礼拝説教 2015年11月22日 主日礼拝

「聖霊の現れ」
 聖書 使徒言行録2章1〜13  (旧約 創世記11:9)

1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
4 すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、
6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉で使徒たちが話をしているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
7 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。
8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
9 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
10 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、
11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
12 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。
13 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。




     終末主日

 本日は教会暦で「終末主日」となります。アドベント(待降節)から始まる教会の暦は、この終末主日をもって終わります。終末主日は、文字通り終末を指し示しています。すなわち、この世の終わりとキリストの救いの完成、そして新しい神の国の始まりです。私たちがそこに向かって歩んでいることを心に留めさせています。
 きょう読む聖書個所は、その終わりの時代の始まりとも言うべきできごとが記されています。それが聖霊降臨のできごとです。

     キリストの救いの効力

 新しい時代の幕開けというのは、聖書で言えば旧約聖書の時代から新約聖書の時代に移ったということになります。旧約聖書から新約聖書に移るのは、新約聖書のマタイによる福音書からで、イエスさまの誕生に係わることから始まるわけですが、本当の意味で旧約から新約へ移るのはどこかと言えば、きょうの個所であると言うこともできるのです。
 厳密に言うと、イエスさまが十字架にかかって死なれたことによって、旧約聖書の時代が終わったということになります。神の掟である律法によって救われるということが無理で、それに終止符を打たれたのが十字架だと言えます。人間の罪によって、神と人間の間に深い溝が生じた。神さまのところに行けなくなってしまった。それをイエスさまが人間の罪を引き受けて十字架にかかられることによって、ご自分の命にをかけて埋めて下さいました。それで私たち人間が神さまのところに行けるようになった。それがイエス・キリストの十字架による救いです。
 そして新しい時代の始まりは、イエスさまの復活によって始ります。それが新約聖書の時代です。律法によって救われるのではなく、キリストを信じる福音によって救われる。それが新約の時代です。永遠につながる時代です。
 しかしではそのイエスさまの十字架と復活は、具体的にはどのような効果をもたらしたのかということが、きょうの個所ということになるのです。頭の中で考えるだけの救いではなく、実際に救われるということが起きる。それがきょう記されているのです。それが聖霊が与えられる、という実際のできごとです。
 教会は長い間、この聖霊をないがしろにしてきたと思います。聖霊抜きで、人間の力で何とかしようとしてきた。しかしそれでは、旧約の時代への逆戻りになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい革袋にと、イエスさまはおっしゃいましたが、日本伝道を考えるとき、今こそそのことを思い出さなくてはならないでしょう。
 旧約から新約への交代。それは、聖霊なる神さまが私たちと共に歩んで下さるようになった、ということです。さらに言ってみれば、「この命令通りできるようにがんばれ!」というのが旧約聖書の時代であるとしたら、「あなたができるように、行けるように、一緒に行こう」と主がおっしゃるのが新約の時代です。聖霊なる神さまが生きておられ、私たちと共に歩んで行かれる。聖霊の時代の幕開けです。

     ペンテコステの出来事

 本日の聖書の聖霊降臨が起こった場所はどこか。2節に「彼らが座っていた家中に」とありますので、どこかの家と思われてきました。伝説では、この家は最後の晩餐のおこなわれた家の2階の広間だと言われてきました。それは現在のエルサレムの旧市街地の南西部、ダビデの墓の近くの立派な石造りの家だと言われています。
 しかし私は、それはなんか変だなあと思ってまいりました。なぜなら、聖霊降臨の出来事によって多くの人々が野次馬となってその家に詰めかけているからです。さらに41節を見ると、使徒ペトロの説教を聞いてキリストを信じて洗礼を受けた人がその日三千人いたと書かれているからです。いくらなんでもそんなに多くの人々が、一軒家に、しかもその2階の広間に詰めかけたとは考えにくい。わたしもエルサレムに行ったときその家に行ってみましたが、どう考えても変です。仮に路地に野次馬があふれたと考えたとしても、そんなに人が集まるスペースはない。
 すると今回調べていたら、新約聖書学者の織田昭先生が、この「家」とはエルサレムの神殿のことだとおっしゃっておられるのを見つけました。この120人ほどの弟子たちの集団は、エルサレムの神殿の回廊に集まっていたのだと。これでようやく納得できました。クリスチャンになって以来の30年ぶりの納得です。ここで使われている「家」という意味のギリシャ語は、エルサレムの神殿を指す使われ方をしているところがあります。それでこの「家」とは、エルサレムの神殿のことである、と。それならば、物音を聞いて数千人の人々が集まって来ることも、その人々の前でペトロが説教をすることも可能です。
 ときはちょうど、五旬祭。ギリシャ語でペンテコステです。それは大麦の収穫を感謝し、小麦の刈り入れが始まろうとするときにおこなわれる祭りです。とくにこの祭りには、海外在住のユダヤ人たちがエルサレムに戻ってきたと言われています。弟子たちの集団はエルサレム神殿という「家」に集まって、ペンテコステの祭りの礼拝をし祈りをささげていたと思われます。
 「突然」と2節に書かれています。それは人間の予想を超えて、神さまがなさったことをあらわしています。そして「激しい風が吹いてくるような音」と書かれています。「ような」ということは、激しい風が吹いている音に似ているけれども同じではないということになります。他にたとえようがないわけです。「天から聞こえ」と続きます。この「天」も、空ということではないでしょう。天の国、神の国から聞こえたということです。そうとしか表現しようがないのです。
 そして「炎のような舌」が分かれて現れ、そこに集まっていた弟子たちの集団120人の一人一人に留まったという。これも「炎」でもなく「舌」でもない。しかしそうとしか表現できない現象だということです。いずれにしても、人間の表現の限界を超えている。しかしそのようなことが突然起こったということです。

     聖霊に満たされ

 そして彼らは、「聖霊に満たされ」たと書かれています。聖霊に満たされるとは、いったいどういうことを言っているのか。「満たされる」という意味のギリシャ語は「いっぱいにする」という意味でもあります。一人一人が聖霊でいっぱいになった。聖霊は神さまです。それがいっぱいになった、満たされたということは、聖霊なる神さまが一人一人とその集まりを支配した状態だと言えます。
 しかし聖霊なる神さまが支配したといっても、それは自分の人格がなくなって、聖霊に乗っ取られたということではありません。我を失ってしまった、ということではありません。なぜなら、14節からのペトロの説教を見れば分かります。
 そうすると、聖霊に満たされた、聖霊に支配されたということは、自分が自分でありつつも、聖霊によって支配され、聖霊の与える良いものでいっぱいになることである。そう言うことができます。聖霊の与える良いものとは、平安であり、愛であり、喜びであり、感謝であり‥‥ということです。すばらしい状態です。
 さらにそれだけではなく、神の力を発揮します。この時でいえば、自分たちの知らない外国語で神を讃美する言葉を語ったのです。弟子たちは、ほとんどがイスラエルの一地方のガリラヤから一歩も出たことのない人々で、もちろん外国語はおろか、ガリラヤ方言しか語ることのできない人たちでした。それが突然聖霊に満たされて、知らなかった外国語で神をほめたたえる言葉を語り始めた。それは聖霊の力によるのです。聖霊が、弟子たち一人一人の人格を保ったまま、そういう力を一人一人の内側で発揮した。

     聖霊とは

 さて、聖霊とは何でしょうか。それはキリスト教では、父・子・聖霊という三位一体の神の一人格(位格)です。
父なる神は、天地宇宙の造り主で、全能の神です。そしておもに天使を通して語られます。そして私たちの目で見ることはできません。子なる神はイエスさまのことで、私たちと同じ人間となられ、この地上を人として歩まれ、その姿を目にすることができました。聖霊なる神は、霊ですから見ることはできません。そして、人間の内側から力をあらわされる方です。
 こうしてみると、父なる神が天から見ておられ、キリストが共に歩まれ、聖霊はわたしたち一人一人の内側から働きかけられる。そして、このとき弟子たちの内側で聖霊が働き、神の与える良きものと能力を発揮したということです。弟子たちが超能力を身につけたのではありません。聖霊が弟子たちの中で働いておられるのです。したがって、主人公は聖霊です。それがこの終わりの時代の主役であり、福音です。
 キリスト教は、長いあいだ聖霊を中心としない信仰が続いてきたと思います。その結果、まるで旧約聖書の時代に逆戻りしたかのようになり、キリスト教が形骸化し、歴史的に過ちを重ね、伝道の不信を招いてきました。聖霊を認めなければなりません。この日の聖霊降臨の結果、おおぜいの野次馬が集まってきました。聖霊が働いた結果です。

     世界へ

 聖霊の賜物にはいろいろあります。今日の出来事では、知らなかった外国語を語らせた。これは異言の賜物とも言われます。いろいろある聖霊の賜物、力のうち、このペンテコステの日、なぜ外国語を語らせるということを聖霊はなさったのでしょうか?
 それは、世界へ向かってキリストの福音を宣べ伝えよ!ということでしょう。旧約はイスラエルの宗教でした。しかし新約は世界に向かって開かれました。新しいイスラエルである教会によって、世界にキリストの福音が宣べ伝えられる。聖書の新しい始まりであることを、聖霊も証しされているのです。
 きょう読んだ旧約聖書の個所、創世記11章9節では、人間が高慢になってバベルの塔を築いたので、神が人間の言葉を乱され、世界に散らばるようにされたことが書かれています。人間の罪によって人間は一つではなくなったことを現しています。それをもう一度、一つにされようとなさる。そのための聖霊であると言えます。
 神が人と共に働かれるようになる。聖霊が共におられる。私たちの内側から、聖霊が力を与えて下さる。これから弟子たちは、聖霊に頼って世界に出て行き、キリストの福音を宣べ伝えるのです。

     聖霊に満たされるには?

 この聖霊降臨は、イエスさまの昇天から10日目に起こりました。イエスさまが約束して下さった聖霊ですが、弟子たちはいつまで待てば聖霊が来られるのか、知りませんでした。ですから、一日経ち、二日経ち‥‥と待っている間に、待てば待つほど、弟子たちの祈りはいよいよ切実になっていったことでしょう。そしていよいよへりくだっていったことでしょう。
 イエスさまがいなければ、何もできなかった弟子たちです。ですからそのイエスさまが天に行ってしまわれて、あと頼りはイエスさまが約束して下さった言葉、聖霊が与えられるという約束だけでした。だからいよいよ切実に、へりくだって、一つとなって祈り求めていたことでしょう。そしてそのへりくだって、ただ神の聖霊を下さいという姿勢になったときに、聖霊が来られたのです。
 私たちも聖霊に満たされるためには、そのようになる必要があります。自分たちの無力を知って、ただ聖霊なる神さまの力を期待する。そこに聖霊の働きが現れます。

(2015年11月22日)



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