礼拝説教 2015年11月1日 主日礼拝

「残された祈り」
 聖書 使徒言行録1章1〜14  

1-2 テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。
3 イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。
4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。
5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。
7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、
11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
12 使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある
13 彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。
14 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。




     使徒言行録

 本日から使徒言行録の連続講解説教に入ります。使徒言行録がルカによる福音書の続きであることは、最初の1〜2節を見ると分かります。最初に「テオフィロさま」と書かれていますが、テオフィロという人のために書かれたというところはルカによる福音書と全く同じです。また、「先に第一巻を記して」とありますが、これはそのルカによる福音書のことを指しています。というわけで、この使徒言行録もルカが書いたことが分かります。ルカという人は、パウロの伝道旅行に途中から同行した人で、医者でありました。
 さて、今回この使徒言行録を主日礼拝で共に読んでいこうと考えた理由ですが、この前はフィリピの信徒への手紙を読んできましたが、その前はルカによる福音書を読んできました。その続きをご一緒に読みたいというのが一つの理由です。また使徒言行録は、終わりのない物語とも呼ばれています。この物語は、現代の私たちにも続いているということができます。主イエスが昇天されてから、再臨されるまでの間の時代が使徒言行録の時であるとしたら、それは今も同じです。すなわち私たちも、また使徒言行録に新たな1頁を加えていくことができる。そう考えますと、使徒言行録を読む時、それは過去の教会の歴史を学ぶというよりも、現在の私たちの時代の教会がどうしていくべきか、そういうことを学ぶことができるのです。
 私は主によって伝道者として召されて以来、なぜ日本では伝道がなかなか進まないのか、ということについてずっと考え、答えを求めてきました。そしてその大きな理由の一つに、この使徒言行録で語られていることを軽んじてきたのではなかったか、という答えをいただくに至りました。すなわち、この使徒言行録に答えがあるということです。
 1〜2節を読みますと、「イエスが行い、また教え始めてから‥‥天に上げられた日(昇天)まで」と書かれています。これは、イエスさまが地上において行い始め、また教え始められたことは、天に上げられた日で終わった、というふうに読んでしまいがちですが、実は、「イエスさまが地上において行い始め、また教え始められたことは、今もずっと続いているが、第1巻のルカによる福音書では、天に上げられた日までのことを書いた」とも読めるのです。今も続いているんです。イエスさまが行い始め、教え始められたそのことは。
 「終わりのない記録」と呼ばれるこの使徒言行録。それはキリストの再臨まで続いています。何かわくわくしてきませんか。ご一緒に読んでまいりましょう。

     イエスの最後の言葉

 さてきょうの個所は、ルカによる福音書の最後のところと重なっています。3節では、イエスさまは十字架の死から復活なさってから、40日間この地上で姿を見せられ、弟子たちに教えられたことが書かれています。そのイエスさまの地上における最後の教えは、二つの事柄にまとめられると思います。
 一つは「聖霊による洗礼(バプテスマ)」の予告です。もう一つは、聖霊によって弟子たちはイエスの証人となり、世界に出て行くという予告です。
 しかし弟子たちは、6節に書かれているようにイエスさまに尋ねています。それを読むと、弟子たちはイエスさまが復活した時も、いまだにイスラエル王国が再び独立して栄えることを夢見ていることが分かります。すなわちそれは、復活されたイエスさまが地上に理想世界を作ってくれると、弟子たちは期待しているということになります。それに対してイエスさまは、それがいつかということは知らなくてよいということをおっしゃっている。この聖書には書かれていませんが、実は8節のイエスさまの言葉の前には、「しかし」とか「むしろ」という言葉があるのです。つまり、この世に理想の国ができるということよりも、あなたがたに聖霊が降ることが大事であるということなのです。
 そうして聖霊が降って、弟子たちは「わたしの証人」となると。イエスの証人ということの意味は、22節を見ますと「主の復活の証人」ということになっています。すなわち、イエス・キリストが復活して、生きておられることの証人となるのであると。そのために、4節に戻りますが、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」と、聖霊を待つようにお命じになっています。
 こうして天に帰られる前のイエスさまは、「聖霊」を強調しておられます。聖霊、聖霊です。イエスさま中心から、聖霊中心に移ろうとしている。
 私が東京神学大学に在学中、新約聖書の教授は松永希久夫先生でした。その松永先生が講義の中で、「使徒行伝(口語訳聖書の言い方)は聖霊行伝である」とおっしゃいました。すなわち、使徒行伝は使徒たちが主人公なのではなく、聖霊が主人公なのであると。使徒言行録は、実は使徒たちがすばらしいことを行った記録ではありません。聖霊なる神さまが、このような小さな弱い使徒たちを用いて働かれた、という記録です。そしてそれは同様に私たちについても言えることです。自分はダメでも、聖霊なる神さまがこの私たちに働かれ、用いられるのだということです。

     祈って待つ

 さて、イエスさまは天に昇られました。地上を去って行かれたのです。なぜでしょうか?
 それは、代わりに聖霊が来られるためです。(ヨハネ16:7)「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなた方のところに来ない」とかつてイエスさまはおっしゃいましたが、その「弁護者」というのが聖霊のことです。
 いっぽう、残された弟子たちはどんな思いだったことでしょうか。この弟子たちは、イエスさまがいないと何もできないような弟子たちです。かつてイエスさまに招かれて弟子となりました。すべてを捨ててイエスさまの弟子となった。しかし十字架を前にして、彼らはイエスさまを見捨てました。挫折したのです。しかし十字架で死なれたイエスさまが復活されて、再び弟子たちは喜びにあふれ、歩み始めたばかりです。またイエスさまと共に歩んでいけるかと思ったら、イエスさまは天に昇って行かれた。
 茫然自失の状態だったでしょう。また、イエスさまなしで生きて行かなくてはならないのか?‥‥そんな不安な気持ちになったことでしょう。残された弟子たちにとって、頼みの綱はイエスさまが残された約束の言葉だけです。それが聖霊が降るということでした。そしてその聖霊が来られるのを待ちなさいと言われた。だから待つしかありません。イエスさまの言葉を信じて待つしかありません。ですから彼らは待ちました。14節を見ると、使徒たちは、他の弟子たち、婦人の弟子たち、そしてマリア様と共に集まって待ちました。15節を見ると、その人たちは全部で120人ほどであったと書かれています。
 彼らはただぼーっとして待っていたのではありません。「熱心に祈っていた」と書かれています。この「熱心に」と日本語に訳されている言葉は、「ひたすら」とか「専念する」という意味の言葉が使われています。ですから、ここでいう「熱心に」とは、「ひたすら祈りに専念していた」という意味になります。なぜそのようにひたすら祈りに専念していたのでしょうか? それは私たちが熱心に祈る時のことを考えてみると分かります。私たちがひたすら熱心に祈る時というのは、どういう時でしょうか? ふだんあまり祈らない人でも、本当に困った時、切羽詰まった時は、熱心に祈るのではないでしょうか?
 「困った時の神頼み」です。これはあまり良い意味で使われない言い方ですが、わたしはけっこうなことだと思っています。逆に言うと、本当に困った時に神様に頼まないようなことでは信仰とは言えません。また、本当に困った時に頼りにならない神様なら、そんな神様は信じてもムダです。困った時は、あれこれと思い煩わないで、熱心に神様に祈りましょう。私たちが信じる神様は、生きておられる神様であり、私たちのつたない祈りにも耳を傾けて下さる神様だからです。
 だからこの時、弟子たちは本当に困ったのです。イエスさまが天に帰ってしまわれて、本当に心細かったのです。切羽詰まった状態です。だから、みんな一つになって熱心に祈った。イエスさまが「待っていなさい」とおっしゃったが、不安なんです。不信仰なんです。だから祈るんです。祈りによって神様がそんな弱い者を支えて下さるのです。

     祈りと神

 弟子たちは、イエスさまの次の言葉を思い出しながら祈ったことでしょう。
(ルカ 11:9-13)「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
 さて、こんなにもイエスさまは、聖霊、聖霊と指し示されたのに、現代の教会では「聖霊」はどこに行ってしまったのでしょうか。ためになる良いお話を聞くことはあっても、あるいは道徳や倫理のお話を聞くことはあっても、あるいは理想社会をつくろうとか、社会変革をしようという話しを耳にすることはあっても、「聖霊」が中心となるお話を聞く機会が非常に少ないように思います。あるいは、教会というとマジメではあるけれども、なにか難しくて、近寄りがたいような印象が世間の人にあるとしたら、それはなぜなのか。福音書では、イエスさまのおられるところ、どこでも感動と喜びがあったわけですが、それが教会にないとしたらなぜなのか。
 それは聖霊を認めていないからだと言うことができます。聖霊は神さまです。神さま抜きで、何もかも人間の考えで考え、人間の力でやろうとする。しかし聖霊がおられるのです。イエスさまは天に帰られたけれども、代わりに聖霊なる神さまが来て下さった。その聖霊がおられるならば、イエスさまがおられた時と同じように、神様の働きが起こり、感動があり、喜びが生まれるはずです。
 120名の人たちが一つとなって集まって熱心に祈り続けました。そしてペンテコステの聖霊降臨が起こったのです。聖霊降臨の前には、そのような熱心な祈りがあったのです。そのように、聖霊の働きを知りたいのなら、祈らなければなりません。そして祈りとは、誰でもできることです。何の資格も要りません。何の条件もありません。イエス・キリストの名によって祈る。祈り始める。そこに聖霊の働きが現れてきます。

(2015年11月1日)



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