礼拝説教 2015年12月13日 主日礼拝

「神と私たちの間」
 聖書 使徒言行録2章25〜36  (旧約 サムエル記下7:12〜13)

25 ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。
26 だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。
27 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。
28 あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』
29 兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。
30 ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。
31 そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。
32 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。
33 それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。
34 ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。
35 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで。」』
36 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」




     イエスを殺した

 旧約聖書の3大祭の一つであるペンテコステの日に、弟子たちに聖霊が降られ、弟子たちは聖霊に満たされました。物音を聞いて、群衆が弟子たちの所に集まってきました。そこでペトロが他の使徒たちと共に立ち上がって、説教を始めました。まず前回の個所のとおり、この出来事は旧約聖書の預言者であるヨエルの預言の成就であるということを語りました。きょうはその続きの個所です。
 さて、ペトロは、この説教全体の中で24節と36節の2回、群衆に向かって「あなたがたがイエスを殺した」ということを言っています。しかしこの時集まってきていた野次馬である群衆は、おそらくイエスさまを十字架に架けるために、直接手を下したのではないでしょう。イエスさまが十字架にかかって死なれたのは、この時から52日前の出来事です。まだ2ヶ月に満たない。そして、そのときエルサレムにいた人々は、みなイエスさまの十字架を知っていたようです。そのことは、ルカによる福音書24章で、クレオパという弟子が語った言葉から分かります。
 ですから、このとき弟子たちの所に集まってきた群衆の多くも、イエスさまの十字架の出来事を知っていた。しかし直接イエスさまを十字架に架けたわけではない。見物していた人もいるだろうし、ゴルゴタの丘を通りかかった人もいたでしょう。また、見てはいないけれども、話しに聞いたという人もいたでしょう。直接イエスさまを十字架に架けたわけではありません。ですから、ペトロが「あなたがたはイエスを十字架につけて殺してしまった」と言った時、「殺してなんかいない」と言って反発してもよさそうなものです。
 それにしてもなぜペトロは群衆に向かって、「イエスを殺した」と言ったのでしょうか?

     ダビデの預言

 きょうの聖書個所を見てまいりましょう。パウロは旧約聖書の預言を解き明かすということをきょうの所でもしております。そしてきょうの個所では、イスラエルの第2代目の王であったダビデの詩編から取り上げております。
 ユダヤ人は、メシア(キリスト)が来るのを待ち望んでいました。今も待ち望んでいます。そしてそれはダビデの子孫から生まれると信じていました。その理由は、先ほど読んでいただいたサムエル記下7:12〜13にも書かれているからです。それは預言者ナタンの預言ですが、ダビデ王に対する預言で、ダビデの王朝が永遠に続くということを言っています。預言は神さまの言葉ですから、神が永遠と言われるということは、これはメシアのことを言っているということになるわけです。
そしてユダヤ人の期待していたメシアは、ダビデ王時代のイスラエルの栄光を取り戻してくれる王でした。しかしここでペトロは、そのメシアというのはイエスさまのことであると言っているのです。
 25節〜28節は、詩編16編8〜11節の引用です。これはダビデの作った詩です。しかし実はこれは本当は詩ではなくて、神がダビデに与えた預言であるというのがペトロの言っていることです。
 この中で25節の「わたし」というのは、この詩を作ったダビデ自身のことであると、ユダヤ人は考えていました。しかしそうすると、27節の「陰府(よみ)に捨てておかず」というのはどういう意味になるのか。「陰府」というのは死んだ魂が行くところです。しかしここを読むと、「あなた」である神さまが、ダビデを死んだままにしておかずに復活の命を与えて下さると言っているように読めます。けれども、ダビデは千年前に死んで、その墓は未だにこのエルサレムにある。だからこれがダビデ自身のことをうたった詩であるとすると、つじつまが合わなくなるのです。
 しかしペトロは、この詩編16編8節からの「わたし」というのは、イエスさまのことであると解説いたします。そうすると、あの52日前に十字架に付けられて死んだイエスさまが、陰府から復活をされた、そのことを預言しているのがこの詩編だと言っているのです。これはイエスがキリストであり、神が十字架で死んだイエスを復活なさったということを指している預言であったのだと。
 日本には「腑(ふ)に落ちる」という言い方がありますね。分かったつもりでいたけれども、なんとなくモヤモヤしていた。しかし、真相が分かってすっきりしたという場合に使います。この時のペトロの説教を聞いて、群衆はまさに腑に落ちたのではなかったかと思います。今まで律法学者などからダビデの作った詩でありダビデのことを言っているのだと教わってきたけれども、なんとなく腑に落ちなかった。しかしそれが腑に落ちたというような。これはわたしたちも信仰で経験することです。
 34節では、やはりダビデの詩である詩篇110編1節を引用しています。この詩編の問題は、「主」が二人いるように読めることです。「主はわたしの主にお告げになった」。この二つの主は何のことを言っているのか?ということです。ペトロが語っているのは、最初の「主」が父なる神さまのことで、次の「主」がイエスさまのことであるということです。これもまた「腑に落ちる」ことであったでしょう。

     神の主権

 さて、ここで強調されているのは、神さまの主権ということです。はじめの詩篇16編のほうは、神が死んだイエスを朽ち果てるままにしておかれなかったということです。すなわち、神がイエスを復活なさったということです。神さまが主人公です。次の34節の詩編110編1節は、神がイエスさまを神の右の座につかせたということです。神さまがそうしたと。
 33節の「イエスは神の右に上げられ」という言葉は、「神の右手で上げられ」というように解釈することもできるそうです。つまり、天の父なる神が、イエスさまを陰府のそこから引き上げて復活させ、さらに神が右の手でそのイエスさまを天に引き上げたということです。そのように、徹頭徹尾、神の主権が貫かれている。神さまがそうなさったのだということが。
 さらに、36節後半の「あなたがたが十字架に付けて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」という下りですが、この中の「メシア」という言葉、これは原文ではギリシャ語の「キリスト」ですが、それは神が立てて任命したという意味が強い言葉だそうです。神が立てた者と。そして「主」という言葉は文字通り主人ですね。わたしたち一人一人が主人としてお仕えするべきお方、ということです。
 そのように、天地の造り主なる神が、あなたがたが十字架につけて殺したイエスを復活させ、さらに天に引き上げられ、わたしたちの救い主としてお立てになり、わたしたちの主となさったのである。‥‥ペトロはそう強調しているのです。その方を受け入れなかった。すなわち神さまのなさったことを信じなかった。それはすなわちイエスを殺したということである。受け入れなかったのだ。神を無視したのだ。ペトロはそのように指摘しているのです。
 しかし同時に、神が立てられたメシアであるイエスさまを死に追いやった人を裁き、地獄に落とすというのではない。それはペトロたち、弟子たち自身が、イエスさまを見捨てて死に追いやった、殺した者であるのにもかかわらず、復活のイエスさまによって赦され、再び弟子として招かれ、このように聖霊を与えられていることからも分かるでしょう、ということです。
 それが神の愛です。神さまの招きです。そのように、神さまは一人一人を招いておられる。イエスさまを通して。

     マイケル・チャン

 「クリスチャン新聞・福音版12月号に、マイケル・チャンさんの紹介記事が掲載されていました。マイケル・チャンさんは、今年大活躍したテニスの錦織選手のコートをしている人ですから、ご存じの方も多いでしょう。錦織選手は、チャンさんがコーチを務めるようになってから成長したといわれています。チャンさん自身も、1989年に史上最年少の17才で全仏オープンで優勝し、世界ランキングは2位までいったテニス選手でした。
 そのチャンさんは、台湾系のアメリカ人で、クリスチャンの一族に育ちました。6才でテニスを始めたそうです。しかし10代の時、教会に消極的となり、わざと寝坊したりして信仰から遠ざかっていったそうです。しかし、悶々とした悩みの時、久しぶりに祖父母がいる教会の礼拝に出て、「神はすべてのことに理由を持つ」という言葉が心に刺さったのだそうです。そして家に帰り、本棚に放置していた聖書をむさぼり読みました。そして「すべて答えが書かれている」ことに驚いたそうです。人間関係のこと、恋愛のこと‥‥などすべてが。続いてイエス・キリストの生涯について読み通し、「わたしの命のために、十字架で死んだキリストの愛はなんと大きいのだろうか。何が起きてもキリストは、わたしを捨てない」と確信したそうです。そして、本人の言葉としてこう書かれていました。「『私の心に来てください、私をあなたの目的のために変えて下さい』とイエスに祈った。私はそのとき、主に従い、主のことを知る生き方をしようと決断したのです。」
 彼は言っています。「私にとって、キリスト教の本当の意味は、イエス・キリストと個人的な関係を持つことだ。神を知ること以上の喜びはない。あなたにも同じ喜びを味わってほしい」と。
 キリストとの個人的な関係を持つということが、キリスト教の本当の意味であると彼は言います。キリスト教を信じている。たしかにそうです。しかしより具体的に言えば、イエス・キリストというお方を信じる。イエスさまが、この私にも目を留めて下さり、命を与えてくださる。導いてくださる。
 わたしもイエスさまを十字架につけた一人である。わたしも神の御心を無視し、自分勝手に歩んできた一人である。そのことに気がついた時、そんな私を愛してくださるイエスさまとの個人的な関係が始まっていると言えるでしょう。

(2015年12月13日)



[説教の見出しページに戻る]