礼拝説教 2015年12月6日 主日礼拝

「朝の九時」
 聖書 使徒言行録2章14〜24  (旧約 サムエル記上10:9〜10)

14 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。
15 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。
16 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
17 『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。
18 わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
19 上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。
20 主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。
21 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』
22 イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。
23 あなたがた自身が既に知っているとおりです。//このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。
24 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。




     ペトロ立つ

 イエスさまが天に行かれてから10日目のペンテコステのお祭りの時、エルサレムの神殿に集まって礼拝していた弟子たちの群れに、聖霊が降臨しました。イエスさまが約束された聖霊が降臨し、弟子たちは聖霊に満たされました。
 それは突然起こりました。激しい風が吹いてくるような音が天の国から聞こえてきました。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れました。そして弟子たちは、今まで教わったこともない外国語で、それぞれが神の偉大な働きについて語り始めました。言い換えれば外国語で預言したのです。そういう現象が起こりました。それを聞きつけて、神殿にお参りに来ていた多くの人々が弟子たちの所に集まってきました。彼らは驚き、そして中には「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言った人もいました。そこでペトロが他の使徒たちと共に立って語り始めたというのがきょうの聖書個所です。
 ペトロが大勢の人々を前に語り始めたと聞いて、ちょっと心配にならないでしょうか。というのは、福音書に記録されている以前のペトロのことを私たちは知っているからです。あのペトロが?大丈夫かいな?‥‥と思ってしまいます。
 たとえば、マタイによる福音書16章に書かれていますが、イエスさまが弟子たちに、わたしを何者だというのか?とお問いになったときに、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。そしてイエスさまから、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と言われたのですが、そのすぐあとにイエスさまがご自分の受難を語られたので、ペトロはイエスさまをいさめ、「そんなことがあってはなりません」と言いました。するとイエスさまは、ペトロに向かって「サタン、引き下がれ、あなたはわたしの邪魔をする者」と言われました。
 また、最後の晩餐の時、イエスさまが受難を予告なさると、ペトロは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26:35)と言いました。しかしその数時間後、ペトロは他の弟子たちと共に逃げていき、さらに大祭司の館で、おまえもイエスの仲間だと言われたとき、「そんな人は知らない」と3度も言って、イエスさまのことを否認しました。
 他にも枚挙にいとまが無いほどのエピソードがありますが、要するにペトロはおっちょこちょいで失敗の多い人であると言うことができます。そうしますと、この大事なときにペトロが大勢の人の前で演説して、大丈夫かいな?と心配になるのは、私だけではないでしょう。そのかつてのペトロと、この時のペトロの違いは何でしょうか?
 それは、イエスさまの十字架と復活を経て、イエスさまの愛と赦しを知ったこと、そしてこの時聖霊に満たされたことです。それによってペトロは変わりました。人間は自分の力で変えることができなくても、聖霊のお力によって変わることができることを証明しています。

     朝の九時

 さて、物音を聞きつけて集まってきた人々の中には、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」(13節)と言ってあざける者もいたと書かれています。
 この時の弟子たちの光景を想像してみましょう。弟子たちは聖霊に満たされて、様々な国の言葉で、つまりいろいろな外国語で神の偉大な働きについて語り始めました。この時集まっていた弟子たちの集団が120人で、全員がそれぞれ異なる外国語で語っていたとしたらどうでしょう。聖霊に満たされたのですから、喜んだ表情で語っていたでしょう。ある者がエジプトの言葉、ある者がリビアの言葉、ある者はメソポタミアの言葉、ある者はアラビアの言葉で、それぞれが同時に語っているのです。‥‥しかも喜んだ顔で。
 それは騒々しかったでしょうし、同時に勝手に訳の分からない外国語をしゃべっているのですから、想像すると、やはりそれは酒に酔っているように見えたとしても不思議ではありません。そこで、ペトロが他の使徒たちと共に立って「声を張り上げ」て話し始めました。そこにいる人々みんなに聞こえるように、大声で語り始めたのです。
 15節「今は朝の九時ですから、酒に酔っているのではありません」。世の中には、朝酒をする人もいるでしょうけれども、普通はそうではない。しかしもっと肝心なことは、「朝の九時」というのは、マルコの福音書によれば、イエスさまが十字架にかけられた時刻が朝の九時でした。そうすると、朝の九時に聖霊が降ったというのは、それはイエスさまの十字架のお陰であるということをなんとなく暗示しているようにも読めます。
 そしてペトロが語ったのは、この出来事が起こったのは、預言者ヨエルの預言の成就であるということでした。すなわちこれは、なにかおかしな現象が起こったのではなく、何か新しい宗教を作ろうというのでもなく、旧約聖書に於ける神の約束が果たされたということなのだ、ということです。

     預言の成就

 17節〜21節でペトロが語っているのは、旧約聖書ヨエル書3章(新共同訳・旧約1425頁)の引用です。ここに集まっているユダヤ人皆が知っている旧約聖書のヨエルの預言だと。
 17節で「終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」と神は言われた。この「終わりの時」の「時」は、一瞬の時ではありません。原文は複数形です。すなわち、「何時」という一瞬の時ではなく、「時代」ということです。だから、聖霊が注がれてこの世が終わるというのではなく、聖霊が注がれて、終わりの時代が始まるということです。最後の時代です。
「わたしの霊をすべての人に注ぐ」と神はヨエルを通して預言しておられた。ここが旧約の時代と新約の時代の決定的な違いです。旧約聖書でも聖霊は存在し、注がれました。ただし、特別な人だけに聖霊が注がれました。
 その一例が、もう旧約聖書サムエル記上10章9〜10節です。ここには、イスラエルの最初の王としてサウルが選ばれたときのことが書かれています。サウルは、預言者サムエルを通して神さまによって選ばれました。そしてサウルに聖霊が激しく降ってサウルは他の預言者と共に預言をしました。なお聖書サムエル記上10章10節には「預言する状態になった」と日本語に訳されていますが、これは間違っていて、本当は「預言した」です。その辺の事情は週報の「牧師室より」に書いておきましたので、あとからお読み下さい。とにかくサウルは聖霊が与えられて預言した、つまり神の言葉を語ったのです。またもちろん、旧約聖書に登場する預言者もまた聖霊が注がれた人です。
 そのように、旧約聖書では、預言者とか、特に神のご用のために選ばれた人だけに聖霊が注がれました。しかし、預言者ヨエルの預言は、「わたしの霊をすべての人に注ぐ」という神さまの預言でした。これは旧約聖書と全く異なる点です。特別な人に聖霊が与えられるというと、「ああ、自分は無関係だ」ということになります。しかし「すべての人に」と言えば、それは「この私にも」ということになります。これは全く新しい時代の幕開けです。それが終わりの時代であるということです。
 そして聖霊がすべての人に注がれることになった結果、「あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」。この息子とか娘とか、若者とか老人とか書かれているのは、要するにすべての年齢の人が、ということを言いたい表現です。そのあとの「僕やはしため」もそうです。そしてこの幻とか夢とかいうことも、神さまの与える幻、神さまの与える夢、ということです。そしてそれは預言とほぼ同じ意味になります。そのように、すべての人が、あらゆる立場の人が、神の聖霊を受けるようになる。そして預言する、神の与える夢や幻を見るようになる、と。そのヨエルの預言が今、このように成就し始めたのだということです。
 20節の「主の偉大な輝かしい日」というのは、メシア=キリストの再臨のことを指しています。そしてそれは世の終わりの日でもあります。「太陽は暗くなり、月は血のように変わる」‥‥これはメシアが来る前の、産みの苦しみを言っていると言えるでしょう。そのようにして神は、終わりの日に備える準備をさせるのであると。
 これがヨエルの預言したことであり、それが今ここで成就し始めたのだと言っているのです。人々がキリストを信じ、キリストに心を向けるためにです。

     イエスによって始まった

 そのヨエルの預言を引用したあと、ペトロは22節〜24節で、それはイエスによってもたらされたということを続けて語ります。終わりの時代が始まり、すべての人に聖霊が注がれるようになった。それはイエスさまの十字架と復活によってもたらされたのであると言っているのです。
 こうして、イエスさまの十字架と復活を通して聖霊が与えられ、旧約聖書の預言が成就し、終わりの時代が始まった。世の終わり、神の救いの完成へ向かっていく時代が始まった。それは全く新しい時代である。そういう宣言がなされています。

     聖霊を受けるには

 さて、「終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」というヨエルの預言ですが、では私たちは聖霊を受けるにはどうすればよいのかと思われるでしょう。
これは次の次の会の個所になるのですが、ペトロの説教を聞いた人々が、2章37節でこう尋ねています。「兄弟たち、私たちはどうしたらよいのですか?」するとペトロは38節でこう答えています。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」‥‥「賜物として聖霊を受ける」という言葉は、直訳すると「ただで聖霊を受け取る」となります。すなわちそれは、神さまからの贈り物であるということです。
 そうすると、イエス・キリストを信じて洗礼を受けた者は聖霊を受け取っているはずです。そのように申し上げると、「えっ?自分は受け取っていないよ」と思う方がおられるでしょう。しかしそれは気がついていないだけです。自分が聖霊をいただいたことに気がついていない。それでは受け取らなかったのと同じことになってしまいます。
 たとえば、12月は大掃除の季節でもありますが、大掃除をしていて、押し入れの中などを片付けていると、箱の中からすてきなお皿が出てきた、というようなことがあったりします。そしてそのお皿は、むかし知人からいただいた物であったことを思い出す。そのお皿はたしかにずっと家にあったのです。しかし忘れてしまったままにしておいたので、それは持っていなかったのと同じことになります。
 それと同じことです。イエス・キリストを信じて洗礼を受けた時、聖霊を受け取っている。ところが、そのことを知らないまま過ごしてきたので、それは受け取らなかったのと同じことになってしまっているのです。
 そうするとそれは、旧約聖書の時代と同じになってしまいます。相変わらず旧約の時代に生きていないでしょうか?‥‥相変わらず「目には目を、歯には歯を」の世界、赦しのない世界、憎しみと不安の世界に。また、聖霊を受け取っていないと思っているということは、自分はひとりぼっちで神さまから見放されていると思っているということです。愛されていないと思っているということです。あるいはまた、無力な何もできないという世界に。それは古い時代、旧約の時代です。それではイエスさまを信じて洗礼を受けた意味が無くなってしまいます。
 しかし実は、イエス・キリストを信じて洗礼を受けたとき、聖霊をいただいていた。聖霊なる神さまが共におられるようになったのです。無力なわたしを聖霊なる神さまが、カバーして下さるようになった。御言葉を悟らせ、夢を与え、幻を与え、どんなところにも共に歩んで下さるようになったのです。
 「人にはできないことも神にはできる」(ルカ18:27)の神が共に歩んで下さるのです。そのことに目が開かれていきたいと思います。

(2015年12月6日)



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