礼拝説教 2015年9月20日 主日礼拝

「心に留めるべきもの」
 聖書 フィリピの信徒への手紙4章8〜9  

8 終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。
9 わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。




     モーセの顔が

 今日は敬老合同礼拝で、年に一度の教会学校の子どもたちと大人の合同礼拝を守っています。まず最初に読んだ旧約聖書の出エジプト記34章29節をもう一度見てみましょう。「モーセがシナイ山を下った時、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下った時、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。」
 モーセの顔が光を放っていた、輝いていたというのです。しかもそのことを自分では気がつかなかった。なぜ顔が光っていたのでしょうか? それはそこにも書かれているように、神と語っていたからです。神さまのすぐ近くに行って、神さまと会って、神さまのお話を聞いたからです。モーセはシナイ山という山に登って、神さまと会ったのです。だから光り輝いたのです。
 それは自分の顔が自分で光ったのではありません。神さまの光をもらったのです。ちょうど月が光るようにです。月は自分では光ることはできません。月は太陽の光を反射して光っています。それとおなじように、モーセは神さまの光を受けて、光っていたのです。聖書には、「神は光であり、神には闇が全くない」(1ヨハネ1:5)と書かれています。神さまが光であり、モーセはその神さまに会って、神さまの所にずっといたので、神さまの光をもらって光ったのです。そのように、神さまのほうを見ていると光り輝くということが分かります。
 ここにいる人たちで、7月26日(日)の主日礼拝に出席された方はご存じであるわけですが、私の前任地の教会に瀧キヱ姉という今年110歳になった人がいるというお話をいたしました。ところがその瀧さんが、そのあと8月16日(日)に亡くなったのです。今年の2月に我々が富山に行った時、突然瀧さんの家を訪れてキヱさんにお会いしました。そのとき、たいへん喜んでくださって、「これは夢だ。夢に違いない」と言ってくださったことが忘れられません。
 ふつう、若い人が輝いているといいます。しかし本当の輝きというものは、年齢は関係ありません。瀧キヱさんは輝いていました。102歳の時、あんまりお元気で生き生きとしておられるので、NHKテレビが取材に来ました。そしてキヱさんは、神さまのことイエスさまのこと教会のことばかりしゃべるので、しかたなくNHKは教会に取材に来たほどでした。キヱさんは、毎日たくさん聖書を読んでいました。そして心にとまった聖書の言葉をノートに書いていました。そして毎日、教会員のことを祈っていました。そして祈った教会員の名前もノートに書いていました。つまりキヱさんは、神さまの方を向いていたのです。それで光り輝いていました。多くの教会員に力と希望を与えていました。

     心を留める

 フィリピの信徒への手紙4章8節を見てみましょう。「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。」
 「心に留めなさい」と書かれています。心に留めるとは、どういうことでしょうか。心に留めるとは、注目するとか、覚えるという意味です。そちらの方をよく見ているということです。
 私たちは、何を心に留めるかで人生が違ってきます。たとえば私は、小学生の時、大人になったら漫画家になりたかったんです。なぜ漫画家になりたかったかといえば、漫画ばかり読んでいたからです。「オバケのQ太郎」「エイトマン」「ゼロ戦隼人」「おそ松くん」「鉄人28号」‥‥などなどです。漫画ばかり読んでいたので、漫画にあこがれました。そして漫画家になりたいと思いました。
 高校生になると、弁護士になりたくなりました。なぜ弁護士になりたくなったかというと、そのころ正木ひろしという弁護士が活躍していました。強い者をくじき、弱い者を助ける弁護士。あこがれました。それで弁護士になりたいと思いました。そして大学の法科へ入りました。すると弁護士を目指している学生たちがいました。弁護士になるための司法試験を目指している学生は、一日中勉強ばかりしていました。いっぽうでは、勉強もしないで遊んでばかりいる学生がいました。両方を見て、私は勉強しないで遊んでばかりいる学生が良いな、と思いました。そちらを見たんですね。それで弁護士になることはやめました。そして遊んでばかりいる学生を見習いました。
 そのように、なにを見て心に留めるかで、人生は違ってきます。なにを「良いな」と思って見ているかです。

     良いことに心を留める

 私が小学生の時、毎朝川に入って川の中のゴミを拾っているおじさんがいました。長靴を履いて川に中に入り、汚いごみを拾って片付けていました。なかなかできることではありませんね。反対に、道ばたにポイポイごみを捨てる人がいます。皆さんは、どちらが良いと思って心に留めますか? 道ばたにごみを捨てるのは楽で良いな、持って帰らなくていいから良いな、と思いますか? それとも、みんなが捨てたごみを拾って集めるなんて、偉いなと思いますか?‥‥良いと思って心に留めたほうに、私たちは似てくるんです。

 もう一度8節を見てみましょう。「すべて真実なこと、すべて気高いこと(尊敬すべきこと)、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なこと(評判の良いこと)、また徳や賞賛に値すること」‥‥これは良いことばかりですね。このすべてはイエスさまに当てはまります。イエスさまはこのとおりの方です。ですから、イエスさまを心に留めれば一番良いのです。イエスさまを見つめているんです。心で。
 9節には、パウロが「私から学んだこと‥‥を実行しなさい」と言っています。それはいったいなんでしょうか。パウロが、自分は立派だからこの私に見習いなさい、と言っているんでしょうか? 違います。パウロが立派なのではありません。パウロが信じているイエスさま、パウロがすがっているイエスさまが立派なのです。だから、パウロが良い人なのではありません。パウロが心に留め、頼っているイエスさまはすばらしい!のです。

     杉山さん

 私が尊敬する人がいました。むかし、私が就職して社会人になったのですが、体を壊して会社を辞め、静岡の地元に帰った時のことでした。ぶらぶらしている私を拾ってくれたのが島田教会員の杉山さんでした。彼が事業を始めることになり、私は誘われて一緒に仕事をすることになりました。二人だけの小さな会社が始まりました。
 杉山さんはとても物静かで、やさしい人でした。しかし忍耐強い人でした。それはいずれも私にはないものでした。私は短気で忍耐がなく、物静かではない人でした。だからこんな人になりたいと思いました。どうして彼はいつも落ち着いていられるのか。彼は神さまを信じていました。本当に信じていた。つまり、すがっていました。彼はこの事業は神さまに献げた仕事だと言いました。
 会社にぜんぜん注文が来ない時がありました。注文がないとお金も入りません。やがて会社はつぶれてしまうでしょう。子どもたち、あなたがたのお父さんお母さんもそういうきびしい毎日を送っているんですよ。仕事が来ない、注文がない。恐ろしいことです。いくらがんばっても仕事が来ない。困りました。そんなとき杉山さんはどうしているかと見ると、聖書を読んで祈っていました。神さまにすがっていたんです。神さまのほうを見ていたのです。
 私は、そんなことで注文が来るんだろうかと不思議に思いました。神さまに祈って、神さまに助けを求めて、どうなるんだと。ところが不思議なことに、しばらくするとまた注文が来るんですね。会社はつぶれませんでした。逆に本当に仕事が忙しい時がありました。でも杉山さんは、必ず教会の礼拝を守るんですね。そうやって会社も守られていったんです。
 その杉山さんももう天国に行ってしまいました。でも私の心の中で光り輝いています。それは杉山さんが、神さま、イエスさまの光を映していたのです。私たちはだれでも、光である神さま、イエスさまを見つめていけば、その光をいただいて、輝くことができるんです。

(2015年9月20日)



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