、人々の罪を指摘する。
 しかし同時にペトロは、「神はこの方を死者の中から復活させてくださいました」と続けています。ここに希望があります。自分たちが十字架の死に追いやってしまったが、それは取り返しのつかないことではなくなった。なぜなら、神がイエスさまを復活させてくださったからです。悔い改めて、イエスさまを信じることによって、やり直すことができるのです。そのイエスさまを信じる信仰を、聖霊によって新たにさせていただきたいと願います。

(2016年1月24日)



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