礼拝説教 2016年1月3日 主日礼拝

「はじめの教会」
 聖書 使徒言行録2章43〜47  (旧約 ゼファニア書3:9)

43 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行なわれていたのである。
44 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、
45 財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。
46 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、
47 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。




     教会

 ペンテコステの日の聖霊降臨の結果、教会が誕生しました。ここで念のため申し上げておきますと、「教会」とは建物のことではありません。この使徒言行録を見ても、教会堂という建物を建てたということはどこにも書かれておりません。
 「教会」という言葉ですが、ギリシャ語では「エクレーシア」と言います。正確には、英語の the に相当する「ホ」という定冠詞がくっついて、「ホ・エクレーシア」が教会と訳されます。しかしその「エクレーシア」という言葉の意味は、「集会」「集まり」という意味の言葉です。ですから、教会とは集会であり、集まりのことであると言えます。「ザ・集会」が教会という言葉になっています。
 一昨日の元日のことですが、元旦礼拝を終えた午後、逗子駅のほうへ歩いて行きますと、亀岡八幡宮の境内から市役所前まで人の列が並んでいました。「なんだろう?」と思ってみると、それは初詣の参拝客の列でした。拝殿の前に並んで、一人一人賽銭を入れて拝んでいました。言うまでもないことですが、神社ではひとりひとりが別々にお参りいたします。だから列ができています。それを見て、「教会の玄関前にも賽銭箱を置いておいたらどうなるだろうな?けっこう拝みに来る人がいるんじゃないか?」などと思ってしまいました。
 神さまを礼拝しに行くということは、神さまにお会いし、神さまに祈るために行くわけです。では神さまはどこにいらっしゃるのか?‥‥もちろん、神さまですから、どこにでもお出でになることができるでしょう。しかし「ここには確かにお出でになるよ」と建物や場所を指定するということがあります。それが神社であり、旧約聖書の幕屋や神殿であると言えるでしょう。
 では教会はどうなのか? 教会という字が「集会」という意味の字だとすれば、なぜ集まるのか? それはイエスさまが次のようにおっしゃっている言葉にあります。‥‥(マタイ 18:20)「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
イエスさまの名によって、複数の人が集まっているところに、イエスさまもそこにおられると約束なさっています。イエスさまの名によって集まるというのは、一番わかりやすく言えば、共に礼拝をするということです。もちろん、イエスさまの姿は見ることができないかもしれない。しかし聖霊によってそこにイエスさまがいて下さるという。もちろん、イエスさまは礼拝の時だけそこにおられるというのではありませんが、少なくともそのイエスさまの御言葉は、イエスさまを信じる者が集まって礼拝をするように招いておられる言葉であると言うことができます。
 それで教会の礼拝、そして初詣も、自分の好きな時間に一人一人勝手に出かけて参拝するのではなく、共に集まって礼拝するのです。

     教会の姿

 さて、ペンテコステの日の聖霊降臨の結果、3120人の教会として始まりました。42節を見ると、この教会の群れは、それまでのユダヤ人社会の集まりとはまた別の集団となったことが分かります。そして43節を見ると、「すべての人に恐れが生じた」とあります。この恐れとは、神への畏敬の念ということでしょう。神さまが本当にいらっしゃる。そのことが本当によく分かったのです。それは、使徒たちによって多くのふしぎな業としるしが行われたからだと書かれています。
 これは、使徒たちが奇跡をしたということではありません。「使徒たちによって」と書かれているその「よって」とは、本当は「通して」という意味です。たとえば水道管を通って水が流れ出るように、です。そのように使徒たちは単なるパイプに過ぎません。使徒たちを通して奇跡をなさるのは、もちろん神さまに他なりません。主人公はあくまでも、神さま、聖霊であるのです。このことははっきりさせておかなければなりません。
 44節では、「皆一つになって」とあります。これは「一緒にいて」という意味ですが、いっしょに住んだわけではありません。一つの集団、グループを作っていたということです。すなわちこれが教会という集まりのことです。
そして彼らは、「すべてのものを共有にし、財産や持ち物を売り、おのおの必要に応じて皆がそれを分け合った」と書かれています。助け合ったわけです。一つには、貧しい人々を助けた。当時は行政による福祉などない時代ですから、やもめのような貧しい人々は、誰かが助けなければ生活していくことができませんでした。それが教会の中でなされたということです。
 またもう一つは、この教会の群れには、使徒たちをはじめガリラヤから出てきている人々がいました。イエスさまの母マリアもそうです。使徒たちは、かつてはガリラヤ湖の漁師であり、またマタイのように徴税人でしたが、それらを捨ててエルサレムに来ているのです。だから生活の糧がありません。教会はそれを支えたのです。
 これらの助け合いは、誰かが強制してそうしてのではありません。自ら進んでなされました。イエス・キリストの信仰によって。

     礼拝

 46節では、「心を一つにして神殿に参り」とあります。神を礼拝することにおいて一つになっていたのです。神殿というのは、エルサレムの神殿です。旧約聖書では、正式に神を礼拝する場所でした。しかしもう教会ができたのですから、教会は礼拝する場所を問いませんので、何も神殿に行って礼拝しなくてもよいように思いますが、旧約聖書ではこの神殿に行って神を礼拝するのは良いこととして書かれていますので、そのようにしていたのでしょう。
 また「家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし」と書かれています。これはいくつかの家にわかれて集まって、聖餐式及び愛餐をおこなっていたということです。3千人の人々が一度に集まる場所はありませんから、そのように家々に分かれて集まったのです。すなわち最初の教会は、家の教会でありました。
 そして神を讃美していた、とあります。それで、民衆から行為を寄せられた、と書かれています。
 教会の外の一般のユダヤ人は、まだこの教会の群れが、キリスト教という別の宗教になっていくというようには思っていなかったことが分かります。教会の人たちが、毎日神殿に行って礼拝するし、しかも喜んで神を讃美しているので、信心深い模範的な信仰者であると見えたのでしょう。それで人々から好意を持たれていたのです。

     賛美

 そのように、はじめの教会は、喜びをもって神を讃美していました。新約聖書では、神さまへの賛美ということと感謝ということは、ほぼ同じ意味であると、故竹森満佐一先生は述べておられます。
 ちょうど1年と1週間前、2014年12月28日の主日礼拝の説教で私が申し上げたことがありました。それは、テサロニケの信徒への第一の手紙5章16〜18「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」という、多くのクリスチャンの愛唱聖句となっている聖句についてです。
 この聖句について、ドイツのあるクリスチャン医師が、どのように実践したらよいかと考えました。この御言葉の「絶えず」とはどのくらいの頻度なのか?と彼は調べたのでした。その結果、10分に一度祈ることが最適のリズムだという結論に達しました。さらに、ある牧師夫妻は、10分間に1度、5秒間の短い賛美をするということを始めました。そして、神との親密な関係取り戻したということです。そういう証しをご紹介いたしました。
 10分間に1度、5秒間「主よ、賛美します。感謝します」とか、「ハレルヤ、主よ、感謝します!」と、声に出しても良いし、心の中で祈っても良い。または、「主よ、あの人を助けて下さい。救って下さい」と5秒間祈る。‥‥やってみられた方はおられますか? 何か変化したことがあったでしょうか。
 しかし私も、10分ごとに5秒間、神さまに祈ったり感謝したりすることを忘れてしまうことも多かった。まあしかし、そんなに神経質にならずに、何日も忘れてしまっても、思い出したらということでよいと思います。今年もぜひ挑戦してみたいと思います。

     伝道

 最後に書かれているのは、「主は救われる人を日々仲間に加え一つにされたのである。」伝道が前進していったということです。
 やはり感謝と賛美をもって、喜んでいるところに人々は集まると言うことができます。しかし救われる人々が次々と起こされるのは、人間の力に寄るのではないことに注意したいと思います。「主は」と書かれています。主が、イエスさまが、神さまが、救われる人を日々起こして下さったのです。ここに希望と期待があります。
 今年、逗子教会にもそのような主の業が現れることを期待したいと思います。そして、喜び、感謝と賛美をもって共に主を礼拝してまいりたいと思います。

(2016年1月3日)



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