礼拝説教 2015年10月4日 主日礼拝

「ささげる恵み」
 聖書 フィリピの信徒への手紙4章15〜20  

15 フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。
16 また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。
17 贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。
18 わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。
19 わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。
20 わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。




     献金の目的

 前回も学びましたように、フィリピの教会は囚人となっている使徒パウロを支えるために、献金を届けました。パウロが世界宣教の第一線で働いてきたが、今や囚人となっている。そのパウロを支えたのです。そしてその献金というものは、神さまに献げたものであるということをご一緒に考えました。
 さて、ではなぜ神さまがささげものを必要とするのでしょうか? 神さまは全能なる方ですから、何も必要とはされないのではないでしょうか? だとしたらなぜ神さまに献げるということが必要なのでしょうか?
 それは神の御心を成し遂げるために必要であると言うことができます。旧約聖書を見てみますと、旧約聖書には、その年の農作物の収穫の十分の一を神さまに献げました。これがいわゆる十分の一献金につながっているわけです。また他にも感謝のささげものなどがありました。これらは神を礼拝する場所である幕屋、神殿ができてからは神殿に持っていきました。そして神殿で仕える祭司やレビ人に渡しました。そのようにして、神殿で神を礼拝する奉仕に当たる祭司とレビ人を養ったのです。
 またそれらの献げ物をすることによって、イスラエルの民の共同体を守ったと言うことができます。言い換えれば、イスラエルの信仰を守ったということができます。
 イスラエル人はのちにユダヤ人と呼ばれるようになりましたが、ユダヤ人は古くから世界の各地に行って商売し、外国に住む人々がいました。ところが外国に住むようになっても、ユダヤ人はユダヤ人として生活していました。その地の宗教に染まらないんですね。聖書の神さまを信じ続ける。そうして、アブラハムから4千年以上経った現代になってもユダヤ人はずっと天地の造り主なる神さまを信じ続けているのです。これはまさに神の奇跡と言えます。
 先週28日(月)、銀座教会で「日本の伝道を考えるシンポジウム」がありました。私にも出席するようにとの誘いがありましたので、出かけてきました。その中で印象に残ったのは、日本バプテスト連盟牧師で青山学院大学教授のF先生の発言でした。F先生は、今までに三つの教会を開拓伝道で作ったそうです。それはすごいことです。そしてそれらの教会で、「300年先を考えた教会形成」ということを教会員に言ってきたそうです。つまり、300年先にこの教会が建っているためにはどうしたらよいか、ということを考えてもらってきたというのです。
 しかしF先生が最近長崎に行った時に、あるカトリックのクリスチャンがこう言ったそうです。「うちは400年続いたキリスト教の家です」と。その人の先祖は400年前にキリシタンとなり、伊達政宗の命令でヨーロッパに行った支倉常長と同行したそうです。ところが日本に帰ってきてみると、徳川幕府がキリスト教を既に禁止していた。それで子孫は明治まで隠れキリシタンとして信仰を受け継いできたと言ったそうです。そうすると、300年先を考えた教会形成ではなく400年先を見据えた教会形成にしなけりゃならんのではないかと思ったそうです。
 いずれにしても私は、ハッとさせられました。私はどのように自分の家族について考えていただろうか。また、自分が牧会している教会についてどのように考えていただろうか。せいぜい10年か数十年の単位でしか考えていなかったのではないか、と。
 キリストの再臨があって世の終わりがまだ来ない場合、私たちは自分の家族が、そしてこの逗子教会が400年続くために、自分は何ができるか。そのように考えた時に、あらためて「ささげる」ということが尊いこととなってまいります。それはまさに神さまのご用のために他なりません。

     人を通して働く神

 もう一度戻って、なぜ神さまに献げる必要があるのか、ということです。それは、いろいろな答え方があると思いますが、一つ言えることは、神は私たち人間と共に働かれるということです。神は一人芝居をなさろうとはしません。もちろん神さまは全能ですから、お一人ですべてのことがおできになります。しかしそうなさろうとはされないのです。神を信じた人と共に働くことを望んでおられます。神は神を信じた人を通して力を表される。そのことは聖書を読んでいると分かります。
 たとえばこの手紙を書いた使徒パウロ。パウロは伝道者としてアジア、ヨーロッパを股にかけてキリストの福音を宣べ伝えてきました。神さまが人間を使わないで、キリストを信じるように人間を作りかえるのではありません。神は、神を信じる伝道者パウロを通して、キリストの福音を宣べ伝えられたのです。そのように、神さまは人間を通して働かれます。
 この礼拝もそうです。神さまが直接全員に語りかけるのではありません。聖書を通し、人間を通してメッセージを語ろうとなさいます。賛美もそうです。天使が伴奏を演奏するのでもなく、天使が賛美を歌うわけでもありません。最も美しい賛美と言うことで言えば、天使が直接さんびをしたほうが美しいのでしょう。しかし神はそうなさらない。私たち不完全な人間のつたない演奏や声を通して、賛美させようとなさいます。
 なぜ神さまは、私たち人間と共に働こうとされるのでしょうか?
 それは、私たち人間が神を知るようになるためであると言えるでしょう。また、私たち人間が本当に神を信じるようになるためであると言えるでしょう。そのことについて自分で考えてみたいと思います。もし神さまが、人間の手を通さず、すべてお望み通りやってしまうとしたらどうでしょうか?‥‥そのときは人間の働きは不必要になります。人間はテレビを見ているかのように、神のなさることを見ているだけ。怠け者になってしまうことでしょう。
 あるいは反対に、神さまが何もなさらないで、人間だけですべてのことをやらなければならないとしたらどうでしょうか?‥‥今度は疲れ果ててしまうでしょう。そして神を信じることができなくなってしまうでしょう。
 神さまは、神さまを信じる人間と共に働かれるのです。そのことを望んでおられるのです。私たちが神に頼り、神を信じるようになるためにです。
 あのモーセを見ても分かります。イスラエルの民を率いてエジプトを脱出しようという時、エジプトの王の軍隊が追いかけてきました。前は海、後ろからはエジプトの軍隊に挟まれ、絶体絶命の危機を迎えました。そのとき主は、モーセに持っている杖を海の上に差し伸べるようにお命じになりました。神さまは、モーセに杖を差し伸べさせなくても、海を二つに分けることがおできになったはずです。しかし主は、モーセの持っている杖を海の上に差し伸べるようにお命じになりました。そして海が二つに分かれ、人々は現れた海の底を通って、対岸に逃れて行くことができました。
 このこともまた、主なる神さまが、神を信じる者と共に働かれることを示しています。神さまは、モーセが神の言葉に従うことをもって奇跡を起こされたのです。このようにして私たちも、神の御言葉に従っていくことをもって、神を知ることができます。そして神にささげると言うことは、神に頼ることの証しとなります。

     豊かな実

 フィリピ教会の信徒たちは、キリストの福音伝道のためにパウロに献金を送りました。そしてパウロがそれにたいして「ありがとう」と感謝を述べるのではなく、フィリピの教会が神にささげるようになったことを喜んでいるということを前回申し上げました。そして今日の聖書の17節の中で、「あなたがたの益となる実を望んでいるのです」と述べています。神さまに献げたことによって、あなたがたの益となる実が期待できると。何かここだけ読むと、いわゆる御利益宗教のようにも聞こえます。
 むかし私が北陸に居ました時に、金沢のある教会の牧師が言ったことを思い出します。あるときその教会の礼拝に、キリスト教ではないある宗教団体の会堂長の人が出席したそうです。そして礼拝が終わってから、その牧師の説教に感心したそうです。そしてこう言ったそうです。「うちの宗教では、病気が治ったとか、お金が儲かるということを言わなければ誰も来なくなる。しかしキリスト教では、そんな話しをしないのにみんな真剣にお話を聞いている」と。たしかにそうですね。
 さて、ではこの17節でパウロが述べている「あなたがたの益」とはいったい何でしょうか? 単なる現世利益ならば、献金とは単なる投資であるということになるでしょう。たくさん献金したらたくさんお金が儲かるというのなら、それは献金ではなく単なる投資です。では、ここで言っている「あなたがたの益となる実」とは何でしょうか?
 このことを考える時に、先週申し上げた私のことの続きを申し上げたいと思います。私たち家族の初任地は能登半島の奥のW教会でした。そこで、中部教区の謝儀援助を受けながらも、生活していくのが大丈夫かと心配してくださる方々がいました。
 さて、そういう中でいくつもの助けがありました。そのうちの少しだけご紹介いたします。一つは、同じ中部教区の愛知県のある教会が、W教会の牧師のためにと言って2ヶ月に一度2万円、つまり毎月にすると1万円を送り続けてくれたことです。しかもそれはその教会の会計から支出していたのではありません。その教会の有志の人が、困難な教会を助けるための祈祷会を持ち、その祈祷会に参加した人から献金を募って、それを送られるのです。すなわち、神さまへの祈りと共に送られてくる。尊いことだと思いました。
 また、ある遠方にいるクリスチャンが、こちらもまったく何の条件もつけずに毎月1万円をW教会の牧師家族のために献げ続けてくれました。二つだけ例を挙げましたが、たとえばそういうことがありました。私はお金の話しをしたいわけではありません。私は、そこに神さまの働きを見たのです。もちろん、これは現世利益というのにはほど遠い小さな出来事でしょう。しかし何よりも大きな益であったのは、そこに神さまの働きを見たということです。
 これは私たち個人的なことばかりではありませんでした。W教会は小さな教会ですから、支出が少ないのにもかかわらず会計はいつもぎりぎりでした。時には赤字となることもありました。しかし長く会計役員をして下さっているご婦人が、よく言いました。「うちの教会の会計は不思議や。足らん、足らんと思っても、年度末にはちゃんと満たされる」と。神さまの働きが見えたのです。
 そのように、「あなたがたの益」というのは、大きなことは、神さまが生きておられることが分かってくるということです。天地の造り主、全能の父なる神さま、そして私たちを救うために十字架にかかって下さったイエスさま、そして聖霊なる神さま。この三位一体の神さまが、この私たちを愛して下さっているということが次第に分かってくるということです。
 神を知る。これは小さなことではありません。イエスさまは、最後の晩餐のあとの祈りの中でこのように父なる神に祈っておられます。「永遠の命とは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)
 神を知る。主が生きておられることを知る。そしてその主がこのわたしたち一人一人を愛しておられることを知る。私たちが、私たち自身を主のご用のために献げていった時、このことが分かってくるというのは、何にも代えがたいことであると思います。

(2015年10月4日)



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