礼拝説教 2016年1月10日 主日礼拝

「何を与えるか」
 聖書 使徒言行録3章1〜10  (旧約 ゼファニア書3:19)

1 ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。
2 すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。
3 彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこうた。
4 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。
5 その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、
6 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
7 そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、
8 踊り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
9 民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。
10 彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しをこうていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。




     奇跡

 生まれつき足が不自由な男が歩くことができるようになったという奇跡が起こったことが書き留められています。
 「こんなことあり得ない」と思われる方もおられるかもしれません。しかし私自身は、1歳の時に死にかけて医者から見放されたのが、牧師先生らの祈りによって助けられたという経験をしておりますので、すなおに信じて読みたいと思います。
 これはまさにイエスさまの癒やしの奇跡の再現のようなできごとです。福音書を読んできて、イエスさまが様々な奇跡をなさったことが書かれていました。それはイエスさまの昇天によって終わってしまったのではない。今聖霊を注がれた使徒たちを通して、再びなされていくということが分かります。

     経過

 聖書を見てみましょう。ペトロとヨハネの二人が、午後三時の祈りのために神殿に上っていったことから始まっています。午後三時の祈りとありますが、敬虔なユダヤ人は一日三回の祈りをささげました。このことはダニエル書6章で、預言者ダニエルが一日三回の祈りをささげていたと書かれていることからも分かります。
 そして「美しい門」と呼ばれる神殿の門から境内に入ろうとした時であったと書かれています。「美しい門」というのはどこにあったのか。当時のエルサレムの神殿は、ヘロデ大王が建てた神殿でした。神殿の境内は二重になっていて、外側を囲む壁のすぐ内側が「異邦人の庭」と呼ばれる所でした。そしてその内側がさらに区切られていて、そこはイスラエル人しか入ることができない境内でした。そこも手前が「婦人の庭」と呼ばれて女性はそこまでしか入ることができませんでした。そして奥が男子の入る庭であり、そこに神殿の本体の建物が建っていました。「美しい門」は、異邦人の庭からイスラエル人の婦人の庭に入る入り口にあったと思われます。
 そしてその門の所に、この生まれつき歩くことができない男が物乞いのために座っていました。彼は、4章22節を見ると40才過ぎでした。生まれてからその年になるまで、一度も歩いたことがありませんでした。生まれつきの障害だったようです。しかし彼は生きて行くことはできました。それは、このような人々を助けるというのはユダヤ人にとって徳目であったからです。物乞いに施しをすることも、ユダヤ人にとっては功徳を積む善行でした。つまり、弱い人を助けたり物乞いに施しをすることは、神さまからご褒美をもらえる良い行いというわけです。
 きょうの個所でも、彼は他の人々の手によって家からこの「美しい門」の所まで運んでこられました。だから決して生活に困っていたわけではありません。2節を見ると、彼は毎日ここで物乞いをしていたことが分かります。したがって、ペトロとヨハネも毎日神殿に礼拝に来ているのですから、彼がここに座っていたことは知っていたでしょう。そしてふだんは、金銭の施しを与えていたのか、あるいは何もせずに取り過ぎていたのか分かりませんが、この日に限っては、二人はこの男をじっと見たのでした。
 そして6節ですが、彼に向かって「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリスト名によって立ち上がり、歩きなさい」と言い、彼の右手を取って彼を立ち上がらせると、彼は立ち上がり歩けるようになり、踊ったりして神を讃美しました。そういう奇跡が起きました。そして群衆の驚嘆を引き起こしました。
 さて、前回の個所2:47では、教会の信徒たちは民衆全体から好意を寄せられていたと記されていましたが、実はこの奇跡のあと、教会に向かって嵐が吹き始めることになります。

     見る

 さてきょうの聖書個所の3節から5節の間に、「見る」という言葉が4つ出てきます。しかもこの4つの「見る」という単語は、原語のギリシャ語ではみな違う言葉が使われています。まずこのことに注目してみましょう。
 @3節:この男が二人が境内に入ろうとするのを「見て」とあります。この「見る」は、ギリシャ語でειδον(原型で)という単語で書かれています。これは、「見る」「認める」という意味の言葉です。ですから最初この物乞いの男は、ペトロとヨハネが通りかかったのを見た、特定の誰かということではなく、それが誰であってもかまわない、単に人間が通ったのを見た、ということになるでしょう。誰が通りかかった人がいるな、と認識したのです。だから施しを乞いました。そういう「見る」です。だから「見えた」ということでしょう。
 A4節の前半:二人が彼を「じっと見て」とあります。これはατενιζωという単語で「目を注ぐ」「じっと見つめる」というような意味になります。ペトロとヨハネは彼に目を注いだ、じっと見た。すなわち、なんだか誰か物乞いがいるなと認識したというのではなく、もっと踏み込んで、その人個人に注目したということです。
 B4節後半:わたしたちを「見なさい」と二人が言いました。これはβλεπωという単語で、「見分ける」「注意する」という意味があります。このことを考えると、「自分たちが誰であるかを見分けよ。キリストを信じている者である我々を」という意味でペトロとヨハネが言っているようにも読めます。
 C5節:物乞いの男が、二人を「見つめている」と、とあります。これはεπεχωという単語で、「心を向ける」という意味があります。彼は二人に心を向けたのです。お金をもらう相手としてではなく、心を向けた。たぶん、キリストの使徒である二人であるということを認識して。
 これが4つの「見る」という意味の単語の使い方です。これらを比較すると、双方の心の動きが見て取れるように思います。

     イエスの名を信じる信仰による

 この大いなる奇跡の起きた理由が、16節に記されています。ペトロが、集まってきた群衆に対して、「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。」と語っています。
 ここでいわれている「イエスによる信仰」とは、ペトロとヨハネの二人の信仰のことを指しているのか、それとも足の不自由だった物乞いの男の信仰のことを言っているのか。どちらの信仰のことを指しているのか?
 @この足の不自由だった男の信仰のことを言っているのでしょうか?‥‥この男はキリスト信徒ではなかったと思われます。しかし、毎日ここにいたのですから、ペンテコステの時の聖霊降臨のできごとは見聞きしていたかもしれません。そのとき神殿にいなかったとしても、他の人々からイエス・キリストのことは聞いていたかもしれません。そしてキリストにすがちたいという思いがあったかもしれません。それをペトロが信仰と見なしているとも考えられます。たとえば、ルカによる福音書8章で、長血を煩った女がイエスの衣に触れたところ癒やされたという奇跡がありました。彼女は、ただイエスさまの衣の裾にでも触ることができれば自分の病気は癒やされると信じていた。それに対してイエスさまが、「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃいました。そういう信仰です。
 Aペトロとヨハネの信仰のことを言っているのでしょうか?‥‥この場合は、物乞いの男にキリスト信仰があるかどうかは関係ありません。キリストの一方的な神の業の現れとしてこのことが起こったということになります。たとえば、ルカ福音書7章で、ナインのやもめの一人息子が死んで、その葬列を見てイエスさまが憐れんで、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と死人に向かって命じたところ、その若者が生き返ったことがありました。これもその若者や母親の信仰は問題にされていません。ただイエスさまの憐れみと信仰によるのです。それと同じように、ペトロとヨハネの二人の信仰が、この男を立ち上がらせたと。
 いずれとも確定できません。しかしいずれにせよ、イエス・キリストの信仰です。その信仰を通してキリストの力が働いた。すなわちこの奇跡は、イエス・キリストを指し示すものとなっているのです。そうしますと、3節で、ペトロとヨハネが最初に物乞いの男を「じっと見た」のは、主が二人に対して、この物乞いの男を見るように示されたのだと言えるでしょう。

     金銀はないが

 さて、あらためて6節の言葉に注目してみましょう。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり歩きなさい。」
 この「金や銀」というのはもちろん、お金のことです。二人は本当にお金を持っていなかったのでしょうか?‥‥もちろん、本当に持っていなかったと言うこともできます。しかしあえて言うならば、もしかしたら持っていたかもしれないのです。しかし今この時、この人に与えるべきものは何か?と言った時に、それは金や銀ではないということ。もっと言うならば、主イエスさまが今この彼に与えようとしておられるものは、金や銀ではないということ。この場合の「金や銀」とは、単にお金だけではなく、この世のすべてのものを含んでいると言えるでしょう。
 すなわち、今この時この彼に与えるものは、この世のものではない。しかしそれに優るものがある。それがイエス・キリストの名前、すなわちイエス・キリストという存在である。そういうことを言っていると考えられます。
 この物乞いだった男は、それまで金銀を受けることに甘んじる生活をしていたということもできます。いっぽう、神殿にお参りをする通行人は、物乞いに金銀を与える喜びに浸っていた。「自分は良いことをした」という喜びに浸っていた。これはしかたのないことでもあります。しかしそこにイエス・キリストの名が、劇的な変化をもたらしたのです。イエス・キリストによって、彼は自分の足で立つことができるようになった。そういう奇跡でもあります。
 「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり歩きなさい。」この言葉を考えます時に、日本の教会のことを思います。戦前、教会に通うようになった人のうち、子どもの頃教会で配られるきれいなカードがほしくて通うようになったという人がいました。あるいは教会で歌われる讃美歌の美しさに惹かれて教会に通うようになったという人もいました。当時の讃美歌は、時代の先端を行っていた音楽でした。
 しかし今の時代、世の中に物があふれています。教会学校で配られるカードはつまらない物に見えますし、教会で歌われる讃美歌はもはや時代の先端の音楽ではなく、むしろ美しい音楽は世の中にあふれています。この世の物でいえば、教会にある物は世間にもあるのです。
 しかし、教会にしかないものがある。クリスチャンしか持っていないものがある。それが「イエス・キリストの名」です。それは人を立ち上がらせることができる方です。そんなにすばらしい物を私たちはいただいている。このことに改めて思いをいたしたいと思います。

(2016年1月10日)



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