礼拝説教 2015年11月15日 主日礼拝

「明日への備え」
 聖書 使徒言行録1章15〜26  (旧約 士師記21:17)

15 そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。
16 「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。
17 ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。
18 ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。
19 このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。
20 詩編にはこう書いてあります。『その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ。』また、『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』
21-22 そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」
23 そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、
24 次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。
25 ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」
26 二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。




     今なすべきこと

 ラグビーというスポーツは、日本ではどちらかというとマイナーなスポーツだったと思いますが、先にイギリスで行われたラグビーのワールドカップで日本が活躍したことにより、一躍注目を集めています。活躍したと言っても、日本は予選で敗退したわけですが、予選で優勝候補の南アフリカに勝ったことにより、まるで奇跡が起きたかのように世界中で話題となったことは記憶に新しいことです。それぐらいラグビーというスポーツは、番狂わせというものの少ないスポーツだそうで、だからこそ日本チームが予想外の成績をあげたことが注目されたようです。
 中でも五郎丸歩(ごろうまる・あゆむ)選手は、ボールをキックするときのその独特のポーズから、一気に人気者となりました。しかし、日本チームが活躍した陰には、他の国のチームのおそらく何倍もの厳しい練習を積み重ねてきたのだそうで、それが結果につながったのだそうです。
 日本チームが帰国後、五郎丸選手があるテレビ番組に出演して、あるエピソードを語ったそうです。それによりますと、前の日本代表監督であったジョン・カーワン氏から、「お前は過去を変えることができるか?」って訊かれて、それはできませんと答えたそうです。すると次に、「お前は未来を変えることができるか?」って言われて、「はい」って答えたら「ノー」って言われたそうです。そして、「お前が変えなくちゃいけないのは今だ」と。今を変えないと未来も変わらないし、あまり先を見ずに今の時間を大切にしろと。それが胸に刺さったそうです。そして五郎丸選手は、「ビジョンを持つことも大事ですけど、結局は目の前のことの積み重ねが将来の自分の夢だったりに繋がる」と訴えたそうです。(ラグビー日本代表選手・五郎丸歩、livedoor ニュース、テレビ東京「FOOT×BRAIN」(7日放送分))
 たしかにそうだなと思いました。私たちは過去を変えることはできません。しかし未来は変えられるような気がする。しかし考えてみると、未来を自分の力で変えることはできません。変えられるとすれば、それは「今」だけです。その「今」自分がどうするかで、未来も変わってくる。だから「今」が問題です。
 聖書に入りますが、きょうの聖書個所を読みますと、そういう思いがいたします。イエスさまが頼りであったのに、そのイエスさまが天の父なる神の国に行ってしまわれた。そのとき、聖霊が降るのを待っているようにイエスさまはお命じになられました。しかしその聖霊はまだ降っていません。そのような「今」、弟子たちは何をなすべきなのか。聖霊到来に備えて、今、何をしておくべきなのか。その答えがきょうの個所であると思います。

     12という数字

 15節で、そのときの弟子たちの集団が約120名であったと書かれています。意外に多いように思われませんか。120名というと、だいたいこの逗子教会の礼拝に集まっている人数ぐらいです。その人々が、イエスさまの約束された聖霊が来られるように、一つとなって熱心に祈っていたのです。そして使徒ペトロが提案して、使徒をひとり補充することになったというのがきょうの個所です。イエスさまがお選びになった使徒は12人いました。しかしイエスさまの十字架の前にユダが自殺をしたので、11人となってしまいました。それで一人選んで補充しようということです。
 このことも、単なるペトロの思いつきではなく、祈っている中で主から示されたと見るべきでしょう。ですからこれも祈りの効果であると言えます。祈り続けていると、何をなすべきかが分かってきます。それが神の導きです。皆で祈りに専念しているうちに、ペトロは主から示されたのでしょう。それが主なる神の御心だとペトロは信じ、一人補充することを提案したのです。
 しかしここで考えてみたいのは、なぜ「12」人でないとダメなのでしょうか?「11」人ではダメなのか? あるいはきょうの個所で、ヨセフとマティアの二人のうち一人を選んでいますが、二人とも使徒に加えて「13」人ではダメなのでしょうか? つまりなぜ「12」でなければダメなのか?
 聖書には、数字に意味が込められているケースがあります。「3」「4」「7」「40」などがそうです。そして「12」というのもそうです。旧約聖書で「12」と言ったら、それはもうすぐにイスラエルの12部族が思い浮かぶでしょう。イスラエルは、神によって選ばれた神の民です。ですから、「12」という数字は神に選ばれた民、イスラエルを意味しています。それは聖書では非常にこだわっていて、たとえば今日はもう一個所旧約聖書の士師記21章を読んでいただきましたが、そこはイスラエルの中にとんでもないことが起きて、その結果、イスラエル12部族の中の一つのベニヤミン部族が失われるかもしれないことになったことが書かれています。そのときに、イスラエルの他の部族は、なんとかしてベニヤミン部族を回復して、12部族を保とうとするのです。さて、そのように「12」という数は、神の民の数字と言えます。
 さらにペトロたちは、かつて12使徒をお選びになったのがイエスさまであったことを思いだしたでしょう。そしてなぜイエスさまが「12」人を使徒として立てられたのかを考えたことでしょう。それは、神の民イスラエルが12部族であったように、今度はそのイスラエルに代わる新しい神の民を作られるためであったのではないかと、悟ったのではないかと思います。すなわち、旧約聖書の神の民がイスラエル、そしてイエスさまの十字架と復活を経て、新しい神の民を作られる。それが教会であるということです。それはイスラエルという民族、血のつながった民族ではなく、イエスさまを信じることによる信仰の民です。
 その象徴が12という数字です。そして22節でペトロが述べているように、使徒とは、教会の指導者であるだけではなく、主イエスの復活の証人です。それで彼らは、洗礼者ヨハネの時から十字架と復活の時までイエスさまに従ってきていた、ユストというヨセフとマティアの二人を立てた。洗礼者ヨハネの時からというのは、イエスさまが世に現れたときからということで、イエスさまがなさった出来事が何であったのかを最初の時から証言できる人が、11人の使徒たちの他にはこの二人であったということになります。イエスさまが何をしにこの世に来られたのか、何をなさったのか、そして十字架を経て復活された。そのすべての証人です。

     くじを引く

 ヨセフとマティアの二人は、それまでの12使徒と同じく、イエスさまの働きの最初の頃からイエスさまに従ってきていました。その二人のうち、どちらを選ぶか。ここで弟子たちの集団がとった方法は、くじを引くということでした。もちろんこれは、なにか福引きのようなものではありません。24節に書かれているように、皆で神に祈ってくじを引いています。すなわち、神の御心を問うためにくじを引いています。
 ここで注意しなければならないのはそのことです。神の御心を問うために祈ってくじを引いたということです。くじ引きがすべて神の御心を表すということではありません。もしそうだとしたら、神社のおみくじも神の御心だということになってしまいます。そうではなく、弟子たちが一つの心となって熱心に祈って神の御心を尋ねてくじを引いて、神の御心が示されたのです。
 神さまの御心を尋ねる方法はいろいろあります。たとえば現在の日本キリスト教団では、教会の役員も選挙で選びますし、教区議長も、教団議長も選挙で選びます。これは、選挙に神の御心が示されると信じることが前提となります。それを信じられなかったら、教会の中で選挙をしても意味がありません。
 実は、私も前任地の富山二番町教会で、重大な決定をくじ引きによって行うという経験をしました。富山市の市街地再開発事業によって、教会が移転を要請されました。そして市役所のほうから、移転先候補地として示された場所のうち、二つに教会員の意見が分かれました。真っ二つに分かれました。私は牧師として窮地に立たされました。そして皆と一緒に聖書を読んで祈っているうちに、神さまからくじを引くように示されたのです。多数決ではなく、くじで決めるようにです。それで特別祈祷会をしてから、くじを引いて決めました。結果として、教会は一致することができました。まさに神さまのわざでした。
 この時の弟子たちの集団は、二人のうちどちらを使徒として補充するべきか、神の御心を真剣に祈り求めてくじを引きました。そうしてマティアに当たりました。それでマティアが新しく使徒に加えられました。そうして使徒の数が12に戻りました。

     準備して待つ

 こうして準備が整いました。聖霊が来られる準備が整ったのです。そうしてペンテコステの日の聖霊降臨を迎えることとなります。
 これらのことは、私たちに大切なことを教えています。それは、私たちには準備が必要であるということです。しかもそれは神の御心にかなった準備です。ペンテコステの聖霊降臨は、イエスさまの昇天のあと、すぐに来たのではありませんでした。神の助けを求めて祈るということが必要でした。さらにきょうの聖書個所のように、神の御心を悟って、それを実行するということが必要でした。
 日本の伝道も同じかと思います。日本ではなかなかキリストを信じる人が増えないなどと嘆いていても、何にもなりません。日本の多くの人々がキリスト教会に続々と集まってくる日のために準備をしておかなければならないということを教えています。それは、まずこの時の弟子たちの集団のように一つになって祈るということです。そして、神の御心にかなう教会になるように整えておくということです。
 このことは教会だけに留まりません。わたしたち一人一人にとってもそうです。私たちが神さまの奇跡を経験したいのなら、やはり準備が必要です。まず祈る必要があります。そして、神の御心かなうように、自分を整えていくということです。それには、何が神の御心であるか、聖書を読む必要があります。そして神の御心に沿って歩んでいくことができるように、主の助けを求めるのです。
 私たちは、未来を変えることはできません。しかし主が未来を変えて下さることを信じて、今できることがある。それをするということです。どうか主の助けが、私たちにありますように。

(2015年11月15日)



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