礼拝説教 2015年12月27日 主日礼拝

「教会の誕生」
 聖書 使徒言行録2章37〜42  (旧約 出エジプト記24:6〜8)

37 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。
38 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
39 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
40 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。
41 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。
42 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。




     教会の誕生

 引き続きペンテコステの日のできごとについて記されている個所を読んでいます。ペンテコステは教会の誕生日と言われます。ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が降った。その結果、教会が生まれた。そのことは42節を見ると分かります。そこには、それまでのユダヤ人社会とは異なる独自の集まりが始まったことが読み取れます。
 イエスさまの弟子たちとペンテコステの日に洗礼を受けて新たにその仲間に加わった人々がしていたことですが、「使徒の教え」とあります。ユダヤ人社会の中の宗教家であるファリサイ派、あるいは律法学者、祭司の教えではなく、使徒たちの教えを熱心に聞いていた。使徒たちの教えというのは、イエスさまのことについての教えです。
 次に「交わり」という言葉が出てきます。それまでのユダヤ人社会における様々な交わり、集まりではなく、イエスさまを信じて洗礼を受けた人たちによる交わりがもたれるようになったということです。
 そして「パンを裂くこと」をしていた。これは聖餐式のことです。聖餐式はこの時代は「パン裂き」と呼ばれました。最後の晩餐で、イエスさまがパンを裂いて弟子たちに渡したことに由来しています。
 そして「祈ること」が出てきます。もちろん、彼らはユダヤ人でしたから、それまでも祈ることは当然していたことでしょう。しかしここでの祈りというのは、イエス・キリストの名による祈りです。イエスさまを通して、神さまに祈りを届けていただく。
 このようにして42節を見ますと、この集団のしていることは、明らかにそれまでのユダヤ人社会とは違う、新しい集団が生まれているということができます。それが教会なのです。だから、ペンテコステは教会の誕生日であると言えるのです。

     26倍!

 そしてその誕生した教会は、それまでの弟子たちの群れ120人に、この日新たに洗礼を受けた3000人が加わって、3120人の教会としてスタートしました。120人が3120人になったということは、26倍になったということです。
 こんにちの時代、キリスト教会の未来は暗いというようなことがキリスト教会の中で言われています。たとえば、かつてのキリスト教国であったヨーロッパの国々のキリスト教会が衰退している。教会が閉鎖されたり、売りに出たり、あるいは礼拝にはあまり人が来ず、教会堂には閑古鳥が鳴いているということをよく聞きます。また、日本の教会も伝道も停滞しているという数字が出ています。多くの教会で教会員の減少や、高齢化が話題となっています。
 本当にキリスト教会の未来は暗いのでしょうか?‥‥私は、それは絶対に違うと言わなければならないと思っています。このペンテコステの日、聖霊降臨の結果、120人が3120人になったのです。そして同様のことは、主の御心であれば、今日もまた起きると私は固く信じている者です。
 ではこんにちのキリスト教会の停滞の原因はどこにあるのでしょうか? 神さまに原因があるのでしょうか? それとも人間の側にあるのでしょうか? そしてまた原因が人間の側にあるとして、それは社会が悪いのでしょうか? それともキリスト教会に原因があるのでしょうか? その答えもきょうの個所の中にヒントがあると思います。

     砕かれた心

 教はペトロの説教が終わったあとの反応が書かれている個所です。ペトロの説教は、直前の36節「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」で終わっています。ここはギリシャ語の原文ですと、「このイエスをあなたがたは十字架につけた」で終わっています。日本語とギリシャ語では語順が違うので仕方がないのですが、説教の最後に「神がメシアとしたイエスを君たちが十字架につけた」という言葉が来ているというのは、かなり強烈だと思います。
 これは集まっていた群衆に、どう聞こえるでしょうか? この51日前に、このエルサレムでイエスさまが十字架につけられて処刑されたことは皆知っていることです。ここに集まっていた野次馬である群衆も、イエスさまが十字架に架けられた時、ある者は罵り、またある者は単に野次馬として見物し、ある者は無関心に過ごしていたことでしょう。ですから「俺が殺したわけではない」「わたしは見ていただけですよ」‥‥などと反発して当然だと言えるでしょう。
 しかし、37節を見ると予想外の結果が展開いたします。「人々はこれを聞いて大いに心が打たれ」と。「大いに心が打たれた」という言葉は「強く心を刺された」という意味でもあります。グサッと、ペトロの言葉が胸に刺さったのです。
 おそらくこのように感じたことでしょう。「我々は救い主メシアを待っていたはずではなかったか」「イエスがそのメシアであり、神が遣わされた方であることを信じなかった」「神の御心を踏みにじってしまった」‥‥。ペトロの説教に反発したのではなく、まことにその通りだと悟ったのです。それで彼らは、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか?」とペトロに問いかけたのです。予想外の回心です!これが聖霊のわざでし! 聖霊の働きによる奇跡です! 心が打たれた。それは心が砕かれたのです。飢え渇いた心になったのです。

     洗礼を受けよ

 「どうしたらよいのですか?」と単なる野次馬であった群衆がペトロに向かって救いを求めるに至りました。劇的な変化が生じました。それに対してペトロは、38節で三つのことを語っています。
@ まず、「悔い改めなさい」と言っています。悔い改める。それは、自分が間違っていたことを認めるということであり、また心の向きを変えるということです。自分の心をイエス・キリストのほうへ向けるのです。
A 次に、イエス・キリストの名によってバプテスマ(洗礼)を受け、罪を赦していただきなさいと述べています。洗礼ということについては、すでにユダヤ人たちは、バプテスマのヨハネの洗礼を知っていました。だから、洗礼自体を変なこととは思わなかったでしょう。しかしここでは、バプテスマのヨハネの洗礼と異なることがあります。それがイエス・キリストの名によって洗礼を受けるということです。単なる洗礼ではない。イエス・キリストの権威の元に洗礼を受け、罪を赦していただくことができるということです。 たった今ペトロが、「あなたがたがイエスを十字架につけた」と言った。そのイエスさまが、神を踏みにじった罪を赦して下さると言っています。
B 三つ目は、賜物として聖霊を受けるということです。これは「恵みとして聖霊を受ける」という意味です。「恵み」というのは、聖書では、資格がないのに与えられることを恵みと言います。資格を問わない。律法を守ってきたかどうか、罪を犯したかどうか、その資格を問わない。ただイエス・キリストを信じたことによって、罪が赦され、恵みとして聖霊をお迎えすることができる。神さまに受け入れていただけるということです。
 このペトロの言葉を聞いて、洗礼を受けた人々がその日に3000人にのぼったのです。

     聖霊のわざ

 さて、三千人が洗礼を受けた原因をペトロの説教に求めることができるでしょうか。しかし読み返してみても、ペトロの説教はキリスト教のごく基本的なことを語っているだけです。何か、うまい話を語って、それにつられて人々が信じたということではありません。キリスト教から見れば平凡な話しです。しかも集まっていた人々は、聖霊降臨の物音を聞いて集まってきていた野次馬に過ぎません。その人々が、心打たれて、救いを求めるに至った。
 これが聖霊の奇跡です。聖霊の働きによって、彼らの心を刺したのです。心が飢え渇いた状態になったのです。心に飢え渇きがなければ、どんなすばらしい話を聞いても聞きません。たとえば、どんなにおいしいごちそうを用意しても、その人が満腹ならば、「いりません」と答えるでしょう。それと同様に、どんなにすばらしい救いの話しでも、その人の心が飢え渇いていなければ、届かないのです。しかしこの時は、聖霊の働きによって、彼らの心が飢え渇いた状態になった。そして、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と救いを求めるに至ったのです。
 こんにちのヨーロッパのキリスト教の停滞、そして日本の伝道の停滞の原因は、この聖霊をどこかに追いやってしまったところにあると言えるでしょう。聖霊に頼らないということは、奇跡が起こらないということになります。人間の力では、人の心を打つことはできないのです。人の心を飢え渇くようにはできないのです。それはただ聖霊なる神さまにしかできないことです。
 しかしこれは逆に言えば、聖霊なる神さまに伝道の希望があるということです。まず私たち自身が、聖霊なる神さまの働きに期待する者でありたいと思います。
 今年も間もなく終わろうとしています。今年一年、主は、自分にどんな奇跡をおこなって下さいましたか? どんな恵みを与えてくださいましたか?‥‥神さまは確かに働いてくださったはずです。そのことを思い返したいと思います。そして新しい年に、新しい神さまの働きを大いに期待するよう、祈ってまいりたいと思います。

(2015年12月27日)



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