礼拝説教 2015年10月18日 主日礼拝

「終わりの言葉」
 聖書 フィリピの信徒への手紙4章21〜23  

21 キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たちに、よろしく伝えてください。わたしと一緒にいる兄弟たちも、あなたがたによろしくと言っています。
22 すべての聖なる者たちから、徳に皇帝の家の人たちからよろしくとのことです。
23 主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。




     「終活」

 「しゅうかつ」という言葉があります。「しゅうかつ」といえば昔は「就活」と書き、就職活動のことを指していました。しかし最近はちょっと違っているようで、「終活」と書く「しゅうかつ」がブームになっているようです。この「終活」という言葉は、調べますとどうやら「週刊朝日」から生み出された言葉のようです。2012年の新語・流行語大賞でもトップテンに選ばれたそうです。
 では「終活」とはなにかというと、それはエンディングノート(自分の経歴・思い出、財産、友人の連絡先などを記しておく)を作ったり、自分のお葬式をどうするのか準備をしておく、またお墓を決めておく、自分の荷物を片付けるなど、自分の死の準備をすることだそうです。なぜ終活がブームになってきているかというと、その背景には核家族化があり、または子どもにそういうことを任せることが期待できないような時代になったということがあるようです。
 しかし考えてみますと、そのように終活をしたとして、それで本当に死の準備をしたことになるのかと思います。もっと大切なことは、この世の自分の肉体の行き先を決めておくことよりも、自分の霊の行き先はどこなのか?誰に自分の霊、命をゆだねるのか?ということに違いありません。そこを決めておくということこそが、本当の終活だと言えます。

     最後の言葉

 しばらくご一緒にこの礼拝で読んでまいりましたフィリピの信徒への手紙も、今日で最後となりました。
パウロの書きましたこの手紙は「喜びの手紙」とも呼ばれます。すでに学んできましたように、その喜びとは、すべてのことが順調に進んでいるので喜ばしいという意味で喜びの手紙なのではありません。現実はむしろその逆です。パウロは無実なのに、ただキリストを宣べ伝えたことによって捕らえられ、囚人となっています。この手紙の宛先であるフィリピ教会にも、まちがった教えが入り込み、教会が混乱しつつあります。また教会内にも対立が生じていた。そういう、まことに喜ばしくない状況です。
 しかし!、にもかかわらず!、イエス・キリストに目を留め、キリストを信じるところに喜びがある。本当の喜びがある。それゆえパウロは「喜びなさい」と命じ、喜びの手紙と呼ばれるのです。
 21節に「聖なる者たち」という言葉があります。これはクリスチャンのことです。「すべての聖なる者たちに、よろしく伝えて下さい」とパウロは書いています。「よろしく」というのはあいさつの言葉です。日本語では「よろしく」という言葉の意味は、辞書を調べますと「うまいぐあいに。」「好意をつたえてもらうときや、今後の交際をたのむときなどの あいさつのことば。」とあります。ギリシャ語(アパスパゾマイ)では、別れの挨拶、別れを告げる、という意味になります。すなわち、日本語では、出会った時も「よろしくお願いします」と言いますが、ギリシャ語では別れのあいさつとなります。
 ただ、あいさつと言っても、ここでは単なる儀礼的な言葉なのでしょうか?‥‥そうは思えないのです。というのは、この時のパウロの置かれている状況を考えてみると、パウロは未決の囚人であり、このあといつローマ帝国の法廷で死刑判決が下されるかも分からないからです。そうしますと、パウロがここで別れのあいさつの言葉である「よろしく」と言っている時、そこには今生の別れの意味も込めて言っているのではないかと推測されます。
 たしかにここでは、パウロから「よろしく」と言っているだけではなく、パウロのそばにいてパウロに奉仕しているクリスチャン兄弟たちからもよろしく。そして、すべてのクリスチャン、および皇帝の家の人たちからもよろしくと、書き加えています。この「皇帝の家の人たち」というのは何かというと、それはローマ皇帝の家族という意味では必ずしもありません。ローマ皇帝の家来なども含むような言葉だそうです。しかし、わざわざそういう言葉をここで入れているのはなぜかと考えると、今やキリストの福音伝道が、パウロのいるローマでも確実に前進していることを伝えているのでしょう。
 「よろしく」という言葉に戻りますが、ともかくパウロは、単に儀礼的な別れのあいさつを記していると言うよりも、もうこれで最後となるかも知れない、という思いを込めて、この「よろしく」という言葉を書いていると読めるのです。そしてこれは実際、パウロだけの問題でもなく、ローマ皇帝による迫害が始まれば、ローマにいるクリスチャン兄弟姉妹たちも同じ運命をたどることになるかも知れない。そういう意味のこもっている「よろしく」であると考えることができます。

     祝祷

 私たちは、「もしかしたらこの人とは、最後となるかも」といった場合、何を語るでしょうか。たとえば、その人が不治の病に冒されて余命いくばくもないような時です。もうこれで最後となるかも知れないと分かっていても、「またね」というようなあいさつで別れるのでしょうか? 最後に何というのでしょうか?
 そんな思いで手紙の最後の最後である23節を読むと、これはいわゆる祝祷の言葉になっていることに気がつきます。
 礼拝の最後の「祝祷」ですが、これは実は祈りのようで祈りではありません。これは「祝福」なのです。キリストの代理として、神の祝福を与えるものです。それゆえ、祝祷は単なる別れのあいさつではありません。「神の祝福があれば良いなあ」というような単なるはかない希望を述べるものでもありません。それは神の祝福として、実際に効力を発揮していくものなのです。
 たとえば旧約聖書の登場人物であるイサクが、その子であるヤコブに与えた祝福を見てみましょう。創世記27章です。これは有名な場面ですが、ヤコブはイサクの次男であり、父イサクから祝福を受け継ぐはずだったのは、長男のエサウでした。しかしヤコブは母にそそのかされ、年老いて目が見えなくなっていた父イサクをだまして兄のエサウのふりをし、イサクの祝福を奪い取ってしまいました。イサクは、次男のヤコブが自分をだまして祝福の言葉を受け取ってしまったと気がついたのですが、エサウが自分も祝福してくれと泣いて頼んでも、それはできないということになりました。
 聖書では、祝福というものは、それほど具体的に神様の効力を発揮していくものなのです。言葉だけの問題ではないのです。言葉だけの問題ならば、エサウにも祝福の言葉をかけてあげれば良いわけですが、そうではない。もうヤコブが受け取ってしまったから、取り戻せない、まるで物体のように、実際の力のあるものなのです。

     祝祷の祝福

 私が祝祷の厳粛さ、そして力を実感をもって知ったのは、神学生時代のことでした。私が東神大在学中に通ったのは三鷹教会でした。当時の牧師は清水恵三先生でしたが、私が東神大に入って2年目、清水先生が53歳か54歳のとき、先生は急性骨髄性白血病で倒れました。先生が入院され、毎週主日礼拝の説教は、引退教師や清水先生と懇意の牧師、また教会信徒や、神学生もすることになりました。
 しばらくして、毎週の礼拝に先生からの手紙が届けられるようになり、それが礼拝に続いて書記役員によって朗読されるようになりました。そしてまたしばらくして、その手紙の最後に、祝祷の言葉が記されるようになりました。最初に祝祷の言葉が記されたのは、神学生だった私が最初に説教した時の礼拝でした。先生が入院されてから10通目の手紙でした。その手紙の最初のほうで、先生は、私が夏期伝道実習先に高知県の香長伝道圏に決まったことに触れて「良いところに当たった」と書かれました。地方の小さな教会が協力して教会形成と伝道を進めていることを見てきてほしいと書かれていました。続いてご自分の病院での現況報告が書かれていました。そして最後に、「主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の交わりが、いつまでもありますように。」と記されていました。
 そのような祝祷は、牧師以外が三鷹教会の講壇に立った時の手紙に記されていました。それが読み上げられると、いつしか、みな「アーメン」と唱和するようになりました。それは祝祷、すなわち神の祝福というものが、礼拝になくてはならないものであることを実感させられると共に、そして教会員に実際に力を与えるものでした。
 先生の入院が長期にわたり、回復がかなわず、その命も長くないことが察せられるようになると、いよいよその手紙の最後の祝祷が厳粛なものになっていきました。そしていよいよみな、「アーメン」と力を込めて唱和するようになりました。そして実際に力を与えていったと思います。

     祝福を与える

 今日は旧約聖書は、申命記34:1を読んでいただきました。これは、モーセの最後を記した個所です。40年間にわたってイスラエルの民を率いてきたモーセ。その旅の目的地である約束の地に入れないことになったモーセ。どんなに無念だったことでしょう。どんなに約束の地に足を踏み入れたかったことでしょう。しかし、モーセは神を信じるがゆえに、この前のところの33章でイスラエルの民に祝福を与えて生涯を終えました。そしてすべてを神にゆだねて、この世の旅を終えました。人々に祝福を与えて、世を去ることができたのです。神を信じていたからです。
 パウロは最後の23節の祝祷の中で、「恵み」という言葉を使っています。恵みというのは、神の祝福を受ける資格のない者であるにもかかわらず、与えられるから「恵み」と言うのです。パウロ自身がそうでした。かつてはキリスト教会を激しく迫害した男でした。しかしただ神のあわれみによって、救っていただいた。救われる資格がないのにもかかわらず、救って下さった。イエス・キリストによって資格を与えられたのです。一方的に。それを恵みというのです。
 私たちもまた救われる資格がないのに、イエスさまによって救われました。恵みによって救われたのです。私たちはまた祝福を受ける資格がありません。しかし、それもイエスさまの十字架のゆえに、受けることができるようにして下さった。恵みです。資格のない者であったパウロが主イエスによって救われ、祝福を与える者となった。私たちも神の祝福を与える者として歩んでまいりたいと思います。

(2015年10月18日)



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